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15.二人の食卓

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 退院となったその足で僕は冨久屋に向かおうとする。すがちゃんを送って行こうとの思いもあった。

「じゃ、行きましょうか」

 すがちゃんは狐につままれた顔をしていたが、すぐに合点がいったようで朗らかに答える。

「はいっ、それじゃあ案内してね。最寄りの電停はどちら?」

「ん?」

 僕はすがちゃんの言っていることがわからなかった。

「え?」

 すがちゃんも僕の考えていたことが分かっていないようだった。

「いや、これから冨久屋に」
「だって、これから想さんのお宅に」

 二人で同時に口にすると僕たちは二人とも驚く。

「そんな、僕のうちにだなんてどうして?」
「だめよ! 冨久屋に行くだなんてっ!」

 すがちゃんは大変な剣幕で怒っていた。

「えっ、いや冨久屋まで送って行こうかと思ったんですが……」

「想さんそれで飲まないって約束できる?」

 詰問口調のすがちゃんが怖い。この目はうそをついてはいけない目だ。

「……飲んじゃうかも、知れません」

 僕は正直に、しかしおずおずと答えた。

「ほらっもう! これだから男の人はっ! 今日くらいはしっかり養生して! 私が晩ご飯作るから」

 僕は予想外の展開にうろたえた。すがちゃんが、僕の部屋に来て、手料理を振る舞う?
 さすがに一人暮らしの男の部屋で二人っきりになるのは良くないと言っても「何が良くないの?」とか「想さんはそんな方ではないでしょう?」とか無邪気な笑顔で返され、とにかくすごい勢いで押し切られてしまった。

「それにもう長さんには連絡してお休みをいただいてるの。これからスーパーに寄って買い出ししましょ」

「え、でも冨久屋はそれで大丈夫なんですか?」

「大丈夫。本当のことを言うと長さん一人でも回せないことはないの。病院でも話した通り、私が困っていたところを拾われるようにして雇って下さったので」

「そうなんですか……」

「そこまでしていただいたからこそ簡単に休んじゃいけないんだけど、さっき電話で事情を話してお願いしたら、長さん二つ返事で許してくれて。本当にありがたいわ」

 手を怪我した僕を世話するために仕事を休みたいと言ったのだろうか。長さんもよくそれで快諾したと思うし、僕としても申し訳がたたない。今度僕の方からもお詫びとお礼をしなきゃ。
 スーパーでは僕もすがちゃんも僕の右手のことはつい忘れて少しはしゃぎ気味だった。

「さあっ、想さん。こっちと、こっちと、こっち。どっちがいい?」

 すがちゃんが嬉しそうな顔で魚の入った三つのトレーを差し出し僕に訊いてくる。

「えっと、じゃあこのタラで」

 タラの入ったトレーをカートに乗せたカゴに入れ、残りのサケとカレイの入ったトレーを棚に戻すすがちゃん。

「ふふふ、そうよねえ、タラは定番だものねえ」

「あの、何を作って下さるんですか」

「秘密」

 すがちゃんはにっこりと笑う。

「でも別に大したものじゃないの。凝ったものでもないし、ごく普通でありきたりのものだから期待しないでね」

「そう言いながらこの間のロールキャベツはめちゃくちゃ美味かったですけどね」

「ほんと?」

 少し視線を落とし顔を赤くしながら照れるすがちゃんが可愛い。
 混雑したフロアで他の客を避けながら歩く僕たちは何度も身体が触れ合う。そのたびに僕は心臓の鼓動が激しくなり身体が熱くなるのだった。なんだろう、まるで夫婦が連れ立って買い物に来ているようだ。そう思うと僕は思わずにやけてしまう。
 すがちゃんはこの後もジャガイモ、ニンジン、小麦粉やら卵やらロールパンに野菜などを色々と買い込んだ。代金については僕が支払うと言ったが、すがちゃんはひどく真剣な顔でそれはできないと固辞した。

 僕の部屋に着いたらこの後はすがちゃんの独壇場だった。僕が手伝おうとしても「それでは本末転倒だから」と許してくれない。僕は一人楽譜を読んで時間を潰すしかなかった。が、いつの間にか僕はすがちゃんの後ろ姿をずっと眺めていた。エプロンをつけて調理に専念する後ろ姿だけでも、穏やかで温かみのある優しい性格が滲み出ているのがわかる。なんだか本当に夫婦みたいだ。僕はまたすがちゃんに見られないように相好そうごうを崩した。僕がここに越してきて以来初めて、六畳一間のアパート内にいい匂いが広がっていく。
 作るものと言えばもやし納豆ばかりの食生活をしていた僕にしてみたらすがちゃんは魔法使いだ。小さな食卓に上ったのは二人分のタラのムニエル、チーズオムレツ、ポトフ、サラダ。いずれも左手でスプーンやフォークを持てばなんとか食べられそうなものだ。それに何といっても美味い。僕は不器用に左手を使ってがつがつと貪り食った。すがちゃんは自分でも食べながら僕の食べっぷりを満足げに眺めている。
 食後、すがちゃんは食器を洗った後お茶を入れてくれる。僕は大満足だった。大げさな話だがこの街に来てから初めて人間らしい食事を摂った気がする。高級とかグルメとかそういうことではない、すがちゃんの手料理だからこそ僕の胃と心はこんなにも満たされたのだ。

 食後は古畳の上に薄い座布団を敷いてよもやま話に花が咲く。僕はすがちゃんとならいくらでも会話が続きそうな、そんな気がした。お互いの実家のこと、そこでの四季。家族。かと思えばそれぞれの学生生活や時には僕の音楽のこと。僕はジムノペディの楽譜をすがちゃんに見せた。すがちゃんはそれが全く読めず目を白黒させる。
 ところが楽譜を眺めながらすがちゃんの表情が次第に硬くなって行った。そして楽譜を返す時のすがちゃんの表情は一変していた。真剣な眼で僕を見ている。

「あの……」

「ど、どうされましたか?」

 そしてすがちゃんは畳の上に手を突き頭を深々と下げる。

「今回のことは本当に申し訳ありませんでしたっ」

 僕は慌てる。

「えっ、いやこれはその、まっ、前の夫の人がいけないわけで、すがちゃんには何の非も」

「いいえっ、私がっ、私がっ、ここまで逃げずに帯広できちんとあの人と対していれば、あの人が想さんを傷つけることはなかったんです」

 僕は包帯でぐるぐる巻きにされた右手を見つめた。僕のこの手はどうなっているのだろうか。腱や筋肉や神経が切断されたりはしていないだろうか。もしそうだったらもうピアノは弾けないのだろうか。急に底知れぬ不安がむくむくと湧き上がってくる。

「本当に…… 申し訳…… ありません……」

 震え声で謝罪の言葉を述べるすすがちゃん。それが見ていられなくて僕は思わずすがちゃんの肩に左手を置き、嘘くさいほど軽く元気なふりをして話す。

「やだなあ、ピアノが弾けるかどうかなんて僕の問題です。それに先生も言っていたじゃないですか。二週間もして包帯が取れたらいつも通りにピアノが弾けるようになります。ですからすがちゃんは全然気にしなくていいんですよ。」

「そんな、気にします」

「それに僕は怪我したことをひとつも後悔してなんていません。むしろこの傷は勲章だ。あそこですがちゃんを守れてよかったって胸を張って言えます。もし僕でなくすがちゃんが怪我をしていたら、僕の心はずっと深い傷を負っていました」

「想さん……」

 すがちゃんは何か言いたげな、あるいはどこか胸苦しさを覚えたような複雑で特別な表情で僕を見つめていた。今まで見たどんな彼女とも違う表情だった。それに僕は少しどきりとする。そしてなんとはなしに不安を覚えた。

「あ、お昼のリンゴまだ残ってましたよね」

 僕は努めて明るく、ひょうきんとさえ言える口ぶりですがちゃんに話しかけた。

「え、ええ」

「じゃあ、食べさせてください。いやもう僕なんだか腹減っちゃって腹減っちゃって」

 タッパーに残されたいくつかのリンゴを、僕は左手に持った小さなフォークでぱくつく。そして改めて努めて明るい声ですがちゃんに話しかける。彼女には絶対暗い表情になって欲しくなかった。そのためになら僕が少々道化になるくらいどうということはない。

「でもさっきまであんなに元気いっぱいだったのに、急にそんな顔するんですから驚いちゃいましたよ」

「ごめんなさい、私ったら立場もわきまえずにはしゃいじゃって。本当は病院できちんとお詫びを申し上げなくてはいけなかったのに……」

 すがちゃんはまた頭を下げる。僕はこんなことですがちゃんとぎくしゃくしたくなかった。必死でなだめる。すがちゃんの両肩を掴んで上体を起こす。

「ああ、もうやめて下さいやめて下さい。どうかお気になさらず、お願いします。どうせ二週間も経てば元通りになるんですから。あまり気に病まないで下さい」

「でも」

 思わず祖父がよく言っていた言葉が口を吐いて出た。

「でももかかしもなく」

「かかし?」

「ああもう、とにかく気に病まないで下さいってことです。僕のお願い、聞いていただけますよね」

 すがちゃんがよく使う言葉をそのまま使ってみた。

「は、はい……」

 すがちゃんは渋々頷いた。

 食事も終わりすがちゃんが洗いものまで済ませてくれたあと、僕がすがちゃんを送る。すがちゃんは自室に入る前深々と僕に頭を下げた。普通なら住まいを知られることを警戒するはずだが、そんなことはおくびにも出さず信頼してくれていることが僕には嬉しかった。すがちゃんが無事部屋に入ったのを確認してから僕はきびすを返して、歩いて帰る。

 帰宅後、料理の匂いとすがちゃんの微かな香りに満たされた僕の部屋に帰宅する。その幸せな匂いを感じながら僕は右手に目をやる。大丈夫。大丈夫だきっと。きっとまた今まで通りにピアノが弾けるようになる。僕は玄関のたたきにたたずんだままそう自分に言い聞かせ続けていた。

◆次回
16.付き添い
2022年4月16日 21:00 公開予定
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