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灰色の空
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灰色の雲が空一面に広がるある日のこと。山田遼はオフィス街の片隅にある公園のベンチで、一人ため息を吐いていた。仕立ての良いグレーのスーツに、足下にはよく磨かれた革靴。膝の上には老舗ブランドのビジネスバッグを抱えている。
腕時計で時間を確認すると、胃の辺りがキリキリと痛んだ。
今日は午後一で取引先での打ち合わせがあった。打ち合わせは順調に進み、予定よりも早めに終了した。このまま帰宅して、たまには家でゆっくりと過ごしたい。そんな考えが浮かび、小さく首を振った。若手ならばまだしも、営業部の責任者を任されている人間がそんなことをしていいはずがない。これからまた、会議で部下たちに活を入れなくてはならないのだから。
半年前、大学時代からの友人が経営するIT企業へと転職をした。
長年営業の部署を支えていた責任者が退職し、代わりの人間をすぐに見つけないといけなくなった。お前になら、安心して任せられるんだけどな。そんな誘い文句に、二つ返事で首を縦に振った。
それまで務めていた大企業ではそれなりの結果を残していたが、社員数が多すぎるためか、役職は係長止まりだった。このまま中間管理職を続けるよりも、多少企業の規模が落ちたとしても、組織のトップ挑戦したい。幸いなことに、給与面の待遇が悪くなることもなかった。それに、あの部署を変えられるのはお前だけだ、という友人の期待に応えたいとも思った。
転職前のことを思い出し、再び深いため息がこぼれる。
部長を任された第二営業部は、遼の予想を悪い意味で上回っていた。
部下たちは目先の小さな利益を追い求めるだけで、成績はここ数年ずっと横ばい。安定しているといえば聞こえがいいが、向上心や危機感が欠如しているともとれる。
既存の取引先に頼り切っていると、少しのことで突然限界を迎えてしまうこともある。
転職してすぐのころは、定期的に飲み会を開き、諭すような形でそう説明していた。しかし、何度繰り返しても、現状を改めようとする部下はいなかった。それならば、と方針を変えた。毎週部内会議を実施し、一人一人に現状を報告させ、見通しの甘さを強い口調で指摘する。不満を口にしていた者たちも、自分が誰よりも働いて手本を見せているうちに、面と向かっては口を噤むようになった。それでも、陰で色々と言われているのは、知っている。
多少の無理をしてでも会社の利益に貢献すれば、いずれは自分自身を救うことにもなる。なぜ、そんな簡単なことも理解できないのか。胸のうちに、ふつふつと憤りが込み上がった。
「おやおや、せっかくそのベンチに座っているのに、ため息ばかりだなんて」
不意に声が耳に入り、遼は顔を上げた。
いつの間にか目の前に、自分よりも十歳以上は年上に見える男性が立っていた。
黒い中折れ帽に黒い羽織袴。白い手袋をはめた手には、アヒルの頭を模したグリップの杖。
オフィス街にはあまり見かけない格好に唖然としていると、老紳士は眉を寄せて首をゆっくりと横に振った。
「嘆かわしい。じつに、嘆かわしい事態だ」
あまりにもうさん臭く見えるが、取引先の重役という可能性もゼロではない。そう思い、遼はすぐに立ち上がった。
「申し訳ございません。どうやらお邪魔をしてしまったようで」
「いやいや、そんなことはないのだよ。君はそのまま、座っていたまえ」
「はあ。左様でございますか」
再び腰を下ろすと、老紳士は満足げに微笑んだ。
「そうそう、それでよろしい。ときに、君はこの公園がどのような場所かご存じかな?」
「どのような場所か、ですか?」
投げられた言葉を繰り返すと、微笑んだままの頷きが返ってくる。
公園の由来など、気にしたこともなかった。しかし、改めて見回すと、入り口にあった文字の掠れた表札も、中央にある大理石の噴水も、座っているタイル張りのベンチでさえ、趣があるように感じる。
「不勉強で申し訳ございません。ここは、歴史のある公園なのですか?」
「歴史があるかどうかなんて、大したことではないのだよ。そんなことより、ほら、ご覧」
老紳士はそう言いながら、ステッキを持ち上げて空を指す。遼は促されるまま、顔を上げた。
そして、目を見開いて言葉を失った。
灰色の空一面に、鮮やかな紅色の花が咲いていた。
「ほうほう、これは見事なものだ」
いつの間にか隣に座っていた老紳士が、声を弾ませた。
「あの、これは一体……?」
「ふむ、一見椿のようにも見えるが……、ほら、あれをご覧。花びらがハラハラと散っているから、山茶花だろうな」
「いえ、花の種類を聞いているのではなく……、なぜ、空に咲いているのですか?」
「おや、空に咲いては、いけないのかな?」
「いけない、ということはないと思いますが……」
「それならば、いいじゃないか」
「そう……、ですね」
遼ははそれ以上の質問を諦め、再び空に目を戻した。
灰色の空には次々と紅色の山茶花が咲き、花びらを散らしていく。
「いやはや、山茶花というのはじつに美しいねぇ。それに、雪の降るような寒い中でも花を開く強さもある」
「そう、かもしれませんね」
「そうだろう、そうだろう。ほら、あれなんか八重咲きだよ。じつに華やかだねぇ」
「はい……」
気のない返事をするうちにも、山茶花が咲いては散っていく。
ひとしきり眺めているうちに、新たな花は咲かなくなった。そして、最後の一輪が紅色の花びらを散らすと、空は再び灰一色に戻った。
一体今のはなんだったのか。改めて問おうと遼は顔を横に向けた。しかし、老紳士の姿は既にない。
そのとき、ポケットにしまっていたスマートフォンから、微かに震えを感じた。取り出してみると、画面に部下の根岸加奈子から届いたメールが通知されている。
定例会議の会議室が変更になったというメールに、分かった、とだけ返信をして、ベンチから立ち上がった。
今のは一体なんだったのだろうか?
遼の頭の中には、部下に活を入れなくてはという使命感の代わりに、大量の疑問符がひしめいた。
腕時計で時間を確認すると、胃の辺りがキリキリと痛んだ。
今日は午後一で取引先での打ち合わせがあった。打ち合わせは順調に進み、予定よりも早めに終了した。このまま帰宅して、たまには家でゆっくりと過ごしたい。そんな考えが浮かび、小さく首を振った。若手ならばまだしも、営業部の責任者を任されている人間がそんなことをしていいはずがない。これからまた、会議で部下たちに活を入れなくてはならないのだから。
半年前、大学時代からの友人が経営するIT企業へと転職をした。
長年営業の部署を支えていた責任者が退職し、代わりの人間をすぐに見つけないといけなくなった。お前になら、安心して任せられるんだけどな。そんな誘い文句に、二つ返事で首を縦に振った。
それまで務めていた大企業ではそれなりの結果を残していたが、社員数が多すぎるためか、役職は係長止まりだった。このまま中間管理職を続けるよりも、多少企業の規模が落ちたとしても、組織のトップ挑戦したい。幸いなことに、給与面の待遇が悪くなることもなかった。それに、あの部署を変えられるのはお前だけだ、という友人の期待に応えたいとも思った。
転職前のことを思い出し、再び深いため息がこぼれる。
部長を任された第二営業部は、遼の予想を悪い意味で上回っていた。
部下たちは目先の小さな利益を追い求めるだけで、成績はここ数年ずっと横ばい。安定しているといえば聞こえがいいが、向上心や危機感が欠如しているともとれる。
既存の取引先に頼り切っていると、少しのことで突然限界を迎えてしまうこともある。
転職してすぐのころは、定期的に飲み会を開き、諭すような形でそう説明していた。しかし、何度繰り返しても、現状を改めようとする部下はいなかった。それならば、と方針を変えた。毎週部内会議を実施し、一人一人に現状を報告させ、見通しの甘さを強い口調で指摘する。不満を口にしていた者たちも、自分が誰よりも働いて手本を見せているうちに、面と向かっては口を噤むようになった。それでも、陰で色々と言われているのは、知っている。
多少の無理をしてでも会社の利益に貢献すれば、いずれは自分自身を救うことにもなる。なぜ、そんな簡単なことも理解できないのか。胸のうちに、ふつふつと憤りが込み上がった。
「おやおや、せっかくそのベンチに座っているのに、ため息ばかりだなんて」
不意に声が耳に入り、遼は顔を上げた。
いつの間にか目の前に、自分よりも十歳以上は年上に見える男性が立っていた。
黒い中折れ帽に黒い羽織袴。白い手袋をはめた手には、アヒルの頭を模したグリップの杖。
オフィス街にはあまり見かけない格好に唖然としていると、老紳士は眉を寄せて首をゆっくりと横に振った。
「嘆かわしい。じつに、嘆かわしい事態だ」
あまりにもうさん臭く見えるが、取引先の重役という可能性もゼロではない。そう思い、遼はすぐに立ち上がった。
「申し訳ございません。どうやらお邪魔をしてしまったようで」
「いやいや、そんなことはないのだよ。君はそのまま、座っていたまえ」
「はあ。左様でございますか」
再び腰を下ろすと、老紳士は満足げに微笑んだ。
「そうそう、それでよろしい。ときに、君はこの公園がどのような場所かご存じかな?」
「どのような場所か、ですか?」
投げられた言葉を繰り返すと、微笑んだままの頷きが返ってくる。
公園の由来など、気にしたこともなかった。しかし、改めて見回すと、入り口にあった文字の掠れた表札も、中央にある大理石の噴水も、座っているタイル張りのベンチでさえ、趣があるように感じる。
「不勉強で申し訳ございません。ここは、歴史のある公園なのですか?」
「歴史があるかどうかなんて、大したことではないのだよ。そんなことより、ほら、ご覧」
老紳士はそう言いながら、ステッキを持ち上げて空を指す。遼は促されるまま、顔を上げた。
そして、目を見開いて言葉を失った。
灰色の空一面に、鮮やかな紅色の花が咲いていた。
「ほうほう、これは見事なものだ」
いつの間にか隣に座っていた老紳士が、声を弾ませた。
「あの、これは一体……?」
「ふむ、一見椿のようにも見えるが……、ほら、あれをご覧。花びらがハラハラと散っているから、山茶花だろうな」
「いえ、花の種類を聞いているのではなく……、なぜ、空に咲いているのですか?」
「おや、空に咲いては、いけないのかな?」
「いけない、ということはないと思いますが……」
「それならば、いいじゃないか」
「そう……、ですね」
遼ははそれ以上の質問を諦め、再び空に目を戻した。
灰色の空には次々と紅色の山茶花が咲き、花びらを散らしていく。
「いやはや、山茶花というのはじつに美しいねぇ。それに、雪の降るような寒い中でも花を開く強さもある」
「そう、かもしれませんね」
「そうだろう、そうだろう。ほら、あれなんか八重咲きだよ。じつに華やかだねぇ」
「はい……」
気のない返事をするうちにも、山茶花が咲いては散っていく。
ひとしきり眺めているうちに、新たな花は咲かなくなった。そして、最後の一輪が紅色の花びらを散らすと、空は再び灰一色に戻った。
一体今のはなんだったのか。改めて問おうと遼は顔を横に向けた。しかし、老紳士の姿は既にない。
そのとき、ポケットにしまっていたスマートフォンから、微かに震えを感じた。取り出してみると、画面に部下の根岸加奈子から届いたメールが通知されている。
定例会議の会議室が変更になったというメールに、分かった、とだけ返信をして、ベンチから立ち上がった。
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遼の頭の中には、部下に活を入れなくてはという使命感の代わりに、大量の疑問符がひしめいた。
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