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第三章 感情を、思い出させてくれたのは

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 俺の自宅に杏珠が来た日から数日が経った。あの日以来、杏珠が笑うことは少なくなった。いや、表面的には笑っている。けれど何故かずっと俺には泣いているように見えるのだ。
 一度、聞いてみたことがある。「なんで泣いてるんだ?」って。けれど、杏珠は「泣いてなんかないよ?」と余計に笑顔を浮かべてしまう。貼り付けたような取って付けたような笑顔を。
 だから俺は何も言わなくなった。言えば言うほど、杏珠の笑顔が壊れていくような気がしたから。

 その日、定期検診の日だから、と伝えて今日の部活はなしにしてもらった。その代わり、放課後までのどこかで杏珠の写真を撮らなければならず、クラスメイトに気づかれないようにシャッターを押すのはなかなか難しいものがあった。
 いつもどおり、一人で病院を訪れると自分の番号が表示されたのを確認し、診察室へと入る。いつのように無機質なその部屋で、松村先生はいつも――とは違い、少し驚いた用に目を見開いて俺を見た。
「蒼志、君?」
「はい?」
「ああ、いや……。……修学旅行はどうだった?」
 椅子に座るように促しながら、松村先生は尋ねる。俺は腰を下ろしながら、なんと答えるべきか悩んだ。大変だった? 何事もなくてよかった? それとも――。
「……楽しかった、と思います」
「そう……」
 複雑そうな表情を浮かべながらも「それはよかったね」と松村先生は微笑んだ。
「なにか変わったことは?」
「特に、ないかと」
 一瞬、言葉に詰まったのは杏珠のことを思い出したから。杏珠といると調子が狂う。それがいいことなのか悪いことなのか俺には区別がつかない。
「楽しかったり嬉しかったりしたことは?」
「えっと」
 なんと伝えるのが正解だろうか。そう悩んで口ごもっていると、勘違いしたのか松村先生は眉を八の字にした。
「あまり、だったかな?」
「あ、いえ、その」
 普通に言えばいいのに、ためらったものだから余計に言いづらくなる。
「わりと、たくさん楽しかった、です」
「そうか。それはよかった」
 優しく頷くと、松村先生はカルテになにかを書き込んだ。『感情の爆発前兆あり』そう書かれているのが見えて、胃の奥がじんわりと重くなるのを感じた。

 最初に異変に気づいたのは、母親だった。
「蒼志……?」
 定期検診の翌日、朝がきてもベッドから起き上がることができないまま倒れ込んでいた。体調が悪いわけではない。ただ身体を起こす気力がない。
 目が覚めた瞬間から、何もかもがどうでも良くて、妙に心がスッキリと、それからぽっかりとしていた。
 何が変わったのか、自分ではよくわからない。けれど、大切なものが全てなくなってしまったような不思議な感覚に襲われた。
「あのときと、同じよ……」
 涙を流す母親が言うあのときが、何を指しているのかわからない。
「ねえ、蒼志。そうちゃん、笑って? お母さんって言って……?」
「……何、母さん」
 笑え、と言われても上手く表情が作れない。笑おうとしているのに、口角が上がらない。耳から聞こえる自分の声が、妙に淡々としていて――まるで感情が何もないかのように聞こえた。
 感情が、ない?
 母親の言った『あのとき』がいつなのかようやくわかった。初めて『心失病』を発症したあの日、全ての感情が抜け落ちたように無になった。今と同じように。
「病院の予約を取ってくるわ」
 母親は慌てて俺の部屋を飛び出した。俺は――ただ空虚なまま天井を見上げていた。
 そのあとすぐに病院へと向かうことになった。大学病院なんて予約なしでは数時間待ちも不思議じゃないのに、この日すぐ診てもらえたのはそれだけ俺の状態が危なかったからかもしれない。
 ついて行くと言う母親と一緒に診察室へと向かった。
 村松先生は俺にいくつかの質問をすると、難しい表情で首を振った。
「感情が、消えています」
「そんな……!」
 悲鳴のような声を上げたかと思うと、母親が崩れ落ちた。嗚咽が聞こえてくるから、泣いているのだとわかる。
「せん、せ……うちの子は……蒼志は……」
「……こうなってはもう、どうしようもありません」
「いやあああ!」
「残された日々を、ゆっくり過ごしていただくのがいいかと」
 母親と村松先生の話をどこか他人事のように俺は聞いていた。

 学校にはもう行く必要はないと、家にいればいいと母親には言われた。けれど、家にいても一日中隣で母親が泣いているだけだ。数日は家にいたものの、気晴らしになるかはわからないけれど、今まで通りの日常を送るほうがずっとマシだった。
 ――それに、俺が休んでいるせいで、毎日のように杏珠からメッセージが届いていたし。
 気怠さは少しだけ楽になった。とはいえ、無理はしないようにとのことだったので、自転車はやめて歩いて学校に向かった。たった数日で、外の景色はガラッと変わった気がする。こんなにも世界は色あせて見えていただろうか。
 何もかも、グレーがかったような、そんな世界が広がっていた。
 なのに。
「おはよ! 蒼志君!」
 教室に着くなり駆け寄ってきた杏珠だけは、なぜか色鮮やかだった。
「蒼志君? どうかした?」
「あ、ああ。いや、おはよう」
「風邪って連絡来てたけどホントに? 身体なにかあったんじゃないの?」
 周りに聞こえないように杏珠は小声で尋ねる。別に普通に言えばいい。心失病が進行して、もうすぐ死ぬって言われたんだ、と。でも。
「ホントだよ。もうよくなったから」
「そっ……か、ならよかった!」
 嘘を吐いてしまったのは、どうしてだろう。
 その日の放課後、杏珠はまだ片付けが終わらない俺の席の前で立っていた。あと数日で夏休みを迎えることもあり、俺は机の中身を持って帰る準備をしていた。
 どうせ夏休みも来るのだから持って帰る必要なんてないよ、と後ろの席の大谷は笑う。けれど俺は夏休み中、あと何日学校に来られるかわからなかった。立つ鳥跡を濁さず、ではないけれど自分が死んだあと片付けをするためだけに両親が学校に来るようなことは避けたかった。ただでさえ悲しい思いをさせるのだ。少しでも、しなければいけないことは少なくしておきたい。
 詰め込めるだけ詰め込んだ鞄のファスナーを閉めると、俺は待ちくたびれたように前の席の机に座った杏珠を見上げた。視線に気付いた杏珠は、口を開く。
「終わった?」
「ああ」
「そっか、じゃあ行こっか」
「どこに?」
「屋上!」
 どうやら今日の部活動は屋上で行うようだった。鞄を肩に掛けると持ち手が食い込むが、気にならないフリをしながら教室を出た。
 屋上へ向かう階段を上りドアを開けると、吸い込まれそうな程の青が広がっていた。
「気持ちいいぐらいの青空だね」
「ホントだな」
 屋上の床に座ると、手をつき杏珠は空を見上げる。そのまま空の青と同化して杏珠が消えてしまいそうに思えた。
「スカート汚れるよ」
「ふふ、蒼志君ってばお母さんみたい」
 絞り出すように言った俺の言葉を杏珠は笑う。何が面白いのか腹を抱えて。ひとしきり笑ったあと、杏珠は空を見つめたまま言った。
「蒼志君の蒼の字は『あお』とも読めるけど、こんなふうな空の青さなの?」
 脈絡のない唐突な質問だと思った。けれど、杏珠の隣にあぐらを掻いて座ると、同じように空を見上げた。
「蒼の字は『蒼天』って言葉から取られてて、確かに空の青さなんだけど夏の空とは違うんだ」
「空の青さに違いがあるの?」
「ある、らしい」
 説明できるほど俺自身も詳しく調べたわけではない。小学校の時に授業でやった『自分の名前の由来を調べましょう』というので調べたぐらいだ。
「春や夏の白っぽい青と比べて、秋や冬の空の方が青が澄み切っているらしい」
「蒼志君の『蒼』はどんな青なの?」
「俺の『蒼』は春の空の青さを言うんだ」
「春の……」
 次の蒼天の空を俺は見ることはできない。けれど、来年の春の空を見上げた杏珠が、もしもこの話を、そして俺のことを思い出してくれればいいなと思う。
 死んでしまったとしてもずっと覚えていてくれる人がいればその人の心の中で生き続けると言ったのは誰だっただろう。
「そっか」
「うん」
 杏珠はそれ以上何も言わない。俺も何も言うことなく、ただ二人で空を見つめ続ける。
 ふと空から視線を杏珠に移す。その横顔は凜としていて、とても綺麗だった。
 習慣というのは恐ろしいものだ。感情がどこかに消えてなくなってしまった今でも、無意識のうちにスマートフォンをそちらに向けていた。
 レンズ越しに見た杏珠の瞳には俺の『あお』とは違う空が映っていた。それがどうにも受け入れられなくて、気付けば名前を呼んでいた。
「杏珠」
「なに?」
 そう言って振り向いた杏珠をカメラに収めた。
「わ、隠し撮りだ!」
「こっち向いたんだから隠し撮りじゃないよ」
「えー私に言わずに撮ったんだから隠し撮りでしょ? もー!」
 唇を尖らせながらも、怒っているようには思えなかった。そんな杏珠の表情があまりにも可愛くて、もう一度シャッターボタンを押しそうになって慌てて止めた。
 約束は一日一枚、だ。……別に、二枚撮っても杏珠は怒ることはないだろうし、もしかしたら『写真の楽しさに目覚めたの?』と喜ぶかも知れない。そうはわかっていてもどうしてか撮ることを躊躇われた。
 もしも撮ればそれは、杏珠に言われたからという名目がなくなり、ただ俺が撮りたいから、になってしまうかもしれないから。
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