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23.道
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僕は今大きな問題を抱えている。僕の今後だ。僕のピアニスト人生はもう潰えた。その事実に僕は徹底的に打ちのめされていた。
午前のバイトのあと、僕は駅前のショッピングセンターをうろついていた。賑やかで明るい喧騒が鬱陶しい。一方で、そんな自分の人生とは無関係な人々の波にもまれるのもどこか心地よい。
突然後ろから右腕を強い力で引っ張られる。振り向くとそれは藍だった。
「奏輔」
藍らしくない真剣な眼差しに僕はたじろいだ。藍の演奏への複雑な感情など一瞬忘れた僕は藍の方を向く。
「なんだよ」
「奏輔は音楽が好き? クラシックが好き?」
「こんなところで藪から棒に何を言っているんだ」
そうは言ったものの僕は少し動揺した。それこそ僕がピアノを思うように弾けなくなって以来、ずっと考えていたことだったからだ。
「いいから答えてよ。奏輔は音楽が好き?」
藍の真剣な瞳に射抜かれた僕は、明るく軽快な喧騒に包まれたショッピングセンターの真ん中で、身じろぎもできずに突っ立っているだけだった。
「僕は……」
僕は本当はどうなんだろう。音楽が好きなのか。それとも憎んでいるのか。そういえば僕は親にピアノを強制され苦しい時代を過ごした。だがそれは親が悪いのであって音楽に責任はない。
僕はここに来てからの事を思い出していた。藍の演奏に衝撃を受け、自分の演奏に磨きをかけようと思ったこと。藍との連弾の楽しさ。藍のバイオリンとするデュオの爽快感。ジュラフスキーに講評されて舞い上がったこと。
そうだ。きっとそうだ。僕は。
「……ああ、多分好きなんだと思う。まだ音楽が。藍のピアノを聴いたらそう思えるようになった」
ちょっと照れ臭くて小さく微笑んで藍にそう言う。
「うん、よかった」
藍はほんの少し目を潤ませる。少しつっけんどんな素振りで小脇に抱えていた紙袋を僕に突き出す。
「これは?」
「いいから見て」
紙袋を受け取って中身を引っ張り出してみると、それは作曲の教則本だった。
「これは……」
僕は藍の真意を測りかねた。藍は非常に珍しい事に少しもじもじしている。
「音楽との関わり方は別にひとつしかないわけじゃないってことを知ってもらいたくてさ」
「それで作曲の本を」
「そっ」
はにかんだ藍の笑顔に胸を打たれる。本は初心者向けから上級者向けのものまで三冊あった。
「高かったんじゃないのか、これ」
藍は照れくさそうににやっと笑った。
「いや、奏輔のためなら安い買い物だって」
僕は考えてみる。作曲はどうか。確かにシューマンやレスピーギのように演奏家から作曲家に転向し、名を馳せた例はあるにはある。だが僕にそれだけの才はあるか。学習能力はあるか。作曲家としての資質はあるのか。考えただけで不安で心臓がドコドコと鳴り響く。だが試してみる価値はありそうだ。僕は意を決した。
「うん、まあ確かに作曲に転向するのもありなのかも知れないな。ありがとう、これ読んでみるよ」
「よかった……」
安堵の溜息を吐く藍。
「ね、これでさ……」
すると今度は上目遣いになって小さな声で言う。
「んっ?」
「奏輔とあたし、関係なくなったわけじゃないよね?」
何を言っているのかよく理解できなかったが、あの時言ったように、まあ無関係な赤の他人ってわけじゃないだろう。同じ音楽が好きなもの同士として。
「んっ? まあそうかな?」
「よかった!」
笑顔を浮かべた藍が全力で僕に抱きついてきた。油断していた僕は避けきれず、藍にがっちりしがみ付かれてしまった。
「おいっ、離せっ! 離せったらこんなところで!」
「へへえっ、やだよー」
それでも藍はすぐに僕から離れた。相変わらず距離は近いが。その藍が僕の顔を覗き込むようにする。
「あのさあ……」
「今度はなんだ」
人ごみの真ん中で藍に抱き付かれたせいで真っ赤になった僕はついぞんざいな口をきく。
「それで、お願いがあるんだけど、いいかな?」
「お願い? 珍しいな。活力亭をおごるとか無理だからな。僕だって金ないんだ」
「違う違うそんなんじゃないよ。あたしそんなに意地汚いかなあ」
少しふくれっ面をした藍は急に表情を変え、神妙な面持ちになる。
「先生!」
突然顔の前で、柏手を打つように音を立てて手を合わせる藍。
「私に稽古をつけて下さいっ!」
今度は手を合わせたまま頭まで下げる。
「どういう風の吹き回しだ? 風の向くまま気の向くままがおまえの信条じゃなかったのか」
「奏輔の演奏ってさ、ちょっとあれなんだけど――」
ちょっとあれってなんだ、失礼なやつだな。
「なんかすっごくいいんだよ。そういうのを教わったらあたしももっといいのが弾けるようになるんじゃないかと思ってさっ」
正直言うと今はピアノを見るのもつらい。ましてや藍のような途方もない演奏を聴くのは。だけど僕の持っている何かが藍に引き継がれて、それが彼女の新しい力になるのなら、もうピアノを弾けなくなった僕としてもやりがいがあるのではないか、そう思った。それに、そういった関係で藍と繋がるのはなんだか心地いいような気もした。
「わかった」
「やった!」
「でも、僕はこう見えて厳しいぞ」
「えー、厳しいのやだあ。ね、優しくして」
妙にはしゃいでいる藍が気持ち悪い一方でなんだか可愛らしい。すがちゃんにはない可愛らしさだ。そんなことを考えながら僕は藍の頭を軽く叩く。
「いてっ」
「でもどこで練習するんだ」
「駅前に大きな音楽教室があって、練習室の時間貸しもしてるんだ。実は……」
「ん?」
「明日ももう取っちゃった。よかったらお願いしてもいい?」
「時間は」
「一時間」
「それぐらいならいいか…… ってあっ!」
「んっ?」
「報酬だよ報酬っ」
「報酬はまあおいおいってことで」
藍がにやりと笑う。何かありそうな眼だ。
「大丈夫なんだろうな」
「大丈夫大丈夫。喜んで腰抜かすようなの用意しとくから」
「おい金じゃないのか」
僕は急に不安になった。
「さあ、なんでしょう」
ふふっと笑ってくるりと一回転する痩せ細った藍。僕はその姿に一瞬目を奪われた。気を取り直すとショッピングセンターを出ようとする。
「とにかく期待しているよ、報酬」
藍はにこにこしながら頷いた。
「うんうん」
外に出た僕たち。少し腹が減ってきたので藍に声をかける。
「どこ食べに行こうか」
後ろに手を回した藍が意外なことを言う。
「ね、時間あるならデートしない? この間みたく」
「デート?」
デートなら藍となんかじゃなくて……
「奏輔?」
「いや、なんでもない」
「ふうーん、この間のあたしとのデートがそんなに嬉しかったんだ」
おどけた声を上げてごまかす。
「チガウヨー、ゼンゼンチガウヨー」
「なんだこいつー」
結局僕は藍の熱意に負けて動植物園に行く。雪の降る中寒い思いをして、温泉に浸かってぬくぬくするサルを眺めるのはどうにも釈然としなかった。足湯はあったけどそれだけじゃなんだか物足りない。悔しかったので日帰り温泉に行く。もちろん入浴はサルと違って男女別。風呂からあがった浴衣姿の藍の痩身が不思議と色っぽかった。その後は賑やかな大宴会場で二人で宴会。生ビールを次々に空けては互いのバイト先の嫌なやつとか、音大あるあるなんて下らない話ばかりしていた。
結局その日は冨久屋にも行かず、帰りは小雪がちらつく夜を市電の終電に乗って帰る。僕の隣に座った藍はすっかり酔っぱらっていた。僕の肩に頭を乗せてぐっすり寝ている。
さらに車内で目を覚ました藍の提案を受け、藍のうちで二次会をすることにした。わいわい言いながら近くのコンビニで安酒と乾きもののつまみを買う。
藍が住むアパートの部屋は僕の部屋と似通った一階にある六畳一間のつつましいもので、思った通り整理整頓が全くされておらず、しっちゃかめっちゃかだった。どうやら藍はそのことをすっかり忘れていたようで、一気に酔いの醒めた藍は大慌てで干しっぱなしの衣類や下着を片付ける。そして改めて飲み会が開かれると、少し気がたかぶっていた僕はいつもよりずいぶんと饒舌だったかもしれない。
いつの間に飲み疲れたのか藍が寝てしまう。僕はため息をついて布団を探し出して敷いてやり、そこに藍をごろんと寝かす。酔いの回った僕もその横に寝っ転がる。勿論同じ布団になんか入らずコートをかぶる。僕が明かりを消すと僕たちは肩を寄せ合うようにして横になる。外から差し込む街灯の明かりで室内はほの暗い。
気が付くと互いの酒臭い息がかかる距離にまで僕たちの顔は接近していた。藍の微かな寝息が聞こえる。額にかかる藍の髪をそっと指で梳くと、藍は寝言を言いながら更に僕に身を寄せてきた。寝ぼけながら藍が僕にしがみ付いてきそうな気配がしたので、少し距離を取って藍に背を向けてコートを被って寝る。
一人で物思いに耽ると、どうしてもピアノが弾けなくなった自分の境遇に思いを馳せざるを得ない。あの男に右手を傷つけられなければ僕はこんなことになんかならなかった。僕はあの男に激しい憎悪を抱いた。そんなことをずっと考えながら僕は一睡もせず横になっていた。
憎悪に駆られ目が冴えた僕は、枕代わりにしていた作曲の本を手にした。起き上がって常夜灯をつけ読んでみる。座学が苦手だった僕にこれがどこまで理解できて、ものにすることができるだろうか。不安だった。コートを羽織り寒さに鼻をすすりながらゆっくり時間をかけて読む。
藍が寝ている隣で作曲の本をめくりながら僕は考えていた。
僕はピアノが弾けなくなったから作曲をする。もしそれもできなくなったら今度は指揮だっていい、もっと他にできることをする。何だっていい、僕は音楽と関わっていないと生きていけないんだ。僕はもう音楽を捨てないし、音楽から逃げない。いや、捨てることも逃げることもできない。僕と音楽は一体だったんだ。今になってやっとわかった。
5年前、僕は長さん、いや春井さんに「僕は音そのものになりたい」と言った。それはこういうことだったのか。僕は五年前の自分の願いが今叶ったのだと感じた。
すやすやと気持ちよさそうに寝ている藍を見る。作曲の道。藍の導きがなければきっと見つけることができなかった道だろう。僕は隣で酔いつぶれてひどい寝相で寝ている藍に感謝した。藍の布団を直して僕はまた作曲の本に目を向ける。
◆次回
24.教授
2022年4月24日 10:00 公開予定
午前のバイトのあと、僕は駅前のショッピングセンターをうろついていた。賑やかで明るい喧騒が鬱陶しい。一方で、そんな自分の人生とは無関係な人々の波にもまれるのもどこか心地よい。
突然後ろから右腕を強い力で引っ張られる。振り向くとそれは藍だった。
「奏輔」
藍らしくない真剣な眼差しに僕はたじろいだ。藍の演奏への複雑な感情など一瞬忘れた僕は藍の方を向く。
「なんだよ」
「奏輔は音楽が好き? クラシックが好き?」
「こんなところで藪から棒に何を言っているんだ」
そうは言ったものの僕は少し動揺した。それこそ僕がピアノを思うように弾けなくなって以来、ずっと考えていたことだったからだ。
「いいから答えてよ。奏輔は音楽が好き?」
藍の真剣な瞳に射抜かれた僕は、明るく軽快な喧騒に包まれたショッピングセンターの真ん中で、身じろぎもできずに突っ立っているだけだった。
「僕は……」
僕は本当はどうなんだろう。音楽が好きなのか。それとも憎んでいるのか。そういえば僕は親にピアノを強制され苦しい時代を過ごした。だがそれは親が悪いのであって音楽に責任はない。
僕はここに来てからの事を思い出していた。藍の演奏に衝撃を受け、自分の演奏に磨きをかけようと思ったこと。藍との連弾の楽しさ。藍のバイオリンとするデュオの爽快感。ジュラフスキーに講評されて舞い上がったこと。
そうだ。きっとそうだ。僕は。
「……ああ、多分好きなんだと思う。まだ音楽が。藍のピアノを聴いたらそう思えるようになった」
ちょっと照れ臭くて小さく微笑んで藍にそう言う。
「うん、よかった」
藍はほんの少し目を潤ませる。少しつっけんどんな素振りで小脇に抱えていた紙袋を僕に突き出す。
「これは?」
「いいから見て」
紙袋を受け取って中身を引っ張り出してみると、それは作曲の教則本だった。
「これは……」
僕は藍の真意を測りかねた。藍は非常に珍しい事に少しもじもじしている。
「音楽との関わり方は別にひとつしかないわけじゃないってことを知ってもらいたくてさ」
「それで作曲の本を」
「そっ」
はにかんだ藍の笑顔に胸を打たれる。本は初心者向けから上級者向けのものまで三冊あった。
「高かったんじゃないのか、これ」
藍は照れくさそうににやっと笑った。
「いや、奏輔のためなら安い買い物だって」
僕は考えてみる。作曲はどうか。確かにシューマンやレスピーギのように演奏家から作曲家に転向し、名を馳せた例はあるにはある。だが僕にそれだけの才はあるか。学習能力はあるか。作曲家としての資質はあるのか。考えただけで不安で心臓がドコドコと鳴り響く。だが試してみる価値はありそうだ。僕は意を決した。
「うん、まあ確かに作曲に転向するのもありなのかも知れないな。ありがとう、これ読んでみるよ」
「よかった……」
安堵の溜息を吐く藍。
「ね、これでさ……」
すると今度は上目遣いになって小さな声で言う。
「んっ?」
「奏輔とあたし、関係なくなったわけじゃないよね?」
何を言っているのかよく理解できなかったが、あの時言ったように、まあ無関係な赤の他人ってわけじゃないだろう。同じ音楽が好きなもの同士として。
「んっ? まあそうかな?」
「よかった!」
笑顔を浮かべた藍が全力で僕に抱きついてきた。油断していた僕は避けきれず、藍にがっちりしがみ付かれてしまった。
「おいっ、離せっ! 離せったらこんなところで!」
「へへえっ、やだよー」
それでも藍はすぐに僕から離れた。相変わらず距離は近いが。その藍が僕の顔を覗き込むようにする。
「あのさあ……」
「今度はなんだ」
人ごみの真ん中で藍に抱き付かれたせいで真っ赤になった僕はついぞんざいな口をきく。
「それで、お願いがあるんだけど、いいかな?」
「お願い? 珍しいな。活力亭をおごるとか無理だからな。僕だって金ないんだ」
「違う違うそんなんじゃないよ。あたしそんなに意地汚いかなあ」
少しふくれっ面をした藍は急に表情を変え、神妙な面持ちになる。
「先生!」
突然顔の前で、柏手を打つように音を立てて手を合わせる藍。
「私に稽古をつけて下さいっ!」
今度は手を合わせたまま頭まで下げる。
「どういう風の吹き回しだ? 風の向くまま気の向くままがおまえの信条じゃなかったのか」
「奏輔の演奏ってさ、ちょっとあれなんだけど――」
ちょっとあれってなんだ、失礼なやつだな。
「なんかすっごくいいんだよ。そういうのを教わったらあたしももっといいのが弾けるようになるんじゃないかと思ってさっ」
正直言うと今はピアノを見るのもつらい。ましてや藍のような途方もない演奏を聴くのは。だけど僕の持っている何かが藍に引き継がれて、それが彼女の新しい力になるのなら、もうピアノを弾けなくなった僕としてもやりがいがあるのではないか、そう思った。それに、そういった関係で藍と繋がるのはなんだか心地いいような気もした。
「わかった」
「やった!」
「でも、僕はこう見えて厳しいぞ」
「えー、厳しいのやだあ。ね、優しくして」
妙にはしゃいでいる藍が気持ち悪い一方でなんだか可愛らしい。すがちゃんにはない可愛らしさだ。そんなことを考えながら僕は藍の頭を軽く叩く。
「いてっ」
「でもどこで練習するんだ」
「駅前に大きな音楽教室があって、練習室の時間貸しもしてるんだ。実は……」
「ん?」
「明日ももう取っちゃった。よかったらお願いしてもいい?」
「時間は」
「一時間」
「それぐらいならいいか…… ってあっ!」
「んっ?」
「報酬だよ報酬っ」
「報酬はまあおいおいってことで」
藍がにやりと笑う。何かありそうな眼だ。
「大丈夫なんだろうな」
「大丈夫大丈夫。喜んで腰抜かすようなの用意しとくから」
「おい金じゃないのか」
僕は急に不安になった。
「さあ、なんでしょう」
ふふっと笑ってくるりと一回転する痩せ細った藍。僕はその姿に一瞬目を奪われた。気を取り直すとショッピングセンターを出ようとする。
「とにかく期待しているよ、報酬」
藍はにこにこしながら頷いた。
「うんうん」
外に出た僕たち。少し腹が減ってきたので藍に声をかける。
「どこ食べに行こうか」
後ろに手を回した藍が意外なことを言う。
「ね、時間あるならデートしない? この間みたく」
「デート?」
デートなら藍となんかじゃなくて……
「奏輔?」
「いや、なんでもない」
「ふうーん、この間のあたしとのデートがそんなに嬉しかったんだ」
おどけた声を上げてごまかす。
「チガウヨー、ゼンゼンチガウヨー」
「なんだこいつー」
結局僕は藍の熱意に負けて動植物園に行く。雪の降る中寒い思いをして、温泉に浸かってぬくぬくするサルを眺めるのはどうにも釈然としなかった。足湯はあったけどそれだけじゃなんだか物足りない。悔しかったので日帰り温泉に行く。もちろん入浴はサルと違って男女別。風呂からあがった浴衣姿の藍の痩身が不思議と色っぽかった。その後は賑やかな大宴会場で二人で宴会。生ビールを次々に空けては互いのバイト先の嫌なやつとか、音大あるあるなんて下らない話ばかりしていた。
結局その日は冨久屋にも行かず、帰りは小雪がちらつく夜を市電の終電に乗って帰る。僕の隣に座った藍はすっかり酔っぱらっていた。僕の肩に頭を乗せてぐっすり寝ている。
さらに車内で目を覚ました藍の提案を受け、藍のうちで二次会をすることにした。わいわい言いながら近くのコンビニで安酒と乾きもののつまみを買う。
藍が住むアパートの部屋は僕の部屋と似通った一階にある六畳一間のつつましいもので、思った通り整理整頓が全くされておらず、しっちゃかめっちゃかだった。どうやら藍はそのことをすっかり忘れていたようで、一気に酔いの醒めた藍は大慌てで干しっぱなしの衣類や下着を片付ける。そして改めて飲み会が開かれると、少し気がたかぶっていた僕はいつもよりずいぶんと饒舌だったかもしれない。
いつの間に飲み疲れたのか藍が寝てしまう。僕はため息をついて布団を探し出して敷いてやり、そこに藍をごろんと寝かす。酔いの回った僕もその横に寝っ転がる。勿論同じ布団になんか入らずコートをかぶる。僕が明かりを消すと僕たちは肩を寄せ合うようにして横になる。外から差し込む街灯の明かりで室内はほの暗い。
気が付くと互いの酒臭い息がかかる距離にまで僕たちの顔は接近していた。藍の微かな寝息が聞こえる。額にかかる藍の髪をそっと指で梳くと、藍は寝言を言いながら更に僕に身を寄せてきた。寝ぼけながら藍が僕にしがみ付いてきそうな気配がしたので、少し距離を取って藍に背を向けてコートを被って寝る。
一人で物思いに耽ると、どうしてもピアノが弾けなくなった自分の境遇に思いを馳せざるを得ない。あの男に右手を傷つけられなければ僕はこんなことになんかならなかった。僕はあの男に激しい憎悪を抱いた。そんなことをずっと考えながら僕は一睡もせず横になっていた。
憎悪に駆られ目が冴えた僕は、枕代わりにしていた作曲の本を手にした。起き上がって常夜灯をつけ読んでみる。座学が苦手だった僕にこれがどこまで理解できて、ものにすることができるだろうか。不安だった。コートを羽織り寒さに鼻をすすりながらゆっくり時間をかけて読む。
藍が寝ている隣で作曲の本をめくりながら僕は考えていた。
僕はピアノが弾けなくなったから作曲をする。もしそれもできなくなったら今度は指揮だっていい、もっと他にできることをする。何だっていい、僕は音楽と関わっていないと生きていけないんだ。僕はもう音楽を捨てないし、音楽から逃げない。いや、捨てることも逃げることもできない。僕と音楽は一体だったんだ。今になってやっとわかった。
5年前、僕は長さん、いや春井さんに「僕は音そのものになりたい」と言った。それはこういうことだったのか。僕は五年前の自分の願いが今叶ったのだと感じた。
すやすやと気持ちよさそうに寝ている藍を見る。作曲の道。藍の導きがなければきっと見つけることができなかった道だろう。僕は隣で酔いつぶれてひどい寝相で寝ている藍に感謝した。藍の布団を直して僕はまた作曲の本に目を向ける。
◆次回
24.教授
2022年4月24日 10:00 公開予定
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