或る箪笥と一生

天野 星

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第二章 梅と敏枝の物語

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     * * *

 時代は正子さんに箪笥を継承した昭和から明治まで遡る。国内外での歴史の変革が鳴り止まない激動の時代を私は生きてきた。

 片山梅かたやまうめという名で高等小学校一年生から尋常小学校五年生へと呼称が変更された年。各地では戦果への不満が暴動となって表面化し始め、また、戦争の影響で日本は戦後恐慌の只中にあった。厳しい世で生き残るためには強く、逞しく、慎ましくということを、齢十にして意識せざるを得なかった。
 それでも私の周囲はいつだって笑顔に溢れていた。裕福だったからこその余裕だったと今なら分かる。世間知らずだったと言えばそれまでだが、後の大戦を思えばこそ余計に身に染みた。

 私が箪笥の所有者となったのは十歳の春。妹が尋常小学校一年生になったのでお祝いをするために親族が一同に介した日のこと。皆が職や食にありつけるような贅沢な時代ではなかったが、私の家には魚だけでなく肉が並ぶ日もあった。

 母の敏子としこは病弱だったが父の実家が名の知れた家だったこと。長男だった父は家業の手伝いをして生計を立てていたこと。生まれたときから不自由と感じることはなかった。それは四歳下の妹、小春が産まれたあとも同様である。趣ある日本家屋で四人暮らし。祭事のときには親戚が集まり宴会を催す。そんな豊かな日の夜更け。
 大人たちが汗水流して手に入れたお酒やおかずで酔っ払い始めた時分。別室で妹を寝かしつけ、自身も床に就く前に親戚に挨拶をしようと宴会場へ足を向けた直後。

「梅ちゃん。すぐ終わるから、おばちゃんと少しだけお話ししてくれないかな?」

 恐る恐る振り返ると、叔母の敏枝さんが暗がりに立っていた。
 母の妹である敏枝さんは隣町に一人で住んでいるらしい。詳しい話を聞いたこともなければ、顔を合わせるのも年に一度というあまり血縁だという認識が持てない人。そのような女性に声をかけられたことに驚きを隠せないでいると。

「少しでいいの。駄目かな?」

 再び時間をくれないかと訊ねられた。突然の誘いに「知らない人にはついて行かないこと」という両親からの言いつけが脳裏を掠める。
 
「それは私じゃないといけないの?」

 叔母の真意を探ろうにも明かりのない場所では表情すら読めない。両親に確認してみようかと居間に目を遣るも、うねうねと動く影が障子に映っていて躊躇する。どうしたものかと思案していたが、深夜ということ、事情が分からないことの二点を理由に断ろうと目線を上げると、叔母の瞳に宿る決意に射貫かれてしまった。
 夜も遅いですし――
 いつの間にか肩に両手を置かれ、熱心に見つめられると考えていた言葉を飲み込むほかなかった。

「少しだけでしたら……」
「ありがとう」

 母より幾分肉付きの良い手に引かれるがまま、私は自宅の裏手へと移動した。
 連れて行かれた場所は生まれてから一度も近寄ったことのない土蔵。星影の下に建つ不気味な雰囲気にたじろぐ。空いている手で胸元をぎゅっと掴み、繋がれたままの手を引いて来た道を戻ろうとするも「大丈夫」と宥められてしまい、渋々蔵の中へ足を踏み入れた。
 言われるがまま二階へ上がり、そこで初めて目にした物が正子さんに話した衣装箪笥。
 最初は呪具や死ぬなどと不穏な単語に恐れ戦いたけれど、叔母の手の温もりや背中を叩く単調なリズムのおかげで冷静さを取り戻した私は、彼女の口から語られる箪笥の秘密を一言一句脳に刻みつけた。
 確認のために暗唱してみせると、叔母は大層驚いていた。
 しかし、口伝という不確実な方法よりも、確実な方法はないのか確認すると「否」と返ってくる。どうやら日記として書き記すことも許されないそうで、ならば仕方がないと早々に諦めた私は、最初から気になっていたことを訊ねた。

「お訊きしたいことがあるのですが」
「何かしら?」
「まだ話していないことがありますよね?」
「あら、もう気づかれちゃったの? 本当は最期まで知って欲しくなかったのに」
「今更ですよ。叔母様言いましたよね『さいごのお願い』だって。それはどちらのさいごなのですか?」

 分かっていた。紡がれる言葉の数々が、音を乗せる彼女の曇った瞳が。導き出せる答えなど一つしかないことを物語っていた。俯いて沈黙を貫こうとする叔母に近寄る。

「最期なんですね。時期は?」

 叔母が左右に首を振る。

「最初に呪具だと仰っていたにも拘わらず、話の中身は始終『時期が来るまで触れてはいけない。誰にも話してはいけない。次の所有者を決めるのは貴女よ。極めつけは所有者は一人』という発言です」
「お姉様も聡明な人だけど、梅は母親以上なのね。忠親ただちか義兄にいさんは賢明だけれども、柔軟さが足りないから父親譲りという訳でもない。となると……」
「誤魔化さないでください」
「手厳しいわね」

 話をすり替えようとする叔母を制して様子を窺っていると、何かに堪えるように唇をきつく結んでいて。何を訊いても無駄だと悟った私は、敏枝さんの話に耳を傾けることに決めた。
 最期になるかもしれないと教えられても、子どもの私に大人の彼女を救う術など最初からないのだ。残酷な現実を突き付けられても尚、夜は更けていく。

「この箪笥がどうして死の直前にしか開けられないのかは誰にも解らない。呪詛や西洋の特殊な魔術が施されていて触れることさえ許されないと語った人もいる。だけどね、今は呪具と言われる代物でも、最初にこの和箪笥を創った人の純粋な想いや願いだけは脈々と受け継がれているのではないか。そんな夢を見たのよ。おかしいわよね」

 箪笥を眺める叔母の命は限られている。それでも目の前にいる女性の人生が笑顔溢れるものであってほしいと願わずにはいられない。

「いつか私にも理解できる日がくるのでしょうか」
「あなたならきっと必ず。さ、戻りましょうか。夜更かしさせてしまってごめんなさい」
「いえ。こんな夜があってもいいと思います」
「そうね。お姉様たちには内緒よ?」

 朧気な記憶の断片。私はこの微笑みを見たことがある。

「はい!」

 クスクスと肩を寄せ合って蔵をあとにした私は、妹が眠る部屋まで送ってもらうと、居間に向かう叔母の背中をこっそりと見送った。
 その夜は興奮して眠れなかった。

 敏枝さんが仕事からの帰宅途中、川に転落して溺死したと聞かされたのは翌日のことだ。
 箪笥は『呪具』だと言っていた叔母。
 訃報の連絡を受けたとき。私が思い返したものは叔母の笑顔でもなく、箪笥を眺める諦念に満ちた横顔でもなくて。
 最期の刻。失われたモノを手にして逝けたのだろうか。
 笑顔で川を渡れているのだろうかと。
 叔母の死に際を想った。
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