16 / 55
16.付き添い
しおりを挟む
僕は二週間もの間ピアノが弾けなくなってしまった。それがこんなにも苦痛だなんて思いもよらなかった。
おかしな話だ、僕は音楽を捨てたんじゃなかったのか。それとも僕が変わったのか。とにかく、二週間たてばピアノが弾ける、そう自分に言い聞かせて僕はそれまでの期間を耐えようと思った。
そして今日は僕がすがちゃんの付き添いをする日の初日。僕はお店が引けるまで一人でだらだらと飲んでいた。
もう店じまい間近の時間になると僕しか客のいなくなった店内に長さんの感情のない声が響く。
「ああ、後片付けしときますんで、お二人ともおあとはどうぞ」
「えっ」
「まあっ」
僕が少し驚いた声で長さんに答える。
「どうして分かったんですか?」
「まあ、匂いというか雰囲気というか、そんなものですかね」
「だとしたらすごい嗅覚ですね。私完全に隠し通していると思いましたもの」
すがちゃんも驚いた顔が隠せない。
「そうですかい」
長さんは特にこれといった感情を見せずに言った。
「さ、こんなとこで油売ってないで急いで帰らなくていいんですかい、お二人さん」
「いや、お二人さんって、僕はただの付き添いだし――」
「それでも同じでしょう、二人は二人です。さあ急いだ急いだ」
こうして長さんに追い出されるようにして僕たちは冨久屋を裏口から出た。すがちゃんは裏口から表に出るのを一瞬ちゅうちょしたので、僕から先に出る。これといった異常はないようだ。すがちゃんが恐る恐る出てきたところで僕は防犯グッズを渡す。
「これ」
「これは?」
「防犯ブザーと催涙スプレーです。ないよりはマシかなって」
「いただけませんそんな」
あげる、もらえない、で二人で押し問答を続けてしまったので、とりあえず僕がすがちゃんに貸すということですがちゃんには納得してもらった。
冨久屋から歩いて十分、すがちゃんのアパートにたどり着く。
「それじゃ、これで。お疲れさまでした」
すがちゃんが申し訳なさそうな顔をする。
「ありがとうございました。本当に申し訳ありません」
深々とお辞儀するすがちゃん。
ピアノが弾けなくなっただけではない。手を負傷してから僕の生活は一変した。
僕は冨久屋に可能な限り出向いて、そうでなければ店の外ですがちゃんを待つ。すがちゃんと僕は一緒に僕の部屋へ行き、右手が不自由な僕のためにすがちゃんが夜食と翌朝の朝食を用意してくれるようになった。いずれも簡単なものだとすがちゃんは謙遜するが、僕にとってはどんなごちそうにも負けないものだった。そして深夜すがちゃんは僕に付き添われて帰って行く。
あの男、すがちゃんと僕に切りつけたすがちゃんの前夫は現場から逃走。警察が捜査するもその行方は知れなかった。そのために僕はすがちゃんを護衛するために付き添いを続けた。
それだけではない。すがちゃんは日曜ともなると掃除や洗濯をするために僕の部屋に来てくれるようになった。さすがに最初は断ったが、あまりにも強くお願いされると僕は断り切れずにすがちゃんを部屋にいれた。
日曜日の午後、近所のスーパーで一緒に買い物をしていると嬉しい反面、これはまるで「通い妻」だな、と思うとかえって申し訳なく思う。それだけすがちゃんはかいがいしく僕に献身してくれた。それにすがちゃんと一緒にいられるのは胸躍る毎日だった。
このすがちゃんの献身的な行いに対しいつかお返ししないといけないな、と僕は思うようになっていった。
◆次回
17.不安
2022年4月17日 10:00 公開予定
おかしな話だ、僕は音楽を捨てたんじゃなかったのか。それとも僕が変わったのか。とにかく、二週間たてばピアノが弾ける、そう自分に言い聞かせて僕はそれまでの期間を耐えようと思った。
そして今日は僕がすがちゃんの付き添いをする日の初日。僕はお店が引けるまで一人でだらだらと飲んでいた。
もう店じまい間近の時間になると僕しか客のいなくなった店内に長さんの感情のない声が響く。
「ああ、後片付けしときますんで、お二人ともおあとはどうぞ」
「えっ」
「まあっ」
僕が少し驚いた声で長さんに答える。
「どうして分かったんですか?」
「まあ、匂いというか雰囲気というか、そんなものですかね」
「だとしたらすごい嗅覚ですね。私完全に隠し通していると思いましたもの」
すがちゃんも驚いた顔が隠せない。
「そうですかい」
長さんは特にこれといった感情を見せずに言った。
「さ、こんなとこで油売ってないで急いで帰らなくていいんですかい、お二人さん」
「いや、お二人さんって、僕はただの付き添いだし――」
「それでも同じでしょう、二人は二人です。さあ急いだ急いだ」
こうして長さんに追い出されるようにして僕たちは冨久屋を裏口から出た。すがちゃんは裏口から表に出るのを一瞬ちゅうちょしたので、僕から先に出る。これといった異常はないようだ。すがちゃんが恐る恐る出てきたところで僕は防犯グッズを渡す。
「これ」
「これは?」
「防犯ブザーと催涙スプレーです。ないよりはマシかなって」
「いただけませんそんな」
あげる、もらえない、で二人で押し問答を続けてしまったので、とりあえず僕がすがちゃんに貸すということですがちゃんには納得してもらった。
冨久屋から歩いて十分、すがちゃんのアパートにたどり着く。
「それじゃ、これで。お疲れさまでした」
すがちゃんが申し訳なさそうな顔をする。
「ありがとうございました。本当に申し訳ありません」
深々とお辞儀するすがちゃん。
ピアノが弾けなくなっただけではない。手を負傷してから僕の生活は一変した。
僕は冨久屋に可能な限り出向いて、そうでなければ店の外ですがちゃんを待つ。すがちゃんと僕は一緒に僕の部屋へ行き、右手が不自由な僕のためにすがちゃんが夜食と翌朝の朝食を用意してくれるようになった。いずれも簡単なものだとすがちゃんは謙遜するが、僕にとってはどんなごちそうにも負けないものだった。そして深夜すがちゃんは僕に付き添われて帰って行く。
あの男、すがちゃんと僕に切りつけたすがちゃんの前夫は現場から逃走。警察が捜査するもその行方は知れなかった。そのために僕はすがちゃんを護衛するために付き添いを続けた。
それだけではない。すがちゃんは日曜ともなると掃除や洗濯をするために僕の部屋に来てくれるようになった。さすがに最初は断ったが、あまりにも強くお願いされると僕は断り切れずにすがちゃんを部屋にいれた。
日曜日の午後、近所のスーパーで一緒に買い物をしていると嬉しい反面、これはまるで「通い妻」だな、と思うとかえって申し訳なく思う。それだけすがちゃんはかいがいしく僕に献身してくれた。それにすがちゃんと一緒にいられるのは胸躍る毎日だった。
このすがちゃんの献身的な行いに対しいつかお返ししないといけないな、と僕は思うようになっていった。
◆次回
17.不安
2022年4月17日 10:00 公開予定
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
雪のソナチネ
歴野理久♂
BL
大好きな幼馴染が実はそれ以上の存在だったと気付いた少年時代。でも彼とは離ればなれになる運命だった。時を隔てた8年後、再会した場所はよりによって新宿二丁目。でも単純に喜べない。何故なら彼は身を持ち崩して「売り」をしていた。さあどうする主人公?
怪談あつめ ― 怪奇譚 四十四物語 ―
ろうでい
ホラー
怖い話ってね、沢山あつめると、怖いことが起きるんだって。
それも、ただの怖い話じゃない。
アナタの近く、アナタの身の回り、そして……アナタ自身に起きたこと。
そういう怖い話を、四十四あつめると……とても怖いことが、起きるんだって。
……そう。アナタは、それを望んでいるのね。
それならば、たくさんあつめてみて。
四十四の怪談。
それをあつめた時、きっとアナタの望みは、叶うから。
『喪失』
Kooily
ライト文芸
事故によって両腕を失ったピアニスト、広瀬 亜夢の物語。
※ライト文芸大賞用に急遽作り始めて、ライト文芸というジャンルがよく分からずに書いたので好み分かれると思います。
夢の中ならイジメられっ子でも無敵です
ma-no
ライト文芸
高校一年生の吉見蒼正は、学校ではイジメ被害に遭っていた。その辛い気持ちを紛らわそうと、夢の中では異世界転生したり暴力的な不良になったり、自分の思い通りにして楽しんでいた。
しかし同じ境遇の女子高生、堀口純菜の夢の中に迷い込んでからは、不思議な事が次々と起こる。
蒼正と純菜は夢の中で一緒に過ごす事で、夢が繋がった理由に気付くのであった……
☆
一日一話更新です。
ライト文芸大賞エントリー中です。ご応援、宜しくお願い致します。
【短編】うつりゆくひと、褪せぬ花
千林 かの子
ライト文芸
※第5回ライト文芸大賞エントリー作品※
大正時代のある商家。
体の弱さがもとで厭世的になり、本に囲まれて暮らす次男・寅之助は
7歳年上の使用人・弥吉から、一輪の花を差し出される。
その花は、アルストロメリア。
花言葉は「未来への憧れ」。
皮肉屋な態度を取り続ける寅之助に対し、
弥吉が献身的に仕えるのには、理由があった――。
主従関係の二人が過ごす、甘くも苦いひと月の物語。
彼女(幼馴染)が親友と浮気したから親友の彼女(元カノの双子の妹)と復讐した結果、理想の彼女ができた。
東権海
ライト文芸
「お姉ちゃん、捨てたんだから私が貰ってもいいよね?」
彼女(幼馴染)が浮気した。
浮気相手は親友、しかも彼女持ち。
その彼女は幼馴染の妹。
「寝取ったんだから寝取り返してもよくね?」
浮気した二人への親友と(義)妹と幼馴染による復讐劇。
復讐が終わればもちろん関係は一気に甘々に…。
更新は当面の間毎日です。
初めての作品です。色々至らないことがあるかと思いますが、よろしくおねがいします。
カクヨムにて投稿しているものをこちらで連載する形になります。アルファポリス限定の特別ストーリーをたまに混ぜつつ投稿します。
【完結】現世の魔法があるところ 〜京都市北区のカフェと魔女。私の世界が解ける音〜
tanakan
ライト文芸
これは私、秋葉 琴音(あきは ことね)が現世で自分の魔法を探す物語である。
現世の魔法は夢物語の話ではない。ただ夢を叶えるための魔法なのだ。
京都市に住まう知らなければ見えない精霊たちや魔法使い、小さな小さな北区のカフェの一角で、私は自分の魔法を探すことになる。
高校二年生の冬に学校に行くことを諦めた。悪いことは重なるもので、ある日の夜に私は人の言葉を話す猫の集会に巻き込まれ気を失った。
気がついた時にはとある京都市北区のカフェにいた。
そして私はミーナ・フォーゲルと出会ったのだ。現世に生きる魔女である彼女と・・・出会えた。
これは私が魔法と出会った物語。そして自分と向き合うための物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる