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第十一章

精霊と契約者(七)

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「喉の火傷と裂傷は酷いものですが、腕の切創は薬を塗って保湿をきちんとすれば綺麗に治るでしょう」

 ユーディットに連れられやって来た背の低い老齢の男性は、優しい口調でルシアナに微笑みかけた。ヴァルヘルター公爵家の専属医だという彼は、脇に控えていた妙齢の女性に指示を出し、ルシアナの包帯を取り替えさせる。

「傷痕を残さないためには、魔法薬を使うのが効果的で確実なのですが……」

 想定以上に痛む綺麗な赤い線が何本も引かれた自分の腕を見ていたルシアナは、フーゴの言葉に彼に視線を戻す。フーゴの目はコンスタンツェのほうを向いていて、ルシアナの視線も自然と彼女へ移った。
 コンスタンツェは、目が合うと痛ましげに眉尻を下げ、真新しい包帯が巻かれたルシアナの右腕にそっと触れた。

「ルシアナちゃんの右腕の傷には、精霊のマナが残っているの。多分、見た目以上に痛いと思うんだけど、それはこの傷を付けた精霊のマナと、ルシアナちゃんに加護を与えた精霊のマナが衝突しあってるからで、そこにまたマナを含んだ魔法薬を使うと、傷の治りが遅くなったり……下手をすれば悪化する可能性もあるの。このマナがいつごろなくなるのかはわからないけど、完全に傷がふさがる前にマナがなくなれば魔法薬を使えるから安心してね。もちろん、フーゴ先生の軟膏はすっごい効くから、傷痕が残る心配はないと思うけど! ね!」

 コンスタンツェがフーゴを振り返れば、彼は穏やかな笑みを浮かべながら頷いた。

「すぐに治る魔法薬に比べ、普通の薬は治癒に時間がかかりますが、傷痕は残さないとお約束しましょう。もちろん、そのためには夫人にもご協力いただかなくてはなりませんが」

 ルシアナはこくこくと頷きながら、内心、なるほど、と納得する。

(わたくしも、精霊に関してまだまだ知らないことばかりね。……いえ、多くを知っている、という驕りが今回のことを招いたのだわ)

 己の慢心と未熟さを反省しつつ、ルシアナは近くに控えていたエステルに目配せする。すると、すかさず彼女は傍に近付き、手のひらを差し出した。
 左手で何度か手のひらをなぞれば、エステルは小さく頷き、フーゴを見た。

「協力とは何をすればよいかとお尋ねです」

(寝込んで声が出なかったときに、よくエステルの手のひらに文字を書いていたことが役に立ってよかったわ。できれば、そんな状況にはなりたくなかったけれど……体調を崩して寝込んだわけではないから、よしと考えるべきね)

 本当はもっと早く簡単に言葉を伝えてくれる存在がいることを理解つつ、ルシアナはあえてそれを考えないように目の前のことに集中する。
 フーゴは、エステルの言葉に「ほほっ」と明るく笑うと、にこやかな笑みをルシアナに向けた。

「何も難しいことではございません。右腕を無理に動かさず、物を持たず、ただそっとしておくのです。しかし、ずっと動かさないままでいるとそのまま関節が固まり回復により時間がかかりますので、ここにいるタビタか、夫人の侍女によく関節を動かしてもらってください」

 タビタと呼ばれた、先ほど包帯を取り替えてくれた妙齢の女性は、少し緊張した面持ちで頭を下げた。

「まあ。もしや彼女をつけてくださるのですか? フーゴの自慢の弟子だとおっしゃっていましたが……」

 驚いたような、それでいて嬉しそうなユーディットの声に、フーゴは鷹揚に頷いた。

「ええ。実は坊ちゃま……いえ、シルバキエ公爵閣下に、信頼のおける女性医師はいないかと以前から連絡をいただいておりまして。女性医師のほとんどいないシュネーヴェで、タビタは手放しがたい人材ですが……ヴァルヘルター公爵家を離れ、新たに公爵位を賜った閣下が、それでもまだこの老骨を頼ってくれるなら、と」
「まあ、あの子が……」
「病気に罹ったことがなく、怪我もほとんどなかった閣下から連絡があっただけでも驚きましたが、女性の医師を求めているとも思わず……ほほっ、閣下は夫人をとても大切に思っていらっしゃるようですな」

(……レオンハルト様)

 レオンハルトが彼に連絡したのがいつごろなのかわからない。しかし、わざわざ女性の専属医を探してくれるというのは、体の弱かった自分を慮ってのことだろう、ということは容易に想像できた。

(わたくしは、本当に与えられてばかりだわ)

 何かを返すどころか、彼を死の縁に立たせてしまった。
 思わず視線を下げたルシアナの耳に「大丈夫ですよ」と優しい声が届く。

「閣下は現在、深い眠りについておりますが、外傷はございません。マナは安定していないようですが、生命活動を維持するために十分な量が体内を巡っているそうです。マナが体を満たしている以上、眠っている分には問題ございません。体に必要なものはマナが満たしてくれますから」

 そっと視線を上げれば、優しく微笑むフーゴの隣で、コンスタンツェが大きく頷いていた。

「マナも、私とセザールが交代で様子を見てて、だんだん落ち着いて来てるの。いつ目を覚ますかは……断言できないけど、寝てる分には、本当に問題ない。問題なのは、起きてても十分な栄養が摂れないルシアナちゃんのほう!」

 コンスタンツェの言葉に同意するようにフーゴが頷き、彼は先ほどまでの笑みを消して、真っ直ぐルシアナを見つめた。

「殿下のお言葉通り、問題は夫人の……喉の怪我です。先ほどもお伝えした通り、喉の火傷と裂けた傷は酷いものです。一体何をしたらそんな傷ができてしまうのか……」

 重い溜息に、ルシアナは左手でシーツを握り込む。

(……むしろ、この程度で済んで驚きだわ)

 精霊は、この世界の絶対的上位者だ。
 彼らは精霊王以外に傅くことはなく、誰におもねることもない。
 契約者に対し気安く接し、いくら親しくなろうとも、尊敬と畏怖を忘れてはいけない偉大な存在だ。

(だから、契約者は決して忘れてはいけない。……“お願い”は許されても、“命令”は決して許されないことを)

 ルシアナは、握っていたシーツを放すと、指先で優しく喉をさする。
 どのような事情であれ、精霊への命令は許されない禁忌事項だ。
 その気になれば一国をも簡単に滅ぼせてしまう精霊は、人間界が簡単に滅ぼされることのないよう、契約者の命令には強制的に従うという制約があった。しかし、この世界の下位に位置する人間が、自分たちより遥か上の存在に命令をするという不敬は自然の摂理が許さず、必ずその報いを受けた。
 精霊への命令の代償は、だいたいが死であった。
 過去、それで命を落とした人間が少なくないため、現在では禁忌事項として定められているのだ。

(全身、火に包まれて、骨も残らず消えてしまってもおかしくなかった。それが、たったこれだけで済んだのは……)

 ただひとえに、ベルが心の底からルシアナを愛してくれている証だった。
 ベルのことを思うと、胸が痛む。
 彼女は、かけがえのない家族で、親友で、尊敬すべき偉大な存在だ。
 そんな彼女が、怒りで我を忘れながらも、一心にルシアナのことだけを想っていたからこそ、ルシアナは今生きている。
 きっとベルは、自分を傷付けてしまったと後悔していることだろう。
 それを理解しつつも、ルシアナはベルに声を掛けることはできず、複雑な心を抱えたまま、ただ胸が鈍く痛むことに眉根を寄せた。
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