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第二章 縮む距離

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昼下がり。
会社で事務作業をしている杏の元に走ってやって来たのは紅蓮。
「すまない。ディナーに行きたいだが、国王から脅しまがいの呼び出しが入った。これに行かなければ夫という素晴らしい地位を剥奪されるかもしれない」
彼はドアを開けるなり紅蓮は単刀直入に言う。
「財務大臣と防衛大臣と祖父から電報が牧村宛に今、届いたわ」
杏は牧村から受け取った電報を片手に立ち上がって額に汗をにじませる紅蓮にハンカチを差し出した。
「今日の帰宅が22時になる。大切な話があるからベットで起きて待っていてくれ。そうじゃないと、起こすのは忍びないが、話をしたくて起きやしないかと可愛い寝顔を一晩中眺める事になる」

「南京錠を掛けておくわ」
「構わない。2人の家だ。壁の1つや2つ、壊して入ろう」
な、何をこの人は言っているの!
自分の家を壊すなんてとんでもないと言わんばかりの杏がディナーがキャンセルになって怒っていないことに紅蓮は安堵の表情を浮かべる。
「壁が壊れる音に寝てられる人なんていないわ」
「そうか」
紅蓮はあまり興味がなさそうに言うと。杏は立ちあがった。
「お昼はもう食べた?今日は近くのパン屋さんでサンドイッチを食べようと思っているんだけど一緒にどう?」
人をよこさず自分で言いに来ると言うことは、暇なのだろうと思い杏は尋ねると紅蓮は嬉しそうに口元を緩める。
「是非」
紅蓮はそう言うと杏に腕を差し出した。
「いついかなる時でも可能な時はエスコートさせてほしい」
杏は一瞬、迷ったがその腕を取ると紅蓮と歩きだした。

***
「これがパン屋か」
「ええ。旦那様は何になさいます?」
パン屋に入るとトレーとトングを杏は取ると慣れた手つきでピザパンとフルーツサンドを取る。
「パンに生クリームか・・・。これはご飯か?おやつか?」
「旦那様にとってバナナはおやつに入りますか?」
「・・・難題だな。朝に食えば飯だし、昼に食べればそれはデザートだ。これは上手いのか?」
「美味しわ。特にこのパン屋さんのイチゴとバナナのフルーツサンドは絶品なの」
真剣に答える紅蓮に杏はクスクス笑いながら進める。
「杏のご飯よりも上手い飯などこの世に存在しないことは間違いないが、杏が進めてくれるのであれば食べてみよう」
そんな紅蓮に周囲は5歩下がった。
「鬼の公爵がパン屋にいるわ。しかも鬼が甘味を食べるなんて!」
「あぁ。鬼の公爵がパンを買っている。隣にいるのは・・・。阿婆擦れ女か?」
「一昨日。杏様といえば人妻でありながらディファ中帝国の鉄鋼企業の取り締まりとホテルでご飯を食べてそこから部屋に消えたらしいぞ」
”ホテルでご飯を食べてから部屋に消えた”やましい事は何もないが噂にピクリと眉を吊り上げると紅蓮はそんな杏の肩を抱きよせる。
「国防に必要な防壁の資材を調達してくれてありがとう」
紅蓮は耳元で囁くと杏は顔を上げた。
「どうして知って・・・」
国家特別機密をなぜ知っているのか。
杏は呆然とするのだが・・・。
「高木を買収して聞いた」
「なっ!」
杏は店の前で立つ高木をパン屋の窓越しに睨みつける。
一昨日、確かに鉄鋼大商人の代表取締役会長とご飯を食べながら商談をして。
ホテルの一室で佐藤、高木、牧村を連れて契約を取り交わした。
貴族の令嬢も妻も夫以外の男と二人でご飯を食べる事はしないし、夫以外とホテルの部屋に共を付き従わせているとはいえ入ることもない。
紅蓮はサンドイッチが乗ったトレーをレジに持っていくと買い物なんて縁遠い紅蓮はクレジットカードで会計を済ませた。

天気がいいので杏のオフィスではなく公園で食べたいと言われ、紅蓮と杏は近くの公園のベンチに座る。
・・・凄い視線だわ。
それに、この夫が天気がいいから公園で食べたいなんて純粋に思うはずがない。
杏は何を考えているのかと思考を巡らせる。
「どうなさいました?」
紅蓮は眉間に深い皺を入れていた。
「由々しき事態だ」

「異物混入でもあった?」
杏は紅蓮が見つめるサンドイッチを覗き込み。
牧村は少し離れた所で佐藤、高木、田中も同じ物を食べようとしていたが杏の様子にすっと隣にやって来た。
彼女は医学にも精通しており異物混入=毒かと思い大真面目に行動したのだったが・・・。
「サンドイッチでは“あ~ん”をしてもらえない」
「なっ!」
小さな悲鳴を上げる杏に牧村は頬を染めるとさささっと杏と紅蓮から走って元の位置まで逃げ帰る。
「俺は昔、オムライスを食べなかった事を後悔している。俺は杏にずっと何かを食べさせてもらいたいと思っている」
「こ、公衆の面前で何を言っているの」
「何を慌てている。夜会でタルトやフルーツをよく馬の骨共に食わせているじゃないか」
確かに夜会ではよくキスを迫られ、その辺にあるものをその男の口に放り込んでいる。
「昼間から破廉恥だわ」
杏は頬を赤めらせて抗議をすると、そういえばと紅蓮は杏の手首を掴む。
「嫁いできた日に聞いたが、基本、昼飯は取らないようだな」
「時間がないですから」
「体に良くない。付くべき所には付いているが、もう少し全体的に肉を付けろ」
俺てしまわないかと紅蓮は杏の腕を舐めるように見つめる。
「大丈夫です。体重が減れば、発酵した麦を大量に摂取しています」
・・・発酵した麦。
麦は炭水化物だから、栄養素としては欠けるがエネルギーとしては超釣りがあうし。
しかし、発酵した麦。
紅蓮は少し考えるとある結論に至った。

ビールか。

「それは飲むと言って、食べるではない。酒は強いようだが多量の飲酒は今後、俺がいないところでは飲まないように。俺以外の男は全員、狼だと思え。万が一のことがあれば末代まで駆逐してしまう」
旦那様が1番危険よと杏は思うが懇願するように言われれば顔をぞけざる得ない。
鬼と目が合えば殺される。そんな噂を杏も信じて顔を見なかったのだが、紅蓮は顔が整っている。
「約束してくれ」
「は、はい」
「即答されると信頼性がない。心配で心配でいてもたってもいられなくなる」
紅蓮はそう言うとポケットから取り出したスケジュール帳を見る。
「来週の夜会は新婚らしく衣装の色を揃えたらどうかと国王に言われた」
杏はそんな紅蓮に少し首を傾げる。
「”新婚だからといって、浮かれて衣装の色を揃えるな”ではなかったですか?」
新婚の夫婦は色を揃える事が流行っている。
祖父は紅蓮が杏にまとわりつくことに対して、嫉妬している。
「後、呼び方なんだが」
「はい」
「公式の場での呼び方は任せるが。公式ではない2人の時は名前で呼んでくれたら嬉しい」

「・・・名前」
紅蓮は杏をまっすぐ見つめる。
名を呼んでほしい。
それは何人もの男から言われてきた言葉。
けれども・・・。
こんなにまっすぐ目を見て国王の孫娘に言ってくる人はいなかったし何よりこの人は夫。
杏は独身主義を掲げていたが、憧れがないわけでもなかった。
「き、鬼頭公爵」
顔のどこか一部分が触れそうな距離になり杏は少し後ずさる。
この結婚は紅蓮にとっては地位を確保するための結婚だった。
国王が差し出してきたのは好みではない18歳の娘だったが、実際にやって来たのが俺の好みだった姉。
しかも料理上手で明るく、優しく、聡明な女で俺と同じくらいこの国を愛している。
俺の苗字は鬼頭。鬼の頭。鬼の長。
鬼の種類は44種。人を救う鬼から人に害をなし滅ぼす鬼まで存在するいる。
俺はこの国を守るために他国の者を害した。
だから、鬼と呼ばれるようになった。
距離を詰めようとして時間を割いてくれている紅蓮には感動しているし、見かけではなく中身で好意を抱いてくれている紅蓮に杏も好意を抱きつつある。
「では・・・。そうですね。・・・紅蓮公爵」
男の人の名前を下の名前で呼んだことの無い杏は少し照れながら名前を呼ぶのだが・・・。
「名前に”称号”は不自然だろう」
「紅蓮さん」
紅蓮は杏の呼びかけに少し眉間に皺を寄せて考える。

何が問題なのだろう?
杏はそう思いながら綺麗な顔に迫られるのは悪い気はしないが心臓には悪いので紅蓮から離れようと後ろに身を引けば身を引くほど迫って来る夫に頬が赤くならないよう必死に仕事の案件を考えるが、紅蓮は目つきは鬼のように鋭く近づけは近づくほど美しさが際立つ。

「夫に“さん”は必要か?」

夫が何を考えていたのか杏は分かるが、同時に杏も少し考える。
「それは人に寄るのでは?」
「・・・俺はいらん」
杏は更に後ろに下がるとベンチの背もたれに体が引っ付き紅蓮の胸板に手を当て少し力を込めた。
「あの。私はもう後ろに下がれませんよ」
しかし、紅蓮の体は細く見えても筋肉という鋼鉄のような鎧の塊でびくともしない。
「そんなことより。名を呼んでくれないか?」
そんなことよりって!
私にとっては今、公衆の面前で美形夫に阿婆擦れ女が迫られているという構図の方が大切なのだけど!
夜会は稼ぎ時だ。
商談を普通にするのであれば、相手に日時を打診して、場所をセッティングしなければならないし。
折角時間を裂いても5分と経たず交渉決裂するときもある。
夫に一途な妻を演じてしまうと今後の交渉に不利益になるかもしれない。

「どうして名前を呼んで欲しいの?」

「愛していると思わなくても名前を呼んでもらえると好意を持っていると思う事ができるし、なにより好きな人に呼ばれたいと思うのは普通の事じゃないか?」
「今まであった家族以外の人の中では一番愛しているわ」
「そうか」
紅蓮は一瞬、嬉しそうな顔をすると杏の首筋に顔を埋めた。
「細いな。いい匂いだ」
「公園で!距離がっ!心臓が出てしまいます!」
「ぷっ。本当に色気がない。それでよく今までの悪役令嬢をやってこられたな」
紅蓮はクスクス笑うと杏は佐藤と高木を見る。
「貴方達っ何をしているの!“紅蓮”を止めなさい!」
声を掛けられた2人は夫婦がいちゃついているのを止められるものかと顔を背け、絶対に杏と目を合わさない。
なるほどな。
佐藤と高木が片っ端から今まで杏に迫りくる男を排除してきたということか。
紅蓮は名前を呼ばれたことに満足するとふっと杏から離れるとサンドイッチをご飯を食べ始めた。

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