純愛ヒート

かねざね

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千紘が統星の所で働き始めてからおよそ1ヶ月ほどが経った。
やる事は大体決まっている為、1ヶ月ともなればやる事の自然な流れは出来上がってきていた。

夜遅くまで仕事をしている事が多いらしい統星は朝が遅い。
なので千紘は普段朝食は用意する必要がなく、代わりにブランチとして軽い食事を用意する。
たまに打ち合わせなどの予定が入っていたりする時は、千紘が来る前に起きていたりもするが、基本それは疎らだ。
良一から臨機応変に出来るだけ対応して欲しい、と頼まれている為、千紘は大まかな統星のスケジュールだけは把握していた。


千紘の家から統星の家までは乗り換えを継いでおよそ30分。
前の会社とは逆方向になるが、通勤の混雑や時間は差程変わらず苦ではない。
毎朝スーツを着て通っていた駅を、今では私服で通っているのはまだ不思議な気分ではあるけれど。


今日は昼過ぎから打ち合わせがあると聞いていたが、まだ統星は寝ているらしい。
到着してから一先ずブランチの軽い仕込みを終えると、統星が起きてくるまでに散らかっているものを片付けようと手を伸ばした。

初日に片付けられていると思ったのは、どうやら良一と和真のお陰だったらしい。
昨夜は千紘の帰宅後に出掛けていたのだろうか、脱ぎ捨てられた残骸が無造作にソファに置かれている。
それら一つ一つを拾い上げ、洗濯カゴに放り込むと何だかふわりと甘い匂いが千紘の鼻孔を掠めた。

芳醇な花のような甘い香りだが、強すぎず嫌な感じはしない。
寧ろもっと嗅ぎたくなる様な、香水とはまた違った香り。
この家に居ると時折、そんな香りを嗅ぐことがある。
千紘が休んだ次の日や、後は統星が出掛けた後それは特に強く。


「……何してるんだ?」
「っわぁ!」

突然掛かった声に驚いて千紘の肩が跳ね上がる。
何もその、千紘は無意識にくんくんと手元のジャケットの襟元に鼻を当てていたのだ、傍から見たら完全に不審者だ。
慌ててそれを洗濯カゴに放り込むが、もう遅い。
一部始終を見られていたのか、半ば呆れているような統星の視線がとても突き刺さる上、問いただすだけで何も言わない統星に焦りまで出てくる。
完全な変質者の行動に呆れられているのだろうか、一部始終の行動を見られた事で羞恥心まで跳ね上がってしまい、千紘の顔は酷く熱い。
「いや…あの、」と言葉を悩んで繋ぐが、しどろもどろになっていると手の中の洗濯カゴを取り落としてしまった。
するとまた、洗濯物が空気を纏って甘い香りが鼻腔を擽った。

「なんか、甘い匂いがして…何かなと思って」
「…甘い?」
「花というか、蜜っていうか…よく小学生の頃通学路に咲いてて吸ってたツツジの花みたいな甘い…」
「いや、ちょっと待て。それはなんか論点がズレてく」

すみません、と落ちてしまったスラックスやシャツを屈んで拾い直しつつ、匂いの説明をしようとしたところ統星に止められてしまった。
論点、と言われて言葉を止めた千紘が傾げると近付いてきた統星が頭に触れてきた。
呆れていたような視線はいつの間にか何処かに消えていて、代わりに可笑しそうに笑う顔があった。

「ランドセル背負って花の蜜吸ってたのか」
「そう、ですね」

なんだか語弊が生じる言葉だが、間違ってはいない。
肯定する千紘に統星は面白いなと砕けたように笑い、どうやら怒っている様子はそこにはない。
軽蔑されたり怒られたりしないのは助かったが、けれど別のところは腑に落ちない。
美味しいんだけどな、と蜜の美味さを伝えてもきっと統星はもっと笑うのだろう。

それにしてもイケメンというのは笑ってもかっこいいのだから狡い。
初めて見た気がする統星の砕けた笑顔に、少し惚けてしまったのを撫でられる手を享受する体で千紘は誤魔化した。

「着替えてくる」

千紘を撫でた手は前髪からこめかみ、耳裏から後頭部へと滑ってから着替えるために離れていった。
熱くなっていた千紘とは対称に統星は少し低めな体温だった筈なのに、余計に暑くなってしまったと感じるのは気の所為だろうか。

少し前までは他人に触れられることを嫌悪していた筈なのに、環境が変わり心持ちも変わるとこうも受け入れ易いものなのだろうか。
統星の手に触れられるのは嫌ではない、
離れてしまった手を追い掛けるように再び寝室へと入ってしまった背中を見送ると、千紘は考えるのを止めて腕の中の籠を持ち直して洗濯機へ向かった。



朝の支度を済ませる統星に合わせてブランチの準備をする。
今日のメニューは統星がお気に入りというパン屋で購入したパンを使ったホットサンドがメインだ。
時刻はもうすぐ午前11時、ほぼ昼食時間に摂るブランチは千紘も統星と一緒に摂る様になっていた。

元々料理は得意でも不得意でも無かったが、一人暮らしの一般男性が作るメニューのバラエティなんてものはたかが知れている。
だからインターネットや雑誌、料理本と最近の千紘は毎日時間を作っては眺めて勉強をしていた。
独学ではあるものの、栄養価も考えてレシピを選び、それを作って統星へ提供するのはプレゼンの様で結構楽しい。
それに統星からお世辞でも美味しかった、と聞けば嬉しくもなる上に俄然とやる気が沸いてくる。
リクエストを聞けば「この間の」と注文までくれるようになってきたのだから、千紘の料理スキルが一人暮らし男子からレベルアップしているのは間違いなかった。

「千紘、明日居ないならさっきのサンドイッチ作り置きしておいて欲しい」
「わかりました、じゃあ温めたら食べれる様にしておきます」

片付けしているとソファで仕事の資料を眺める統星に呼び止められた。
どうやら今日のブランチは統星のお気に召したらしく、早速のリクエストだ。
ホットサンドなのだから中身を変えてみてもいいかもしれない、ハムとチーズの他にツナなども試してみようかと考える。


一通りの家事を終えると夕食の仕込みに取り掛かる。
寒くなってきた今日は煮込み料理が良いだろうと材料を揃え、足りないものを買い出しのメモに追加していく。

「千紘、買い物に行くのか」
「あ、はい。今日はシチューにしようと思います」
「分かった、気をつけて」
「はい」

買い出しの準備をしていると書斎に篭っていた筈の統星に声掛けられた。
統星に「千紘」と呼ばれる様になったのはここ最近で、初めは戸惑ったものの今では慣れた。
『俺も千紘と呼ぶ』
そんな突然の宣言をされたのは、先日統星の弟の瑛星が来た時だった。



その日は午後から良一が一人来る予定だった。
いつも通りにインターホンの呼び出しに応えて玄関へ迎えに出ると、開いた隙間から勢い良く視界に入ってきたのは良一では無く明るい髪の毛だった。

「統星兄ーーッ!」
「っ!?」

ドンッと胸に受けた衝撃で受け身もとっていなかった身体は、バランスを崩して傾くと仰向けで玄関に崩れた。
臀から背中を床に打ち付けて、痛みに顔を上げると驚きに目を見開いた顔が千紘を見下ろしている。
その後ろでは驚いた顔で良一が立ち、アララ…と声を上げているが、そこに手を貸してくれる様子はない。

「ご、ごめん!大丈夫?」

即座に慌てた様子で馬乗りの彼に肩や胸、腹と気遣う様に撫でられるが、残念だが痛めているのはそこじゃない。
良一は千紘たちの様子を眺めているだけで助け舟を出してくれる気配は未だに無く、知らない相手にどうしようかと思った矢先で「何してるんだ」と呆れた声が頭上から掛かった。
両脇から抱えられると、覆い被さる身体の下から引き摺り出すように起こされる。
抱き込まれた背中には厚い胸の感触が伝わり、驚いて首だけ後ろを振り返ると、そこには統星の顔があった。
どうしていいか分からずに戸惑う千紘と、何故だかそのまま無言になった統星と、ただ呆然とした青年の三人だったが、その微妙な場を打破したのは良一の笑い声だった。



「驚いていたときの逢沢さんの顔、面白かったなぁ」

呑気に自分で淹れたコーヒーを飲みながら良一が過ぎた事の様に零すが、場所が変わった今でも千紘は現状がよくわからない。
何故かあのまま統星に抱えられたまま、リビングまで連れてこられた千紘は、統星に抱え込まれる形でその胸に身体を預けたままで居た。
ローテーブルを挟んで置かれた二対のソファだが、良一だけがひとりで座り、何故か千紘は良一とは反対のソファに統星と青年の二人に挟まれる形で座っていた。

「まだ痛い?」
「瑛星、狭い。お前はあっちに座れ」

統星に制されても気にせず、心配そうに千紘を覗き込んでくる青年は統星の弟で瑛星といった。
今日は良一から統星の所へ行くと聞いて、久しぶりに顔を見るためについてきたのだという。
明るい髪色と統星よりもコロコロと変わる豊かな表情で、パッとみた所では兄弟と気付かなかったが、よく見ると骨格や唇の形などパーツがよく似ている。
グイグイと迫ってくる瑛星と統星に抱え込まれた状況に、それなら俺が移動しますと提案したが、何故かそれはあっさりと却下されてしまった。

結局は良一に「解放しないと逢沢さんが仕事出来ないよ」と嗜められて、渋々といった様子で統星が千紘を解放し、続いて瑛星が良一の隣へと移動したのだ。

「逢沢さんっていうの?下の名前は?」
「千紘です」
「千紘くんかぁ」

全員分のコーヒーを淹れ直して戻ると、途端に瑛星からの質問攻めに遭う。
瑛星は末っ子だからだろうか、とても人懐っこい性格をしており、見た目は髪色のせいかとても派手ではいるが、にこにことしているからだろうか近寄り難い雰囲気は無い。
統星と歳の離れた17歳で、まだ高校生なのも砕けた印象を持つ理由のひとつかもしれない。

「ねえ、ちーちゃんって呼んでもいい?」
「…流石にこの歳でそれは、」
「じゃあ、千紘くん」

それなら、と瑛星に了承をすれば隣から「千紘」と呼ばれる。
逢沢、と呼ばれることに慣れていたせいか、その違和感に返事がすぐには出てこない。
寧ろ驚きに隣に座る統星を見た。

「俺も千紘と呼んでも良いだろ」
「俺は千紘くんだし」

瑛星が呼ぶなら俺も呼ぶ、そう宣言する統星の言動は普段よりも少し幼い気がして、なんだか微笑ましくも見える。
それにやはり兄弟だからだろうか、妙に息の合った統星と瑛星のやり取りを見ているとなんだか羨ましさも出てくる。

「それじゃあ僕も千紘君って呼ぼう」
「良はダメだ」
「良ちゃんはダメ」
「えっなんで」
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