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新たなヒロイン伝説

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 翌日の午後。決勝進出を賭けて、ジュリーとマユがバンコクの中心部・ナナに設けられたリングで対峙した。マットレスを重ねただけの簡易的なリングではあったが、ジュリーとマユにとっては、運命を決めるべく四角いジャングル。この日は美央のアイデアで、「OTENBA」と書かれたお手製ののぼりが花道に立てられ、会場の賑わいづくりにひと役買っていた。
 「熱く燃えるバンコクで女三銃士が戦い抜く。狙うは三国一の女子プロレス最強王座。勝つのは私だ。ジュリー入場」という場内アナウンスが響き渡ると、ワーッという声援がうなり出した。ジュリーにとっては、ホームグラウンドのような会場。トレードマークでもあるピンクのガウンに、会場からは「かわいい」という声がはじけ飛んだ。
 プロ顔負けのアナウンスを務めているのは、もちろん日奈子のお姉さんの旦那の武雄さんである。日本語・タイ語・英語という三か国語を使い分けながら、場の空気を自在に操る能力は見事としかいいようがなかった。高校時代、武雄は放送部に所属していて、将来はアナウンサーになるのが夢だったらしい。結果的に夢は叶わなかったものの、人前で話すのがうまく、社会人になってからは、よく友人らの結婚式の司会に駆り出された。その経験が今になって活きているのである。
 続いて「ヤンゴンおてんばプロレスの超新星・マユ入場」という場内アナウンスに合わせて、マユが花道を歩いてきた。マユにとっては生まれて初めての大舞台。
 マユは生粋のヤンゴンっ子であった。去年高校を出たばかりで、アルバイトをしながら、地元の日本語学校に通っていた。ある程度の日本語が身についたところで、ヤンゴンの郊外にある日系企業に就職するつもりでいたが、たまたま街角に置いてあったチラシが目に留まり、ヤンゴンおてんばプロレスにチャレンジするのもありかと考えるようになった。格闘技への憧れというよりも、新たな挑戦の場として選んだ人生(みち)、それがプロレスであった。
 マユが生まれ育ったのは、ヤンゴンの中でも貧困地区として知られるダラであった。都市化の波が進むヤンゴンであったが、川をひとつはさんだだけで、そこには大都市・ヤンゴンの裏側にひそむ厳しい現実が広がっていた。
 マユの脳裏をかすめるのは、小さな弟や妹たちを連れて、ヤンゴン市内のマーケットで日本人観光客を相手に「社長さん、社長さん」なんていいながら、日本人を――というよりも、お金(とにかく現金だ)を追い求めていた時分の思い出である。思い出といっても、いいことなんて何ひとつありはしなかった。お金を持って帰らないと、母親から叩かれるのである。マユには弟がふたり、さらにその下に妹がひとりいたが、弟たちはいつも痣だらけだった。
 「お母さん、私が悪いの。だから、みんなを叩くのはやめて」なんて泣き叫んでばかりいた少女時代。
 もういい、こんな生活は――。一日でも早くピリオドを打って、いつかは絶対に日系企業で働いてみせる。お金をたくさん稼いで、家族のみんなを楽にさせなくちゃ。女子プロレスを媒介にすれば、きっとそこから新たなチャンスが生まれるかもしれないとマユは思っていたのだ。
 「カモン、マユ」。
 試合開始のゴングが鳴るやいなや、ジュリーが挑発した。ジュリーとマユの身長はほぼ同じ。見た目のウエイトはマユに軍配があがるだろうか。どこでどう覚えたのか、手四つの体勢で格上のジュリーを迎え撃つマユ。飛び道具が得意だというマユだったが、この試合に限っては慎重な姿勢を崩さず、動よりも静なる闘いが続いた。
 ジュリーのグラウンドコブラをカウントツーではね返したマユによる足四の字固め。ジュリーが逆四の字固めでやり返すと、「ギャ~ッ」という奇声をあげて、もがくようにしながら、マユが這いつくばってロープへと逃れた(注:実際はマットプロレスでロープがないため、マットの外へ手を伸ばした時点でロープブレイクと判断される決まりであった)。
 その後はジュリーの監獄固めを切り返したマユが、ボーアンドローをくり出した。俗にいう弓矢固め。初めて見る技に、会場からは「おおっ」という声があがったが、マユが自らの体を揺さぶって逃れると、そのままジュリーの上半身にからみつき、必殺のドラゴンスリーパーへ。「これでもか、これでもか」と思いながら、必死の形相で締めあげるマユだったが、ジュリーが音(ね)をあげることは決してなかった。
 試合が静から動へ、平面から立体へと動き出したのは、ジュリーのローリングソバットがきっかけであった。「空中戦なら負けない」と思ったのか、正面切ってのジャンピングニーアタックや、パイプ椅子の上からのダイビングセントーン、極めつけはテーブルから舞い落ちるムササビボディプレスなど、あっと驚くような飛び道具がマユの全身から放たれた。
 「えっ、嘘。どうしてこんなにハイレベルなの」と一瞬、戸惑いの表情をのぞかせながらも、百戦錬磨のジュリーはあくまでも冷静であった。バンコクで王者に君臨しているというプライドがそうさせるのか、マユからくり放たれる技をひとつひとつ受け止めながら、勝機をうかがっていたのだ。これぞ女王・ジュリーの受けの美学とでも叫びたくなるような試合運び。
 ムササビボディプレスを間一髪でかわすと、高速のエルボードロップをぶち込んだあと、得意の腕ひしぎ逆十字へ。長い黒髪を振り乱しながら、もがき苦しむマユの右腕を「これでもか」という鬼の形相でジュリーが締めあげた。今やすっかりレフェリーらしくなってきたルークが、しきりに「ギブアップ?」と投げかけるも、マユが首を縦に振ることはなかった。
 「それならば」ということで、ジュリーが仕切り直した技。それはスタンディングのチキンウイングフェイスロックであった。もはや脱出不可能というべき必殺技に、マユは苦悶の表情を浮かべた。一分、二分。かなり危険な状態に、ルークがレフェリーストップを要求しようとしたそのときであった。なんとマユがジュリーの手をはずし、そのまま一本背負いでジュリーを前方にぶん投げたのである。
 右手で腰を押さえながら、「えっ、まさか」とあっ気にとられているジュリーに、マユが反撃の狼煙(のろし)をあげた。ジュリーのお株を奪うようなシャイニングウィザードの三連発から、テーブルを駆使したムーンサルトプレスへ。最後は掟破りの逆卍固めで、バンコクの女王・ジュリーからギブアップを勝ちとったのだ。
 「自分でも信じられない」といった顔つきのマユ。そして屈辱にまみれながら、リングへと崩れ落ちるジュリー。ついにジュリーの不敗伝説にピリオドが打たれた瞬間でもあった。
 しかも――。まさか卍でやられるなんて。悔し涙をにじませながら、ジュリーは嗚咽した。日奈子社長のこと、美央ちゃんのこと、トムのこと。いくつもの顔がジュリーの頭の中でフラッシュバックを続けた。
 あっ、トムがほほ笑んでいる。最愛のパートナーが「よくやったよ」なんて、地球の裏側から拍手を送ってくれているような‥‥。トムはカナダへ一時帰国中だったが、今日のこの試合はインターネットの中継サイトを通じて、きっと観ているはずであった。
 そうだよね。自分としてはベストを尽くしたわけだから、新人のマユちゃんの方が頑張ったってことよね。世代交代とは思わないし、思いたくもないけど、私自身もっと強くなるために、きっと神様が試練を与えてくれたのかもしれない。そうジュリーは思うようにしていた。
 カンカンカンという終焉のゴングが鳴り響く中、ナナの街を丸のみするような大歓声がマユというニューヒロインの勝利を讃えた。ミャンマーの国旗を象徴するような黄色と緑とオレンジの紙テープがリングに投げ込まれた。紙テープが弧を描いて投げ込まれる様子は、まるでリング上に次代へと通じる虹がかかっているかのようでもあった。
 「マユちゃん、おめでとう」というと、ジュリーはマユの両手を握りしめた。英語で「サンキュー」という言葉を連発するマユの頬を涙の川が伝(つた)っていた。
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