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第3章 ブガッティの女、猛烈に愛しているぜ

(9)ボナペティ、ムール貝のワイン蒸し

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レ・ザネ・フォールと名付けられる狂騒の1920年代後半。フランスの影響を受けた国境近くの街もまたレ・ザネ・フォールの様相を呈している。

アメリカでは禁酒法を掻い潜るマフィアが、政治家や裁判所、警察などを取り込んで『アンタッチャブル』つまり手出しできないという意味の高みへとその存在を確立している。

イサドラ・ナリスは後悔に似た感傷が過るのを自覚した。

あの時
カナンデラ・ザカリーに誘われた時
彼らと一緒にボナペティに行けば良かった
そしてあのトリュフを練り込んだ
数種類のデザート選びに迷って笑うのよ
人殺しの私が笑うの
ボナペティは
そんなに気取った店ではないけれど
私は自分の肌に返り血が染み込んでいて
シャワーでは消せない匂いが
染み込んでいるのではないかと
それをラナンタータに
看破されることをおそれて断ったのよ
不味かったかもしれない
このレールに乗ったのは……
あの3人と一緒に
ボナペティに行くべきだった
面の割れている私がボナペティ……
あり得ない
もし、あの3人に打ち明けたら……
いいえ、あり得ない
私はまだ自分のやるべきことを終えていない
終えていないのに
精神病院に舞い戻るなんて悔しい
私は自分の望む方向に進むしかないのね
だって今更引き返すことなど
できないじゃないの……
そうよ、薄く、上手く、皮膚を削ぎとって
快感に打ち震えた殺し屋サディの復活に
私はあらがえなくて……
精神異常者の殺人鬼となじられることが
わかっていても抗えなくて……
突き進むしかないのだから……
復讐は私の生き甲斐
私を壊した奴等を絶対に許さない


カナンデラはすっとんきょうな声を出した。ケインズ・ファミーユの一階レストラン、ボナペティは満員になりかけていた。

「え、サービス・デイだって……」

「はい。今日、女性連れのお客様には特別に格安料金でお出しすることができます」

ボナペティは家庭的なレストランだった。フランスでは個性的芸術家が集結するパリ風という意味のエコール・ド・パリの時代を迎え、幾多の個性が花開いた。

ボナペティの壁には、何とも評し難い絵画が処狭しと飾られ、これぞエコール・ド・パリの香りだと、知った風なフランスかぶれの人気店になっている。

後年、この店の関係者から、店内に本物のシャガールや日本人画家イクタ・シンタの絵画が数点飾られていたことが判明したが、ボナペティ閉店の後、現物の行方は掴めない。

店の一角に陣取ったカナンデラは小さくはしゃぐ。

「わあい、今日来て良かったね。僕ちゃん何て運が良いんだろう」

世が世なれば大公国の皇女だったはずのラナンタータが、ボナペティの安っぽいテーブルに着いて、物珍しげに辺りを見回す。

「で、カナンデラ、運が良いついでに何か用事があった訳だよね。この店に」

「ああ、そうそう。ギャルソン、シルブプレ」

ギャルソンと呼び止められたホール係が「ウイ、ムッシュー」と笑顔で振り返った。

「先ずはお勧めワインとか……」

ダルク・ゲッタなまけ者吉村がございます」

ラナンタータとラルポアの視線が斜めから白く刺すのを、カナンデラは「ま、食事から済まそうや」と笑顔で返す。

「そのダルク・ゲッタを一本」

アポステルホーフェを飲み忘れたな
シャンタンがあんまり可愛いもんで
つい、幻のワインのことは
そっちのけになっちまった
罪な坊やだ……
いや、飲んでたら時間を忘れて
こいつらはイサドラに
ぶっ殺されていたかもしれないんだぞぉ
こいつら、感謝が足りない
ま、済んだことだし
食事の後にラナンタータを送りついでに
シャンタンの顔を拝みに行くか
あくまでもついでにな
薔薇の花でも持って行くか
ザカリアンローゼだ
喜ぶだろうな
ゆっくり二人で
アポステルホーフェを傾けながら
亡くなった前会長の話でもしてやろうか
あんなこともこんなことも……ふふふ
シャンタン坊や
ついでなのにあんなこともこんなことも……
ついでだからな、ついで
いやいや、あの男に頼まれて
シャンタンの手下も
首折れ事件を嗅ぎ回らなきゃ
ならないはずだ
俺様を頼れと電話するか


カナンデラは電話に立った。

かなり離れた丸テーブルにチャイナドレスの女性と三人の男性がいた。

「おい、ヴァルラケラピスに連絡しろ。アルビノを見つけたとな」

サングラスの恰幅の良い男が若い者に顎をしゃくる。黒っぽいスリーピースにシルクのドレスシャツ、ダイヤのネクタイピン。金鎖の懐中時計。指にも大きな金の指輪が光る。

「へい。ウタマロで良いですかね」

チャイナドレスの女の横にいた若い男が腰を上げた。

「お前、まだわからないのか。店の名前を出すな」

チャイナドレスの女が薄く笑う。

「本物のアルビノかしらネ。ただの薬中かもしれないヨ」

電話から戻ったカナンデラは、シャンタンにやんわり断られた落胆を微塵も見せず、両手でナプキンをしつこく揉んでフォークを握った。

「おっ、来た来た。評判のムール貝ね。俺は料理が苦手だけどさ、ワインとバターとコショウさえぶち込めば何とかなる料理だよね、ワイン蒸しって……旨いっ。此れは旨い。ボナボナ、ボナペティ。とっとと召し上がれ」

紫色の貝に艶めく肉の色っぽさと鼻腔にしっかり存在を訴える芳ばしさ。カナンデラはひたすら口を動かし舌鼓を打ってワイングラスに手を伸ばす。

へっへっへ……
これを飲み過ぎないように気をつけて、と
後はシャンタンと
アポステルホーフェを嗜もう
いやいや、シャンタンを嗜んでからか
俺様、必ず契約に持ち込んで見せるからな

カナンデラはまだ気づかない。従妹ラナンタータを、危険なカニバリズム教団ヴァルラケラピスの射程に自ら誘い込んだことに。


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