西新宿

ロックスサンド

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おっさんと若い女は、製薬企業の競合メーカーとして出会う

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黒川愛は自分の手のひらが汗ばんでいることに初めて気づいた。ストッキングまでじわっと湿ってくる。
「この先生に話さないと、日報かけない。明日の会議、やばい・・・。」

ー西新宿の慶都医大病院。7階建ての医局棟5階の第三内科は、免疫・アレルギーの専門とし、医局には医師たちが診療の合間にせっせと各々のデスクで仕事をしている。大きな部屋の壁に咲く花のように、立ち尽くしている愛の視線の先には、留学帰りの医局長、安倍光太郎の姿が。

「先生、弊社のアムジアですが、新しい症例報告が・・・」
そう言いながら、張り付くように安倍の横で分厚い資料の1ページを示しているのは、愛の競合製薬企業、カイザー製薬の小西達夫である。
「嫌なオヤジだ・・・。」
安倍の横からなかなか離れようとせず、時折愛の方をチラ見する小西に、愛は時折殺意さえ抱くのであった。
無理もない。小西は業界20年目の国内企業ベテランMRなのだから、経験が違う。愛は外資系製薬企業、新卒3年目で初めて大学病院を担当したばかりなのだから。小西が安倍に張り付いているので、愛はなかなか安倍に話しかけるタイミングを見つけられなかった。
「なるほど、ありがとうございます。病棟に行くので、これで失礼します。」
10分近い会話が終わった後、安倍は小西にそういうと、足早に医局を去ろうとした。
「先生!」
愛が安倍を呼び止めるも、
「すみません、あとで。」
と言い残し、安倍はエレベーターホールに消えていった。
愛の存在を十分に意識しながらも、何事もなかったかのようにチラ見するだけで、小西も医局を出ていった。
ストッキングに汗を滲ませて、パンパンに太もももが張れているのは、じっと立ち尽くしていたせいである。

昼下がり、窓から暑く差す直射日光が愛の足下を照らすのみだった。

愛は以前からからそのままにしていて気になっていた、ドライバーズシートを覆っているビニールカバーをやっと取り除いた。今までそんな余裕もなかったのかもしれない。縁もゆかりも無い、地方都市に、女だてらに転勤してきたのだから。

真新しい白いプリウスを恐る恐る前進させると、都心のワンルームマンションに併設する移動式駐車場の鉄骨がきしむ音が、乾いたコンクリートの壁に反響する。朝陽が目に入り、ブレーキペダルを踏みこみ、一瞬だけ目を閉じた。

目を開けると、逆光に重なりおっさんのシルエットが立ちはだかっていた。どこかで会ったオヤジ。そう、小西達夫だ。

ただただ、まるで子猫のように驚いて、目を丸くして硬直した愛に、小西は、笑顔とも憮然とした顔とも言えない表情で言った。
「お嬢ちゃん、お茶飲まない?」
小西の視線の先は心なしか、ドライバーズシートでタイトスカートからむき出しになる愛の太ももに行っているように見えた。慌ててスカートの丈を少し膝に戻しながらも、愛はまた汗が体中ににじむのを感じていた。



西新宿の場末の雑居ビルの3階に、そのスナックはある。エレベーターの無い古いビルで、2軒目として酔ったあとには、は少し階段がしんどい。
登りながらバランスを崩し、よたっとした小西の腰に白い手をあてて、
「大丈夫ですか?」
と、心配そうに、そして蚊の鳴くような声を出したのは、愛だった。小西は軽くうなずくと、3階まで登りきり、腰を伸ばして
「はーっ」
と、焼酎の匂いのする息を吐いた。

「なぜ私はこのオヤジと一緒にいるの・・・?」
 自問自答するばかりの愛だった。

ーーこのままだと私、このオヤジと寝るのかしら・・・
ーーまさか⁉
威勢の良い声は、愛の薄々感じている、突拍子もない想像を打ち消すには十分であった。

「いらっしゃーい!! あーらーやーだー、たっちゃん!! もう、ひさしぶりー」

いかにも場末のスナックにふさわしい、厚化粧に、妙にボリュームのあるパーマヘアを手で掻き分け、カウンター越しに声をかけたママが、直後にもっと大きい声を出したのは、愛が小西の背後から顔をのぞかせたときだった。

「あーらー!! たっちゃん、彼女??? もう、だーめーよー!」

一連の雰囲気に耐え難い焦燥感を感じながらも、愛は促されるままに小西の横の古びたチェアーに腰をかけた。カウンター越しには、ママ、そしてバイトらしき大学生の男が、せっせと客の注文の酒を作っていた。

「♪ギンギラギンにさりげなくーー!!!」
「ハイ ハイ ハイ ハイ」

半径50mくらいにまで響き渡りそうな、先客オヤジの歌声と、場末のスナックの合いの手と手拍子の無限スパイラルに巻き込まれながら、愛はトリスの水割りで悪酔いし始めた。
単身赴任の45歳のオヤジ、25歳の愛。乾いた都心に響く真夜中の歌。

「私、製薬会社に入って、何をしてるんだろう・・・。」


酒とタバコの匂いのする中年男の腕の中で、目を覚ました途端に、ひどい頭痛に襲われた。気づくと新宿のビジネスホテルのダブルルーム。
「このオヤジと寝たのかしら!?」
我に帰るも、頭痛と、展開の有り得なさで、絶句するのみの愛だった。カビのようなタバコのような匂いのビジネスホテル。横には中年男のイビキ。会話のない空間に、二人は言いようのない一種の生命感を共有していた。愛が不思議と感じているのは、後悔や否定が心から沸き起こってこないことである。むしろ沸き起こらない否定的な感情を必死に貪るように自己に求めていることには、その時には気付かずにいた。
「こんなことって・・・。絶対に違う!!!」
下着もつけていないことに気づくと、愛は絶叫した。ただし心の中にとどめた。慌ててブラをつけると、
「ウッセーな、わかったよ。じゃあな!」
と、いう小西の寝言。

「何だろう。このオヤジのこと、憎くない。いや、そんなはずはない。」
愛は自問自答することが精一杯だ。

地方から単身赴任のオヤジと、地方出身、入社3年目で東京で一人暮らしの26歳の女。

闇にも光にもなりうる無限ループが、都心の片隅のカビ臭いビジネスホテルの部屋を支配した。

支配するかのように、男の乾いた唇が愛の唇から水分を奪う。抵抗もつかの間、愛はされるがままに受け入れ、溺れるように白いシーツにゆっくりと倒れ込んだ。
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