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よく晴れた空
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雲一つない空が広がったある日のこと。根岸加奈子はオフィス街の片隅にある公園のベンチで、一人うな垂れていた。黒のスカートスーツ姿に、足下にはシンプルな造りをした黒いパンプス。膝の上には黒い革製の鞄、右手には黒いスマートフォンを握りしめている。
加奈子は画面に表示された時刻を見て、深いため息をついた。
今日は午前中に取引先での打ち合わせがあり、外出していた。幸いにも打ち合わせは難航することもなく、正午ぴったりに昼食を終えることができた。その後、勤め先にほど近いこの公園でぼんやりと過ごしていたが、もうすぐ戻らなければならない。メイクでごまかした血色の悪い唇の端が、みるみるうちに下がっていく。
勤め先のIT企業は、決していわゆるブラック企業というわけではなかった。残業もたしかに多いが、その分の給料はしっかりと支払われるし、年二回の賞与もある。それに、有給休暇も繁忙期でなければ、誰に文句を言われることもなく取ることができていた。つい、最近までは。
半年前、所属する第二営業部の部長が転職し、新しい人物が中途採用でやってきた。新部長は、部下はとにかく叩けば成長する、という考えの持ち主だった。
ミーティングで取引先との交渉が難航していると報告があれば、「なにをやっている。だからお前はいつまでも平社員のままなんだ。恥ずかしくないのか」と怒鳴り声で叱責し、新規案件を受注しても、「それが当たり前だ。なんでもっといい条件で取ってこない」とまた怒鳴り声を上げる。有給休暇を申請しようものなら、小言では済まない罵りを受けることになる。ときには、サービス残業を共用するような言葉もあった。
しかし、当の本人がいつも遅くまで残り、休日にも率先して取引先の重役とゴルフや釣りへと出かけ、それなりの金額の新規案件を持ってくるため、面と向かって逆らえる人間はいなかった。
それまでの部長は良くも悪くも事なかれ主義で、第二営業部は部員たちから不平不満が出ない代わりに成績はここ数年ずっと横ばいだった。そんな状況を打破しつつあるため、上層部の人間たちは、多少のことに口を出せずにいる。中堅社員の加奈子も、厳しい意見や熱意ある行動で空気を変える人間が一人くらいいる方がいいかもしれない、と前々から考えてはいた。
しかし、限度というものもある。
現に大半の同僚たちは目に見えてやる気を無くし、後輩たちからは転職をしたいという相談も受けている。なんとかフォローをしているが、部として立ちゆかなくなる日も遠くないだろう。
「おやおや、せっかくそのベンチに座っているのに、うつむいたままだなんて」
不意に、男性の声が耳に入り、加奈子は顔を上げた。
いつの間にか、目の前に老年の男性が立っている。
黒いシルクハットにフロックコート、手袋をはめた手にはアヒルの頭を模したグリップの杖。
あまりに仰々しい出で立ちに目を丸くしていると、老紳士は大げさに悲しそうな表情を浮かべて、首をゆっくりと横に振った。
「ああ、なんということだ。あまりにも、いたましい事態だ」
関わると面倒なことになりそうだ。
そんな思いから、加奈子はスマートフォンをスーツのポケットにしまい、立ち上がった。
「すみません。すぐに移動しますので」
「いやいや、そういうことではないのだよ。お嬢さんはそのまま座っていたまえ」
「はあ……、そうですか……」
再び腰を下ろすと、老紳士は微笑んだ。
「そうそう。それで、よろしい。ときに、お嬢さんはこのベンチの来歴をご存じかな?」
「この、ベンチの、来歴?」
投げられた言葉を繰り返すと、笑顔を浮かべたままの頷きが返ってくる。
たしかに、腰掛けているベンチは簡素な造りのものではなかった。全体が青と白のモザイクタイルで彩られ、隣には金属製の小さなパネルが設置されている。パネルに刻まれた文字はすり減っているが、目をこらすと辛うじて「空」という文字が見える。
「どなたか、有名な方の作品なんですか?」
「作った者が誰かなんて、大したことではないのだよ。そんなことより、ほら、ご覧」
老紳士はそう言いながら、ステッキを持ち上げて空を指す。加奈子は促されるまま、顔を上げた。
そして、目を見開いて息を飲んだ。
雲一つない空に、巨大な鯨が浮かんでいる。
「ほうほう、これはなかなか結構なものだ」
いつの間にか隣に座っていた老紳士が、声を弾ませた。
「あの、これって……、一体?」
「一体もなにも、鯨に決まっているじゃないか。それとも、お嬢さんには鰯にでも見えるのかな?」
「そういうことではなく……、なぜ鯨が空に?」
「おや、鯨が空を泳いだら、なにか不都合があるのかい?」
「いえ、別に……」
「それならば、いいじゃないか」
「まあ……、そう、ですね」
加奈子はそれ以上の質問を諦め、再び空に目を戻した。
鯨はときおり旋回したり、転がるように身体を回転させたりする。
「いやぁ、やはり鯨はいいものだ。見ているだけで、心が穏やかになる。そう思わないかい?」
「ええ、まあ」
「うんうん。いろんなことが、ちっぽけに思えてくるじゃないか」
「そうかも、しれません、ね」
「そうだろう、そうだろう。ほら、ご覧、宙返りをしているよ。これは、なかなかお目にかかれないんだ。お嬢さんは幸運の持ち主だね」
「そう、ですか」
気のない返事を繰り返す間にも、流線形の巨体は悠々と公園の上空を泳ぐ。
ひとしきり泳ぎ回ると、鯨は尾びれを上下にくねらせ、胸ビレをゆったりと動かしながら、公園から遠ざかっていった。その巨体がビルの合間に紛れて見えなくなると、加奈子は空から目を離し、隣へ顔を向けた。
老紳士の姿は、既にない。
そのとき、手にしていたスマートフォンが震えだした。目を向けると、昼休み終了時間の十分前を知らせるアラームが鳴っている。
加奈子はアラームを切ると、ベンチから立ち上がった。
いったい、あれは何だったのだろう?
頭の中を疑問符で埋め尽くしながら、加奈子は勤め先への道を急いだ。
加奈子は画面に表示された時刻を見て、深いため息をついた。
今日は午前中に取引先での打ち合わせがあり、外出していた。幸いにも打ち合わせは難航することもなく、正午ぴったりに昼食を終えることができた。その後、勤め先にほど近いこの公園でぼんやりと過ごしていたが、もうすぐ戻らなければならない。メイクでごまかした血色の悪い唇の端が、みるみるうちに下がっていく。
勤め先のIT企業は、決していわゆるブラック企業というわけではなかった。残業もたしかに多いが、その分の給料はしっかりと支払われるし、年二回の賞与もある。それに、有給休暇も繁忙期でなければ、誰に文句を言われることもなく取ることができていた。つい、最近までは。
半年前、所属する第二営業部の部長が転職し、新しい人物が中途採用でやってきた。新部長は、部下はとにかく叩けば成長する、という考えの持ち主だった。
ミーティングで取引先との交渉が難航していると報告があれば、「なにをやっている。だからお前はいつまでも平社員のままなんだ。恥ずかしくないのか」と怒鳴り声で叱責し、新規案件を受注しても、「それが当たり前だ。なんでもっといい条件で取ってこない」とまた怒鳴り声を上げる。有給休暇を申請しようものなら、小言では済まない罵りを受けることになる。ときには、サービス残業を共用するような言葉もあった。
しかし、当の本人がいつも遅くまで残り、休日にも率先して取引先の重役とゴルフや釣りへと出かけ、それなりの金額の新規案件を持ってくるため、面と向かって逆らえる人間はいなかった。
それまでの部長は良くも悪くも事なかれ主義で、第二営業部は部員たちから不平不満が出ない代わりに成績はここ数年ずっと横ばいだった。そんな状況を打破しつつあるため、上層部の人間たちは、多少のことに口を出せずにいる。中堅社員の加奈子も、厳しい意見や熱意ある行動で空気を変える人間が一人くらいいる方がいいかもしれない、と前々から考えてはいた。
しかし、限度というものもある。
現に大半の同僚たちは目に見えてやる気を無くし、後輩たちからは転職をしたいという相談も受けている。なんとかフォローをしているが、部として立ちゆかなくなる日も遠くないだろう。
「おやおや、せっかくそのベンチに座っているのに、うつむいたままだなんて」
不意に、男性の声が耳に入り、加奈子は顔を上げた。
いつの間にか、目の前に老年の男性が立っている。
黒いシルクハットにフロックコート、手袋をはめた手にはアヒルの頭を模したグリップの杖。
あまりに仰々しい出で立ちに目を丸くしていると、老紳士は大げさに悲しそうな表情を浮かべて、首をゆっくりと横に振った。
「ああ、なんということだ。あまりにも、いたましい事態だ」
関わると面倒なことになりそうだ。
そんな思いから、加奈子はスマートフォンをスーツのポケットにしまい、立ち上がった。
「すみません。すぐに移動しますので」
「いやいや、そういうことではないのだよ。お嬢さんはそのまま座っていたまえ」
「はあ……、そうですか……」
再び腰を下ろすと、老紳士は微笑んだ。
「そうそう。それで、よろしい。ときに、お嬢さんはこのベンチの来歴をご存じかな?」
「この、ベンチの、来歴?」
投げられた言葉を繰り返すと、笑顔を浮かべたままの頷きが返ってくる。
たしかに、腰掛けているベンチは簡素な造りのものではなかった。全体が青と白のモザイクタイルで彩られ、隣には金属製の小さなパネルが設置されている。パネルに刻まれた文字はすり減っているが、目をこらすと辛うじて「空」という文字が見える。
「どなたか、有名な方の作品なんですか?」
「作った者が誰かなんて、大したことではないのだよ。そんなことより、ほら、ご覧」
老紳士はそう言いながら、ステッキを持ち上げて空を指す。加奈子は促されるまま、顔を上げた。
そして、目を見開いて息を飲んだ。
雲一つない空に、巨大な鯨が浮かんでいる。
「ほうほう、これはなかなか結構なものだ」
いつの間にか隣に座っていた老紳士が、声を弾ませた。
「あの、これって……、一体?」
「一体もなにも、鯨に決まっているじゃないか。それとも、お嬢さんには鰯にでも見えるのかな?」
「そういうことではなく……、なぜ鯨が空に?」
「おや、鯨が空を泳いだら、なにか不都合があるのかい?」
「いえ、別に……」
「それならば、いいじゃないか」
「まあ……、そう、ですね」
加奈子はそれ以上の質問を諦め、再び空に目を戻した。
鯨はときおり旋回したり、転がるように身体を回転させたりする。
「いやぁ、やはり鯨はいいものだ。見ているだけで、心が穏やかになる。そう思わないかい?」
「ええ、まあ」
「うんうん。いろんなことが、ちっぽけに思えてくるじゃないか」
「そうかも、しれません、ね」
「そうだろう、そうだろう。ほら、ご覧、宙返りをしているよ。これは、なかなかお目にかかれないんだ。お嬢さんは幸運の持ち主だね」
「そう、ですか」
気のない返事を繰り返す間にも、流線形の巨体は悠々と公園の上空を泳ぐ。
ひとしきり泳ぎ回ると、鯨は尾びれを上下にくねらせ、胸ビレをゆったりと動かしながら、公園から遠ざかっていった。その巨体がビルの合間に紛れて見えなくなると、加奈子は空から目を離し、隣へ顔を向けた。
老紳士の姿は、既にない。
そのとき、手にしていたスマートフォンが震えだした。目を向けると、昼休み終了時間の十分前を知らせるアラームが鳴っている。
加奈子はアラームを切ると、ベンチから立ち上がった。
いったい、あれは何だったのだろう?
頭の中を疑問符で埋め尽くしながら、加奈子は勤め先への道を急いだ。
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