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22.音楽が僕を捨てた
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翌日の僕は駅ピアノにも冨久屋にも行かなかった。行く気にもなれなかった。寒々としたアパートでただひたすら欝々とし、ただバイトして食べて寝るだけだった。藍からのメッセージも全て未読スルー。思うことはピアノのことと僕の右手のことばかり。黙ってじっと右手の甲を見た。何度も何度も見た。そこには6、7センチほどの白っぽい線がくっきりと浮き上がっている。これが、このただの細い線が、僕の腱を、僕の筋肉を、僕の神経を、僕のピアニストとしての生を、切り裂いた。震えながら右手を強く握りしめるとピリピリと引きつれるような痛みが走った。こんな小さな痛みしか感じないのに、あんなに弾けないだなんて。
しかしどうしたことか。音楽を捨てた、などと偉そうなことを言った僕が、わずかな期間でこんなにも音楽を強く求めるようになっていたとは。それとも、僕はもともと音楽に深く依存していたのか。だけど今、今度は音楽が僕を捨てた。僕はそう思った。その皮肉に僕は乾いた大きな声で笑った。
駅ピアノに行く気にはどうしてもなれなかった。自由でのびやかな藍の演奏を聴くのが心底つらかった。悔しくて頭がおかしくなりそうだった。嫉妬で胸が潰されそうだった。それに僕たちの動画を上げる人たちに対しても下手くそな演奏を聴かせるような醜態をさらすなんてごめんだった。
あれから二日後、僕は冨久屋に行った。妙子さんの付き添いをこれ以上サボるわけにはいかないと思ったからだ。僕は自分でも分かるくらい肩を落として、何度も踵を返そうと思いながらも開店と同時に店にたどり着く。すると、店の入り口で看板を出す妙子さんに出くわした。
僕と鉢合わせし息を呑む妙子さん。お互い何を言おうか一瞬の間が生まれる。緊張の面持ちを隠せない妙子さんが先に、辛うじて「どっ、どうぞ」とだけ言って戸を開く。僕はうなだれたまま黙って店内に入った。
いつも無表情に見える長さんの顔も緊張気味に見える。その長さんはいつものように「いらっしゃい」とだけ声をかけた。
僕が顔を下に向けたままいつもの席に着くと、長さんと妙子さんが顔を見合わせているのがわかる。妙子さんがお通しとおしぼりをそっと、というよりこわごわと出した。「熱燗と煮込み下さい」と言った僕の声はきっと石のように硬かったと思う。
妙子さんが熱燗と煮込みを出すと同時に、焦れたような声で長さんが言う。
「それで、どうだったんですか?」
どう? そんなの分かり切っているだろうに。なんともなければこんなざまになるわけないじゃないか。と僕は心の中で苦笑した。
僕はゆっくりかぶりを振る。
「そいつあ……」
と言ったきり言葉を失う長さん。
その奥で妙子さんが鼻をすする音が聞こえる。
僕は二人がなぜそんなに衝撃を受けているのかよくわからなかった。不思議と薄ら笑いが浮かぶ。僕の精一杯の強がりなんだろうか。
「いやだなあ、二人の手に何かあったわけじゃないじゃないですか、それに僕はとっくに自分から音楽を捨てていたんです。ショパンも捨てた、モーツァルトも捨てた。ベートーベンもリストもマーラーもラフマニノフもチャイコフスキーもドビュッシーもサティも…… だから音楽も僕のことを捨てたんです。当たり前のことでしょう。当然のことなん――」
俯いてそうしゃべる僕は声に詰まる。どうしたことかいつの間に涙を流していた。初めはうっすら視界がゆがむ程度だったのに、みるみるうちに木のカウンターや徳利や小鉢がぼやけ、カウンターやお猪口に水滴が落ちていく。僕は膝に手を置いたまま情けないほど涙をこぼしていた。
妙子さんは軽い足音をたてて小走りに店の奥へとかけていった。かすかにすすり泣くような声が聞こえる。僕には妙子さんがなんで泣くのかよくわからなかった。今の僕は僕の感情を持て余して途方に暮れるばかりで他の人のことを考える余裕なんてなかった。
長さんがカウンターの向こうから手を伸ばして僕の肩を掴む。
「想さん、いや入江さん。まだです。まだ終わっちゃいません。何も終わってなんかいないんです。今こう言うのは酷かも知れませんが、入江さんにはまだやれることがいっぱいあります。あるんです。ピアノだけじゃない」
僕はまたかぶりを振った。自然と声が震えてくる。
「それでも僕はッ…… ピ、ピアノがッ…… ピアノじゃなきゃッ」
最後は静かな嗚咽となり言葉にならない。
「分かっています。よおく分かっています。私だって入江さんのピアノをよく知っています。でも、それでも、今は残念で悔しいかも知れませんが、必ず乗り越えて新しい生き方を見つけるんです。必ずです、必ずですよ。あなたはまだ若いんだ。終わるには早すぎます」
長さんの声も少し鼻にかかった涙声のような気がした。でもそんな励ましを言われても困る。僕は今のこの絶望、悲しみ、寂しさに打ち負かされ押し潰されそうなのに。
「そんなの無理っ、ですっ、新しい生き方、だなんていまさらっ、僕にはピアノしか、ピアノしかなかったっ……」
「こんばんはー」
ガラガラと扉が開くと常連とは違う客の声がする。
「とにかく、気を落とさないで下さい。必ず挽回できます」
そう長さんは囁くと、僕の肩から手を放し、いつもの長さんに戻った。妙子さんは明らかに鼻声で「いらっしゃいませ」と抑揚のない声で答える。
今日はこのまま帰って一人悲しみに浸りたかったが、妙子さんを送って帰る義務があるのでそうもいかない。妙子さんのことを思うと右手の傷跡がビリビリと痛んだ。そうだ、あの男、妙子さんの前夫に切りつけられなければ僕はこんなことにはならなかった。そう思うとまた何とも言えないやるせなさがこみあげてくる。
僕は久しぶりに深酒をした。何も言わずに一人飲み続けた。もう天地がひっくり返ったって構わない。浴びるように飲んで何もかも忘れたかった。でもいっときも忘れることが出来なかった。
冨久屋を出る時僕と妙子さんは二人とも無言だった。道中も僕たちは無言だった。挙句に僕は足元がおぼつかない。一度は本当に転びそうになって、妙子さんが必死になって支えてくれて持ちこたえるようなありさまだった。
妙子さんの部屋の前まで着いた時、僕は妙子さんに言われた。
「大丈夫? うちで酔いを醒ましていかない?」
「あ、ああ、大丈夫ですお気遣いなく。歩いているうちに醒めるでしょ」
「あの、でも私、心配なの」
僕は皮肉な笑いを浮かべながら答えた。
「心配なんてご無用です。するなら僕の右手の方を心配して下さいよ」
妙子さんが息を呑む声がした。失言だった。僕も息を呑んだ。そのことを誰よりも気にしているのは妙子さんだっただろうに。その妙子さんは俯いて何も言わない。いや、言い出せないのだろう。
「あっ、あの、ごめんなさい。変なこと言っちゃいました。どうか気になさらないで下さい」
「いえ」
妙子さんは面を上げた。その顔には何か決意のようなものが浮かんでいる。そんな気がした僕は妙子さんに声をかけた。
「あの」
もし、もしも、今妙子さんが僕の目の前から消えたとしたら僕は一体どうなるだろう。そんな根拠のない不安が僕の中から湧き上がる。すると妙子さんは僕の目を真正面から捉えた。
「やっぱり私は……」
「えっ?」
はっとした顔で目を逸らす妙子さん。硬い表情だ。
「……いいえ、なんでもありません。いつもご迷惑をおかけして申し訳ありません。失礼します」
「あ、はい」
妙子さんは逃げるようにして自分のアパートに入って行った。
◆次回
23.道
2022年4月23日 21:00 公開予定
しかしどうしたことか。音楽を捨てた、などと偉そうなことを言った僕が、わずかな期間でこんなにも音楽を強く求めるようになっていたとは。それとも、僕はもともと音楽に深く依存していたのか。だけど今、今度は音楽が僕を捨てた。僕はそう思った。その皮肉に僕は乾いた大きな声で笑った。
駅ピアノに行く気にはどうしてもなれなかった。自由でのびやかな藍の演奏を聴くのが心底つらかった。悔しくて頭がおかしくなりそうだった。嫉妬で胸が潰されそうだった。それに僕たちの動画を上げる人たちに対しても下手くそな演奏を聴かせるような醜態をさらすなんてごめんだった。
あれから二日後、僕は冨久屋に行った。妙子さんの付き添いをこれ以上サボるわけにはいかないと思ったからだ。僕は自分でも分かるくらい肩を落として、何度も踵を返そうと思いながらも開店と同時に店にたどり着く。すると、店の入り口で看板を出す妙子さんに出くわした。
僕と鉢合わせし息を呑む妙子さん。お互い何を言おうか一瞬の間が生まれる。緊張の面持ちを隠せない妙子さんが先に、辛うじて「どっ、どうぞ」とだけ言って戸を開く。僕はうなだれたまま黙って店内に入った。
いつも無表情に見える長さんの顔も緊張気味に見える。その長さんはいつものように「いらっしゃい」とだけ声をかけた。
僕が顔を下に向けたままいつもの席に着くと、長さんと妙子さんが顔を見合わせているのがわかる。妙子さんがお通しとおしぼりをそっと、というよりこわごわと出した。「熱燗と煮込み下さい」と言った僕の声はきっと石のように硬かったと思う。
妙子さんが熱燗と煮込みを出すと同時に、焦れたような声で長さんが言う。
「それで、どうだったんですか?」
どう? そんなの分かり切っているだろうに。なんともなければこんなざまになるわけないじゃないか。と僕は心の中で苦笑した。
僕はゆっくりかぶりを振る。
「そいつあ……」
と言ったきり言葉を失う長さん。
その奥で妙子さんが鼻をすする音が聞こえる。
僕は二人がなぜそんなに衝撃を受けているのかよくわからなかった。不思議と薄ら笑いが浮かぶ。僕の精一杯の強がりなんだろうか。
「いやだなあ、二人の手に何かあったわけじゃないじゃないですか、それに僕はとっくに自分から音楽を捨てていたんです。ショパンも捨てた、モーツァルトも捨てた。ベートーベンもリストもマーラーもラフマニノフもチャイコフスキーもドビュッシーもサティも…… だから音楽も僕のことを捨てたんです。当たり前のことでしょう。当然のことなん――」
俯いてそうしゃべる僕は声に詰まる。どうしたことかいつの間に涙を流していた。初めはうっすら視界がゆがむ程度だったのに、みるみるうちに木のカウンターや徳利や小鉢がぼやけ、カウンターやお猪口に水滴が落ちていく。僕は膝に手を置いたまま情けないほど涙をこぼしていた。
妙子さんは軽い足音をたてて小走りに店の奥へとかけていった。かすかにすすり泣くような声が聞こえる。僕には妙子さんがなんで泣くのかよくわからなかった。今の僕は僕の感情を持て余して途方に暮れるばかりで他の人のことを考える余裕なんてなかった。
長さんがカウンターの向こうから手を伸ばして僕の肩を掴む。
「想さん、いや入江さん。まだです。まだ終わっちゃいません。何も終わってなんかいないんです。今こう言うのは酷かも知れませんが、入江さんにはまだやれることがいっぱいあります。あるんです。ピアノだけじゃない」
僕はまたかぶりを振った。自然と声が震えてくる。
「それでも僕はッ…… ピ、ピアノがッ…… ピアノじゃなきゃッ」
最後は静かな嗚咽となり言葉にならない。
「分かっています。よおく分かっています。私だって入江さんのピアノをよく知っています。でも、それでも、今は残念で悔しいかも知れませんが、必ず乗り越えて新しい生き方を見つけるんです。必ずです、必ずですよ。あなたはまだ若いんだ。終わるには早すぎます」
長さんの声も少し鼻にかかった涙声のような気がした。でもそんな励ましを言われても困る。僕は今のこの絶望、悲しみ、寂しさに打ち負かされ押し潰されそうなのに。
「そんなの無理っ、ですっ、新しい生き方、だなんていまさらっ、僕にはピアノしか、ピアノしかなかったっ……」
「こんばんはー」
ガラガラと扉が開くと常連とは違う客の声がする。
「とにかく、気を落とさないで下さい。必ず挽回できます」
そう長さんは囁くと、僕の肩から手を放し、いつもの長さんに戻った。妙子さんは明らかに鼻声で「いらっしゃいませ」と抑揚のない声で答える。
今日はこのまま帰って一人悲しみに浸りたかったが、妙子さんを送って帰る義務があるのでそうもいかない。妙子さんのことを思うと右手の傷跡がビリビリと痛んだ。そうだ、あの男、妙子さんの前夫に切りつけられなければ僕はこんなことにはならなかった。そう思うとまた何とも言えないやるせなさがこみあげてくる。
僕は久しぶりに深酒をした。何も言わずに一人飲み続けた。もう天地がひっくり返ったって構わない。浴びるように飲んで何もかも忘れたかった。でもいっときも忘れることが出来なかった。
冨久屋を出る時僕と妙子さんは二人とも無言だった。道中も僕たちは無言だった。挙句に僕は足元がおぼつかない。一度は本当に転びそうになって、妙子さんが必死になって支えてくれて持ちこたえるようなありさまだった。
妙子さんの部屋の前まで着いた時、僕は妙子さんに言われた。
「大丈夫? うちで酔いを醒ましていかない?」
「あ、ああ、大丈夫ですお気遣いなく。歩いているうちに醒めるでしょ」
「あの、でも私、心配なの」
僕は皮肉な笑いを浮かべながら答えた。
「心配なんてご無用です。するなら僕の右手の方を心配して下さいよ」
妙子さんが息を呑む声がした。失言だった。僕も息を呑んだ。そのことを誰よりも気にしているのは妙子さんだっただろうに。その妙子さんは俯いて何も言わない。いや、言い出せないのだろう。
「あっ、あの、ごめんなさい。変なこと言っちゃいました。どうか気になさらないで下さい」
「いえ」
妙子さんは面を上げた。その顔には何か決意のようなものが浮かんでいる。そんな気がした僕は妙子さんに声をかけた。
「あの」
もし、もしも、今妙子さんが僕の目の前から消えたとしたら僕は一体どうなるだろう。そんな根拠のない不安が僕の中から湧き上がる。すると妙子さんは僕の目を真正面から捉えた。
「やっぱり私は……」
「えっ?」
はっとした顔で目を逸らす妙子さん。硬い表情だ。
「……いいえ、なんでもありません。いつもご迷惑をおかけして申し訳ありません。失礼します」
「あ、はい」
妙子さんは逃げるようにして自分のアパートに入って行った。
◆次回
23.道
2022年4月23日 21:00 公開予定
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