一人で生きる

フルギノキフルシ

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03.

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 電車の中で、イチは吊り革を掴んで窓を見ていた。僕は吊り革を持たずにスマートフォンを触っていた。ときどき目を上げて、窓に映ったイチの鼻を見た。
 マンションのエントランスで、俺来たことあるっけとイチは言った。
「あるよ」
 大学生としての4年間を終えたあと、僕はぼんやりとしたなりゆきで修士号を取り、博士課程に進み、大学という場所にしがみついて生きていくことを選んだ。イチとセックスした部屋は、ぎりぎり食べていけるポストに遠方の大学でありつけたとき引き払った。次に住んだ部屋は安くていいところだったけれど、この辺りで働ける目処がついて立ち退いた。今の部屋に暮らして3年になる。イチは1度だけここに来たことがある。
 イチをリビングのソファに座らせて、しばらく待たせてから紅茶を淹れた。カップを2つテーブルに置き、イチの顔を下から覗いた。イチはまばたきをせず前を見て、目を覆う涙の膜を分厚くしていた。
「前来たの、奥さんと1回別居したころだと思うよ」
「そうだっけ」
 僕はそのまま床に膝をついた。イチはカップの中身を口に含んで飲み下した。僕はイチの喉を紅茶が下っていくのを見ていた。
 3年前は、イチが食べたがったシュラスコの店に行った。腹いっぱいに肉を詰め込んだくせにまだ不満足な顔をしているイチを、僕はこの部屋に連れて帰った。イチは、近くのコンビニで買ったロング缶のビールをがぶがぶと飲んだ。日付が変わるころになってから、嫁もチビも坊も出ていったと言い出して、話している間にソファで眠ってしまった。僕は床に座って、イチのくるぶしに指をつけたり、斜め下から覗いた顔を撮ったりして夜を明かした。嫁もチビも坊も出ていったことは、その2ヶ月前には知っていた。
 イチもイチの奥さんもイチの友だちもイチの奥さんの友だちも、みんな少しずつインターネットに情報を残す。長女のチビもじきに中学生で、去年年賀状で見た限りたぶんそろそろチビという感じでもなさそうだったから、余計なことをネットに流し始めると思う。
 イチは家族に置いていかれたことに戸惑っていて、そのくせ人前では平気な顔をする努力をしていた。そのくらいのこと、本人に会わなくたって僕にはすぐにわかった。だから、僕はイチが呼んでくれると期待した。
「いやまあ、元奥さんなんだけど」
 イチはカップに視線を落として言った。僕はイチの唇を見ずにいられない。
「離婚したって言ったっけ」
「聞いてないよ」
 あのあと1度は嫁とチビと坊が帰ってきたことだって、でも結局は離婚したことだって、本人の口から聞かなくたって知っている。
「そう、あのあとはうまいこといってた、てかうまいこといってると思ってた」
 期待したとおり、奥さんに置いていかれたイチは僕を呼んでくれた。部屋にまで来てくれた。今度こそいけると思ったのに、イチが酒に呑まれるのを止めるのに失敗した。
「あのとき、いっぺん出てってまた帰ってきてくれたとき、ちゃんと腹割って話し合ったつもりだった」
 イチの2回目の転職のときは、僕はこの街で暮らしていなかった。会いにはこられたけれどホテルに連れ込むのはどう考えても自然ではなかったし、イチの家には嫁とチビがいた。奥さんが妊娠でどうにかなった、とイチは言ったけれど要するに大喧嘩をして奥さんに家出されたときは、居酒屋で2時間くらい酒を飲んで、嫁が待ってると帰っていった。
 はじめてイチから呼び出された25のときは、どうやら2人きりらしいとわかってすっかり舞い上がってしまって、ちっともうまくやれなかった。当時はまだSNSなんてものは一般的ではなかったから、同期連中の話を総合した結果、なるべくしてなるみたいに言っていた憧れの官僚づとめをわずか3年で辞めたのだと知った。
「それが今さら、あなたは私の話なんか聞いちゃいません、もう話すことはありませんのであとは弁護士を通してくださいでおしまいよ」
 そんな調子だったから、最後にイチとセックスできたのは19年前、珍しく台風がきた日だ。荒天で午後から休講になって、ずぶ濡れのイチがうちに来た。
「そっか。たいへんだったね」
 1度セックスしたあとの月曜日、イチは何事もなかったような顔をしていた。だから僕も、何事もなかったような顔をした。気を抜くとすぐ頭の中でイチとやりはじめるようになったこと以外、僕の生活は何も変わらなかった。後ろから覆い被さってきたイチは、熱くて大きくて気持ちがよかった。
「お茶、もっといる?」
「水がいい」
「わかった」
 キッチンでグラスに水を注いで戻ってくると、イチは両肘を膝について、手の甲に顎を載せて壁を見ていた。グラスをテーブルに置いて、イチの隣に座った。太腿どうしが触れるくらい近い。イチは横目で僕を見て、すぐ壁に視線を戻した。
「へこむわ」
「うん、へこむよね」
「俺誠実でしょ」
「そのつもりだね」
「努力してきた」
「知ってるよ」

 台風の午後、イチはうちに来た。友だちは男だって女だってあのあたりにいくらでもいたし、別にタクシーに乗ったって構わなかったのに来た。傘の骨が2本折れていた。髪から雨を滴らせて、Tシャツが体に貼り付いていた。タオルとジャージとシャワーを貸した。僕の部屋にイチでも着られそうなものは他になかった。下着の替えだってなかった。
 イチがシャワーを浴びている間、僕は畳に座って、風呂場の扉を見て待っていた。イチはジャージを着て出てきて、タオルを洗濯機に放って言った。
「地元青森だっけ?」
「愛媛」
「まじ。誰と間違えたんだろ。ごめん。愛媛って何あるんだっけ。城。温泉」
「城と温泉はまあ、おおかたの都道府県にあるよね」
 その日のセックスがどんなものだったのか今となっては自信がない。何しろ19年間にわたってリピート再生してきたものだから、だんだんと都合のいいように改編がされて、何が記憶で何が妄想か区別がつかなくなってしまった。
 風呂場の前で膝をついて、立っているイチにフェラチオをしたのは現実だと自信がある。そのときイチが僕の髪に触ったのは本当かどうかわからない。最終的に畳の上で後ろからしたのは間違いないはずだ。でも、そのときイチが僕の名前を呼んだのは妄想だと思う。下の名前で呼ばれたことなんかほとんどない。知っていたかも怪しい。それでもまるで本当にあったことみたいに思い出せる。イチは僕の腰を抱えて前後に動きながら僕の名前を囁いた。

 このあたりまで再生すると僕はいつもピークを迎える。腿を強く掴んできた指の圧のことを思い出していると、隣でイチがおいと言った。
「勃ってんぞ」
「あ。ほんとだ」
 あの日2人とも終わったあと、畳に転がって、僕から絡み付いてキスをした。最初は触れるだけで、そのあと僕が唇を開いてイチを引き込んだ。本当にそうだっただろうか。僕たちはキスなんかしただろうか。でも、イチの舌がとても気持ちよかったのは事実だと思う。
 目を上げるとイチが僕を見ていた。
「おまえまだやりたいの」
「そうだよ。ずっと前から知ってたでしょ」
 腕を掴む。振り払われる。イチを見る。あのころよりそれなりに太って、皮膚が少し柔らかくなって、唇と歯にワインが染みておまけに舌は炎症を起こしていて、それでもきれいだ。
「もう20年だぞ」
「19年だよ正確には。2人になれたのが19年で5回で俺今度40なんだからこのタイミング逃したら下手すると2度とやれないまま死ぬ感じになる」
 イチのひび割れた唇に指を置く。舐めないだけ許してほしい。
「そんなに俺のこと好き」
「きれいだしちんこでかいしやりたい」
「なんでそうなる」
「事実だから仕方ないよ。イチだってそれでもできたでしょ」
 イチは僕の手首を掴んで、唇に触れていた指を剥がした。目尻がきれいだ。そこに寄った皺もきれいだ。
「あれはよくなかった。俺恋愛してないのにやると後でテンション下がる人」
「うん。若いときにこりたね。今じゃ浮気も買春もやらない。そこは誠実」
 イチが掴んだ手をソファに下ろそうとするのを、どうにか腕に力を入れて拒否する。粘っていたら諦めたのかイチの体が緩んだ。空いている手でイチの胸に触った。そういえば台風の日も、俺のこと好きじゃないのとイチは言った。キスの前だったか後だったか。胸から臍、下腹部に掌を滑らせる。昔はこんな風に筋肉の上に脂なんかついていなかった。それでもイチはきれいだ。
「触りすぎ。おまえほんと堂々と体目当てだな」
 イチが眉を寄せたので、こういうとき手を上げてくれる人ならいっそよかったのにと思った。イチはそんなことはしない。19年もかけたのに、僕はまだイチを正しく挑発する方法を知らない。イチの首に腕を回して、肩に顔を埋める。
「ねえなんでもいいからやろうよ。気持ちよくなってもらえるようにするからさ」
 店でついた酒と脂のにおいの下から、イチそのものの肉と汗のにおいがする。このままイきかねないのを堪えて、顔を肩に押しつけたまま、手探りでイチの顎に触る。
「必死すぎんだろ」
「もう2度とセックスできないまま死ぬのかと思ったら怖くてたまんない」
「セックスはまあできるだろ、何かしら誰かしら」
「いや元々少なかった需要も加齢と共に減る一方だし、あと違うってイチとのセックスだって」
 後ろ頭にイチの掌が載ったので驚いた。顔を上げようと思ったのにできなかった。イチの手が僕を押さえつけている。
「俺の体は好き?」
「好き。もう大好き」
「引くわー」
 イチの腕が僕の背中に回る。腹と腹とが重なる。イチの下半身がどうやらいけそうな感じになりはじめている。これは大変なことだ。
「まあ、おまえをここまで育てた俺にも責任の一端はある」
「マジで?」
 頭を指の腹で叩かれて上を向く。イチが僕を見ている。ほんとうにきれいな人だ。
「おまえもそう思ってんじゃないの」
 僕はただイチとやりたいだけで責任とか論理的整合性とかには全然興味がない、なんて余計なことを言って話がずれたらたまったものじゃないのでキスした。
 すぐ舌が入ってきて、上顎の奥を舐められた。首の付け根から膝の裏までいっぺんに気持ちよくなって、死んでもいいと思いかけたけれど冗談じゃない。イチのちんこが入るまで死ねない。
  唇を離して目を開けると、イチはどうということもない顔をしていた。僕は言った。
「ベッドでいい?」
「いいけどおまえあのバカみたいにゴム集めんのまだやってんの」
「うん。最近ほんといろんなのあって」
 バカじゃねえのとイチは言った。2人でソファから立ち上がると、僕の目線はイチの頬のところにある。噛んだり吸ったりしていいのかあとで聞きたい。
「行くぞフミ」
 イチはリビングの扉に手をかけた。僕は、やっぱりあのとき名前で呼んでくれていたのかと思った。
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