緋の英雄王 白銀の賢者

冴木黒

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あこがれ

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 エストレラは閉ざされた王国だ。
 国全体をぐるりと取り囲む岩山は標高が高く傾斜は急で、とても人の足で越えられるようなものではない。唯一の出入り口は、岩山に自然にできたトンネルで、そこには大昔国の誰かが施した結界が道を塞いでいる。
 年中雪が降り続くという厳しい環境の中でも、発展した魔法技術に人々の生活は守られてきた。
 地下に空洞を作り、土の改良と温度管理を行って作物を育て、家畜を繁殖させた。
 エストレラが外界との接触を断って、既に十年近く経つ。それでも人々が不都合を感じることはなかった。
 国の研究者たちは皆、今もこの冬の世界の暮らしをよりよくするために日々研鑽に明け暮れている。
 エストレラの王子、ティエンランもまたそのうちの一人だ。
 まだ成人を迎えてもいないものの、才能に恵まれた聡明な若者だった。そして底知れない魔法力を持ち、幼い頃から泣き言一つ吐かずに努力を重ねて力を制御する術を身につけた忍耐力を持ち合わせていた。
 研究室に続く廊下を行く途中、ティエンランは窓の外を眺める人の姿を見つけて駆け寄る。

「先生」

 長い銀のまっすぐな髪を背に流し、お仕着せのローブを纏ったその人は城付きの魔法使いで、ティエンランの師でもある。
 魔法以外の知識にも富み、過去にはティエンランの家庭教師を務めていたこともあった。
 性格は穏やかで、常に微笑みを湛えているような形の細い目をしている。

「シリュー先生。そんなとこでどないしたんや、空なんか見て何かあるんか?」

 窓の外に見える空は重い灰色だ。
 雪は静かに落ちて地面に積もっていく。
 珍しくもない、誰もが見慣れた光景。
 シリューはティエンランを振り返り、もう一度窓の外に視線を向けた。

「少しこの国の外の季節を思っていたのです」
「季節?」
「はい、今は三月の中頃。外の世界では、雪解けに草花が芽吹き、木々が枝に蕾をつける。動物たちは目覚め、鳥の歌声が春を告げると聞きます」

 ティエンランはふぅんと呟いて、首を傾げる。

「エストレラも地下に行けば、緑は年中見られるし、動物も少ないけどおる……また違うんか?」
「研究室に向かうところでしょう? 一緒に行きましょう。歩きながらで構いませんか?」

 研究室があるのは城の北側の棟だ。
 棟と棟はすべて廊下で繋がっていて、外へ出る必要がない造りになっている。

「今は土の改良をされているのでしたっけ?」
「うん。定期的に家畜用の草が足りなくなるのどうにかできんかなって」
「狭い土地ですからね。それに動物たちの一日の食事量は私たち人間の二十倍以上となると、なかなか深刻な問題です」
「先生は、最近あまり研究室の方で姿見んけど、なんかあったんか? 忙しい?」

 ティエンランは言って、隣を歩く師の横顔を見上げる。
 以前はよく研究室に顔を出しては、助言をくれたり、自身も研究に勤しんだりしていたのに、近頃はめっきり足が遠ざかっているようだった。

「ああ、いいえ。ただ少し」

 シリューはそこまで言って口ごもる。
 ティエンランは少しだけ考えて、シリューの袖を引いた。

「先生、ちょっと外で話さんか?」

 それぞれ衣服の内側に熱を閉じ込める魔法を施し、庭に出る。庭といっても、植え込みなどはなく、地面は白い雪に覆われていて殺風景だ。
 それでも寒さに強い木がいくつか植えられていて、二人はその間を歩きながら話す。
 吐き出す息は白い塊となって現れ、消える。
 真新しい雪の上に足跡が二人分、残されていく。

「雪は音を吸ってくれる。やからここなら人の耳を気にせんでええ。好きに話しても大丈夫」
「ありがとうございます」

 聡い子どもの気遣いに、シリューは微笑んで言う。

「ティエンラン様は、今の国の在り方をいかがお考えですか?」

 唐突な問いかけに、ティエンランは驚き目を剥いた。
 ともすれば、反逆の意ととられかねない師の言葉に戸惑う。

「どうって、言われても」
「申し訳ございません。ただ私たちが行っている研究は、本当に正しいことなのでしょうか。最近、とみにそんなことを考えてしまって」

 シリューは外壁の向こうに見える岩山を見上げて言う。
 ティエンランは黙って相手の言葉を待った。
 視線に気づいたシリューはティエンランに向き直る。

「技術の発展は素晴らしいことです。でも本当は、その土地その土地の特性に適した何かがあって、それを活かすだけで十分なんじゃないか、そう思えてならないのです」
「そうかもしれん……けど、それやと痩せた土地はどうなる? 国が貧しくなれば、苦しむのは民や」
「そう、そうですね」

 小さく言って頷くと、再びシリューは岩山を見やった。

「先生は、昔みたいに外の国と交易を再開した方がええと思うとるんか?」
「どうでしょう、私は政治に口を出す立場にありません。ですが、いえ……私はただ、移り変わる季節に憧れているだけなのかもしれません」

 シリューの横顔をティエンランは見つめる。
 薄氷のような青の目は岩山の向こう、どこか遠くを見ているように細められる。

「緑香る生命の春、激しい陽光に輝く夏、自然の美に彩られた秋、厳かで静穏の冬」

 静かに焦がれる眼差し。切ない顔。
 見ていると胸が締め付けられるようで、そっと目を逸らす。同じ方向を見やる。
 そうして、記憶の中にある春を思う。
 ティエンランも幼い頃に一度だけ体験したことがある。父について、他国を訪れた時だった。
 厳しい冬を乗り越えた生物たちが目を覚ます命あふれる大地。
 遮られるもののない、どこまでも続く空。
 喜びと安らぎの季節。
 けれどティエンランは、夏を、秋を知らない。エストレラにあるのは冬だけだ。
 外の世界にはそれらすべてが当たり前のようにある。

「ティエンラン様」

 呼ばれて振り返る。
 シリューが微笑んでいた。
 肩に積もった雪を払ってくれる。 

「そろそろ戻りましょう。頬と鼻が、真っ赤です」
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