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第三章 感情を、思い出させてくれたのは

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 夏の天気は変わりやすい。さっきまで吸い込まれそうなほどの青が広がっていた空は、いつの間にか灰色の雲で覆われていた。山の方には黒々とした雲が見える。あの雲がこちらにくれば一雨来るかも知れない。
 同じように思ったのか、杏珠も「そろそろ中に入ろうか」と立ち上がった。「ああ」と返事をして、背を向けた杏珠のあとに続いて立ち上がろうとしたそのとき――杏珠の身体が崩れ落ちた。
「お、おい!」
 慌てて駆け寄るが、苦しそうに顔を歪めたまま声すら出せない様子にただ事ではないと感じる。
 鞄を放り出し、杏珠のことを背に背負うと――無我夢中で屋上を飛び出した。
 意識がない人間を背負うのがこれほど大変だと思わなかった。ずり落ちそうになる身体を必死に背負いながらようやく一階にある保健室にたどり着いた。両手が塞がっているせいでドアを開けることができず、ノックの代わりに足でドアを軽く蹴ると怒鳴るようにして呼びかけた。
「先生!」
 だが、中から反応はない。ここまで来たのにまさか不在なのだろうか。それなら職員室に向かった方がよかったか。背中に背負った杏珠の身体は力が抜けていくのか、どんどん重くなっていく。
「くそっ」
「誰がクソなんて言ってるの」
 その声は、俺のすぐ後ろから聞こえた。
「あなたね、保健室のドアを蹴るなんて、何を……」
「先生! そんなことより! 杏珠が大変なんだ!」
 説教を始める保険医の言葉を遮ると、俺は必死に訴える。その声色にただ事じゃないとわかったのか、保険医は俺の背中に背負われた杏珠に視線を向けた。
「日下部さん……?」
「先生?」
「何かあったのね。ちょっと待っていなさい」
 それだけ言うとポケットからスマートフォンを取りだしどこかへ連絡をした。
「はい。そうです。ええ、至急救急車を」
 119番にかけたにしては簡易な指示に俺は不思議に思うが、そんな些細なことはどうでもよかった。今は杏珠が助かるのが先だ。電話を切ると、今度は別のところにかけた。
「はい、保健室の。日下部が倒れたようで。今救急車を呼んでいます」
 どうやら電話の相手は担任のようだ。何やら指示を出すと、保険医はスマートフォンをポケットに戻し俺に向き直った。
「朝比奈君、日下部さんをこちらに。救急車が来るから正門まで連れて行くわ」
「俺が連れて行きます」
「でも」
「急いだ方がいいでしょう。受け渡しとかこの押し問答をしている時間が無駄です」
 きっぱりと言う俺に何か言いたそうだったけれど「そうね」と頷くと俺を先導するように保険医は廊下を急ぎ足で進み出した。
 放課後と言えど部活動をしている生徒はいる。保険医とともに杏珠を連れて廊下を行く俺は見世物のようになっていた。その中に大谷の姿を見つけた。周りの人間のような好奇の目、ではなく心配そうに俺を見つめている。声を掛けていいのかわからない、そんな表情を浮かべる大谷の名前を俺は呼んだ。
「大谷!」
「え?」
 突然のことに少し驚いたような表情を見せたが、足を止めることのない俺の元に大谷は駆けつけた。
「どうした?」
「事情は言えないんだけど、屋上に俺と杏珠の鞄が置いてあるから教室に持って行っておいてくれないか」
 事情は言えない、と言いながらもこんな状態の俺達を見て何も気にならないわけがないだろう。ごちゃごちゃと聞かれたら面倒だ、そんな思いが過る。
 が、大谷は「わかった」と返事をすると俺が向かう正門とは反対の、階段の方へと駆け出した。何も聞くことなく。
 杏珠を背負った俺と保険医が正門にたどり着くが救急車はまだ来ていなかった。遠くの方から救急車のサイレンが聞こえてくる。早く、早く来てくれ。
「重くない? 大丈夫?」
「……大丈夫、です」
「先生! 救急車は!? ……え? 朝比奈?」
「もうすぐ来ます。ご家族には?」
 連絡を受けた担任が息を切らせて駆けつける。どうやらこの二人は、杏珠が倒れた理由について何か知っているようだった。
「杏珠……」
 背中に背負っているはずの杏珠はうめき声一つ上げることはない。時折、荒い息づかいが聞こえることと、妙に背中に触れる杏珠の体温が高いことだけが杏珠が生きていることを確認する術だった。
 けたたましい音が聞こえ、正門に救急車が入ってくる。中から救急隊員が降りてくると、保険医に促されるまま俺の元へとやってくる。実際には俊敏に動いているはずの救急隊員の行動がやけにスローに思えて苛立たしい。もっと早く。手遅れになったらどうするんだ。
「君、ありがとね」
 俺の背中から杏珠を担架に移動させると、救急車へと乗り込ませる。中には当たり前のように保険医が乗り込んだ。
「それじゃあ、朝比奈。君は――」
「俺も行く」
「は?」
 止める声よりも先に俺は救急車へと乗り込んだ。たくさんのコードに繋がれる杏珠の手を握りしめる。どうしてだかわからないけれど、杏珠を一人にしてはいけない気がした。
「どうされますか?」
 救急隊員が保険医に問いかける声が聞こえるが、俺は聞こえないフリをして杏珠の手を握り続けた。
「杏珠、聞こえる? もうすぐ病院に行くから。絶対に大丈夫だから」
「どうされますか!?」
「……このまま、出発して下さい」
 俺に降りるつもりがないことを悟ったのか、保険医が救急隊員に告げると救急車の扉が閉められた。
 処置のため、手を放すように言われ俺はそっと杏珠から手を離す。さっきまで手のひらの中には杏珠のぬくもりというには熱すぎる体温があったのに、離した瞬間からその熱が奪われていく。相変わらず杏珠は身動き一つしない。それでも付けられた心電図の不規則な音が、杏珠がまだ生きていることを示していた。
 狭い車内は思ったよりも揺れる。こんなにもがたついて杏珠は大丈夫なのだろうか。そもそもいったいどうしてこんなことになっているのか。
 揺れた拍子に杏珠の手がストレッチャーから落ちた。その手を再び握りしめる。こんなふうに焦ったのも、無我夢中で動いたのも心失病になってから初めてのことだった。ただ杏珠のことしか考えられなかった。
 これが心失病末期の感情の爆発だというのならそれでもいい。このあと命が尽きたとしても、ただ杏珠のことだけを想っていたかった。
「杏珠……」
 そっと杏珠の熱い手を握る指先に力を込める。けれど、どれだけ手を握りしめても、あの日のように杏珠が握り返すことはなかった。
「……朝比奈は」
 それまで黙ったままだった保険医が小さな声で俺に尋ねた。
「日下部の病気のことを、知ってるの?」
「……はい」
 嘘だ。本当は杏珠の病気のことなんて何も知らない。これっぽっちも、ほんの僅かも。けれどここで知らないと言えば、きっとこのまま俺は杏珠のことについて蚊帳の外のままだ。誰も教えてくれることなく、杏珠が笑顔の裏で何を抱えているのかも知らないまま。そんなのは嫌だ。
 杏珠の手を握りしめたまま頷いた姿に、俺と杏珠の関係を都合良く誤解してくれたようで「そう……」と小さく呟くと、保険医は指を組んだ両手に額を当てるようにして項垂れた。
「最近、日下部が凄く楽しそうで。何かあった? って聞いたことがあったの。クラスメイトが部活に入ってくれたんだって。一緒に写真を撮ってるんだけど一人で撮ってるときの何倍も楽しいって笑ってたわ。……クラスメイトって、朝比奈のことだったんだね」
「……病気のこと、先生にちゃんと言ってたんですね。誰にも言ってないかと思ってました」
「まあ、それはね……。あなたと一緒だよ。学校で何かあったときに困るからって」
 保険医の言葉に俺は無言を貫いた。確かに、俺自身も学校での急変がないのであれば、伝える必要性を感じなかっただろう。いや、急変の可能性があったとしてもどうだろう。あの頃の俺は今よりももっと感情に乏しくて、何もかもがどうでもよかった。
 両親が、担当医が「学校とも連携を取りましょう」というからそれをそのまま受け入れただけだ。そこに俺の希望も拒否感も何もなかった。
 だが、杏珠は違う。きっと周りに迷惑をかけたくなくて自分から伝えることを選んだんじゃないか。伝えたくなくても、伝えることで自分が病人扱いされることがわかっていても、他人に迷惑をかけないために。
「あなたたちはまだ若いのに……こんなに子供なのに……」
「…………」
「入学してすぐに病気が見つかって……なんとか二年生になる前に寛解までいって、今年は学校に通えるって喜んでいたのに……再発なんて……辛すぎる……」
 再発と言う言葉に喉の奥が鳴りそうになるのを必死に堪えた。誰が? 何を? 病院に行っていたのは祖母のお見舞いだと言っていたが本当にそうだったのだろうか。
 初めて病院であったのは学校帰りに定期検診に行ったとき。あれは本当にお見舞いだったのだろうか。俺と同じように、授業に差し障りがないように、他の生徒に何か詮索されないためにあの時間に通っていたのでは……?
 先日の遅刻もそうだ。いくら祖母の具合が悪いからといって、遅刻をしてまで見舞いに行くだろうか。いや、そもそも――午前中のあの時間は、まだ面会時間ではない。
 気付いてみれば思った以上に杏珠の嘘は明白で、ただ俺が杏珠のことに興味を持って話を聞かなかったから気付かなかっただけの綻びがたくさんあった。
「……五月の半ばに」
 俺はようやく口を開くと、震える声で保険医に問いかける。
「大学病院で会ったとき、余命……三ヶ月だって……」
 否定して欲しかった。誰の話をしているのって、余命なんて縁起でもないことを言わないでって。けれど、隣に座る保険医は力ない声で「そう」と頷いた。
「……そんなことまで、話してたのね」
「……っ」
 けれど保険医の口から出たのは、俺の希望とは正反対の、嫌な推測を裏付ける肯定の言葉だった。
 一瞬、救急車の中の音が全て消えた。生きていることを示す心電図の波形は動いているのに音が聞こえない。サイレンの音も、車道を走る音も、全ての音が俺の耳から消えた。今起きていること全てが夢ならいいのに。心失病だと宣告されたときにすら思わなかったことを考えてしまう。それぐらい、杏珠の命の灯火が消えてしまうことが俺には怖かった。
「日下部さんから」
 ようやく音が戻ったのは、保険医の口から杏珠の名前が出たときだった。不意に聞こえた名前に思わず顔をそちらに向ける。保険医は涙を必死に堪えるように、けれど悲痛な表情を隠すことなく杏珠を見つめていた。
「半年前に『再発しちゃった』って笑って言われたの。最初は冗談だと思ったわ。だって、寛解になったって聞いてからまだ二ヶ月しか経っていなかったから。たった二ヶ月よ。それなのに……」
「半年前……」
 一人で水族館に行った杏珠はどんな思いでイルカショーを見つめていたのだろう。イルカが水しぶきを上げて宙を舞う間だけは嫌なことを忘れられると言っていた。何回も何回も腰を上げることなく見つめたショーで、何度自身の余命のことを忘れられたのだろう。
『どっちが先に死ぬかな』
『ふざけないで!』
『生きたいと思っているおばあちゃんと、生きることを諦めているあんたを同列に語らないで!』
 あの日、大学病院の前でした会話。あれを杏珠はどんな思いで聞いて答えたのか。生きることをどうでもいいと思っていた俺を、生きたいと思っている杏珠は、どんな気持ちで……。
「くそっ」
 謝りたかった。謝る時間が欲しかった。もう一度、杏珠に会いたかった。
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