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第十一章

精霊と契約者、のそのとき(一)

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 目を開けると、そこは水中だった。
 仰向けの状態で水中を漂っているようだ。
 太陽の煌めきを受け輝く水面を見ながら、ふ、と一つ息を吐きだす。
 こぽ、ぽこ、と空気の泡が昇っていくのを眺めつつ、心地のいい揺らめきに再び目を閉じる。
 水中なのに呼吸ができる不可思議さや、水中を漂っているという不可解さが頭の隅を掠めたが、不思議と今の状況が自然なような気がして、特に抗う気も起きなかった。

(俺は……何をしていたんだったか……)

 ぼんやりと自分の記憶を辿ろうとするものの、思考は不明瞭で何も思い出すことができない。

(何かを……していたような気がするが……)

 閉じた瞼の先で、何かがチカチカと輝き、再び瞼を持ち上げた。
 視界の先では、変わらず水面が輝いていた。

(……綺麗だな)

 青が支配する世界で、太陽の煌めきを浴びた水面だけが、淡い黄金に輝いていた。
 何かを彷彿とさせる光の帯を見て、それが何かもわからないのに、気が付けば手が伸びていた。しかし、当然ながらその光の帯を掴むことはできず、水をかく虚しい感覚だけが指先に伝わる。

 ――……外に出たい?

 どこからともなく聞こえた声に、ゆっくりと視線を動かす。上下左右、確認するように見てみたものの、光が降り注ぐ正面以外はどこまでも深い青が広がっていくだけで、生き物の姿は見当たらない。
 空耳か幻聴だろうか、と一瞬考えたが、もう一度聞こえた「外に出たいの?」という声に、それが脳内に直接語りかけるように響いていることに気が付く。

(……誰だ?)

 脳内に直接声が響くという現象よりも、声の主が気になり、そう疑問を投げかける。しかし、その考えは伝わっていないのか、声は一方的に話を続けた。

 ――ううん。ごめん。愚問だったね。外に出たいに決まってる。とっても大事なものが外にあるんだから。

(大事なもの……?)

 そんなもの、果たしてあっただろうか。
 何もない世界で、ただ流れに身を任せていただけの自分に、大切なものなのできるはずもない。

(そういえば、俺はここではない場所にいたんだったか……?)

 水の揺れに身を任せる現状がしっくり来てしまい、うっかり忘れそうになったが、目を覚ましてすぐ、水中にいることや水中で呼吸をできることを疑問に思ったはずだ。

 ――ごめんね。おれが怖がりなせいで、痛い思いも、嫌な思いもさせた。あの子にも……。……レオンハルトにとっては、それが一番辛いことかもしれない。本当にごめん。

(レオン、ハルト……)

 “レオンハルト”と名を呼ばれたことで、不明瞭だった思考が徐々に鮮明になっていく。

(そうだ、俺はレオンハルト……レオンハルト……パウル、ヴァステンブルク……)

 ――あの子、ずっと悲しくて苦しそうなんだ。毎日毎日泣いてる。レオンハルトのこと、すっごく愛してる。もしかしたら、おれ以上かも……って、そう思っちゃうくらい。それって、おれたちにとってはすごいことなんだよ。

(あの子……あの子……?)

 脳内の声は一体誰の話をしているのだろう、と思いながら、レオンハルトはチカチカと降り注ぐ光に眉を寄せる。

 ――おれ、あの子のこと傷付けちゃった……。本当はそんなこと、するつもりじゃなかったんだ。ただ驚いて……本当にごめん。レオンハルトにとって一番大切な……レオンハルトの愛しい子だから、おれも大事にするべきだったのに……。

(愛しい……俺が? 一体誰を……)

 ――もう、大丈夫だから。だから、あの子のためにも、もう起きて、レオンハルト。もう外に出ても大丈夫。ここはすごく安全で、何も怖いことはないけど……レオンハルトはあの子の傍にいるべきだよ。おれも……一緒に目覚めるから。

(さっきから、一体何を――)

 要領を得ない脳内の言葉に文句が出そうになったものの、真っ直ぐ差し込んでいた光の帯がゆらりと揺れたのを見て、言葉を飲み込む。
 先ほど何かを彷彿とさせた淡い黄金の光の帯はそのまま緩い波を打つにゆらゆらと揺れ、徐々に輪郭を持ち始める。

 ――レオンハルトには、あの子が必要だ。もちろん、あの子にも。だからほら、もう起きて、ここから出よう。あの子が、ずっと待ってる。

 光の帯が、細かな光の線の束になっていくごとに、不鮮明だった“あの子”が形を持っていく。

(ああ、そうだ……何故忘れていたんだ……俺の唯一っ……俺の最愛……!)

 光りの線の束は絹糸のように艶めき、彼女の手触りのいい髪のように、ふわふわと柔らかく揺れる。

 ――……起きて、あの子の名前を呼んであげて、レオンハルト。



(ルシアナ……!)

 はっと目を開けると、見慣れた天板が視界に入った。

(こ、こは……)

「……旦那様?」

 短い呼吸を繰り返しながら、レオンハルトは声の主へ目を向ける。声の主であるエーリクは、驚いたようにレオンハルトを凝視していた。
 何故エーリクが、という疑問は、より予想外の人物の登場にかき消された。

「おお! 坊ちゃま! お目覚めですか!」

(……フーゴ?)

 ヴァルヘルター公爵家の専属医であるフーゴが何故ここに、と驚いたのも束の間、軽快なノックのあと寝室の扉が開く。

「フーゴ先生、エーリク、王太子殿下がいらっしゃ――」

 入って来たヴァルターは、レオンハルトと目が合うと動きを止め、その目を大きく見開いたかと思うと、素早く駆け寄って来た。

「レオンハルト……! 目が覚めたのか!?」

 若干瞳を潤ませながら近付くヴァルターに、名前を呼びに捨てにされたのはずいぶんと久しぶりだな、と懐かしい心地になりつつ、固まったように重たくなった口を開く。

「て、おが……きてるのか?」

 ほぼ呼吸音のような掠れた声が漏れ、レオンハルトは思わず眉を寄せる。するとすかさずヴァルターがレオンハルトの体を起こし、ヘッドボードに寄りかからせた。エーリクは水の入ったグラスをレオンハルトの口元に近付け、ゆっくりと中のものを流し込む。
 何度か喉を鳴らして水を飲み込んだレオンハルトは、視線でエーリクを制すと、再びヴァルターへ目を向ける。

「それで……テオが来てるのか?」

 先ほどよりもしっかりと発声すると、ヴァルターはぐっと口を引き結ぶ。そのまま顔を伏せ、親指で目尻を拭ったかと思うと、深く頭を下げた。

「はい。旦那様と奥様のお見舞いにいらっしゃいました。現在、ヴァルヘルター公爵閣下と公爵夫人が出迎えられ、先に奥様の元を訪れている最中です」

 “奥様のお見舞い”という言葉に、ただでさえ凝り固まっている体が、さらに強張った。

「……ルシアナは大丈夫なのか? いや、それより何故……いや、あの日から一体――」
「旦那様。お言葉を遮ってしまい申し訳ございません。様々な疑問があることは重々承知しておりますが、ヴァルターさんには一刻も早く王太子殿下方の元へ行っていただくのがよろしいかと。奥様も、旦那様が目覚められたことを早くお知りになりたいでしょう」
「あ! そうだな! 一番この吉報を待ってたのは奥様だ! すぐに行ってくる!」

 エーリクの言葉を聞いて、レオンハルトが何か言うより早く、ヴァルターが飛び出していく。
 慌ただしく去って行く足音を聞きながら、レオンハルトは深く息を吐き出し、ヘッドボードに寄りかかった。

「勝手に申し訳ございません」
「いや、いい。どうやらあまり冷静ではなかったようだ」

 レオンハルトはもう一度深呼吸をすると、重い腕を持ち上げ、手を握ったり開いたりする。

「十日ほどお眠りになられていましたが、ご気分はいかがですかな、閣下」
「問題ない。……久しいな、フーゴ」

 フーゴの言葉に、十日もか、と思いつつ彼に目を向ければ、彼は目尻を大きく下げ頷いた。

「お久しゅうございます、坊ちゃま――とお呼びするのは失礼ですね。無礼をお詫びいたします、シルバキエ公爵閣下」
「貴公はヴァルヘルター公爵家の専属医だろう。そうかしこまらなくていい。ルシアナも、貴公が?」
「診させていただきましたが、お体に触れるような診察は弟子のタビタが。閣下がお探しだった女性医師で、閣下がよろしければ夫人の専属医として雇っていただければと存じます」
「そうか……」

 ルシアナに医師を見つけられたことに安堵しつつ、改めて眠っている間のことを確認しようと口を開いたものの、声を発する前に再び閉じる。
 先ほど遠ざかって行ったばかりの慌ただしい足音が、今度はそれ以外の喧騒も合わせて近付いていることに気付いたからだ。

「――さま、まっ……」
「おちつ、て……、――!」

(なんだ……?)

 眉を顰めた直後、ノックもなく扉が開け放たれる。
 そこに立っていた人物を見て、レオンハルトは目を見開いた。

「ル――」

 胸に一気に広がった喜びに、その愛しい名を呼ぼうと口を開く。いつものように甘やかに、これ以上上等なものなどないとでもいうように、愛おしい彼女の名前を呼ぶつもりだった。

「――ルシアナッ!」

 しかし、目が合ってすぐ、ぐらりと体を揺らし、そのまま前に倒れ込んでいくルシアナを見て喉から出たのは、ただただ悲痛な叫び声だった。
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