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ヤンゴンおてんばプロレス誕生

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 「私たちもプロレスにチャレンジしたいです。お願いですから、おてんばプロレスに入れてください」といい、初めてミャンマーの地に足を踏み入れた日奈子社長ら一行に直訴をしてきたヤンゴンの女子たち。十二人のうち、ひとりはヤンゴン在住の日本人のようだ。プロレスとは縁がなさそうなキュートな顔立ちが印象的であった。
 「私からもお願いです。おてんばプロレスの活躍ぶりはSNSを通じて知りました。なかでもジュリー選手のファイトは、私たちにとって憧れの的です。将来はジュリー選手のようになりたいんです」。
 そんな声に彼女らの本気度を感じた日奈子は、「わかりました。いいでしょう」というと、ミャンマーでの提携先であるイフュー社長の同意を得たうえで、「日本-タイ-ミャンマーという三つの国で、女子プロレスの最高峰をきわめようではありませんか。ヤンゴンおてんばプロレスの誕生をここに宣言します」といい放った。
 いつの間に現れたのだろう。おそらくイフュー社長が仕込んだものと思われるが、地元メディアの記者らが現れ、その模様をスクープし始めた。カシャカシャなんて。まるで緊急の記者会見のよう。
 日奈子社長に負けず劣らず、せっかちなイフュー社長いわく、「いずれは三国統一のチャンピオンベルトを創設します」と英語でしゃべり始めた。ミャンマーでは英語が第二言語として使われているため、イフュー社長自身、英語はお手のものであった。
 ヤンゴンおてんばプロレス誕生のニュースは、ミャンマー中どころか、一気にASEAN(東南アジア諸国連合)中を駆け巡った。何をどうとり違えたのか、「日本一の美女・日奈子を巡って、花婿候補決定トーナメントの開催が決定」なんていうニュースも流れていたが、これはどう考えてもフェイクである。だいたい日奈子が日本一の美女だなんてあり得ない(おっと失敬)。例えば日本の片田舎のおてんば市内で、ベストテンを争うミドル女性ぐらいだったら、わからないでもないんだけどさ。
 ヤンゴンおてんばプロレスの話題は、その後もSNSの中で燃えたぎった。フェイクではなく、本物のニュース。とりわけヤンゴンで名乗りをあげた十二人の選手のうち、ひとりだけ日本人選手-その名を脇田桃子という-がいて、その桃子を中心にタイや日本のおてんばプロレスグループに闘いを挑むという構図は期待大であった。
 桃子は福岡県の生まれで、高校時代はレスリング部で鳴らしたという。インターハイでは、ベストエイトまで進んだというのだから、なかなかどうして、たいしたものである。高校卒業後は地元の英会話学校で働いていたが、ひょんなことからミャンマー人の男子マネージャーと恋に落ち、気がついてみればヤンゴンで結婚生活を送ることになっていた。ご主人は今、ヤンゴン大学で講師として働いているという話だが、たまたま見かけた「女子プロレスラー募集」という広告を見て、レスリング魂が再燃し、ヤンゴン発の女子プロレスの仲間入りを果たしたとか。
 ヤンゴンおてんばプロレスには、桃子の他にもうひとり、マユという名の格闘技経験者がいた。お兄さんがラウェイと呼ばれる格闘技-ミャンマーの国技である-の選手で、見よう見まねではあるが、ラウェイの“いろは”をかじったという女子だった。ほんのりと薄化粧をして、まるでアイドルのような顔立ち。いかにも女子っぽい伸ばしかけヘアでは、ドキッとするような深紅のリボンが揺れていた。マユ自身、日本への留学に憧れていて、国費入学の試験を受けたことがあったが、もうひと息というところで合格の二文字を手にすることができずにいた。たとえ何年かかってもトライし続けるしかないと思っていたマユが目にしたもの――それがヤンゴンおてんばプロレスの選手募集だったのである。
 こ・れ・は・や・る・し・か・な・い。そう直感したマユの心にブレーキをかけるものは何もなかった。プロレスで強くなれば、日本へ行けるかもしれない。日本にさえ行けば、もっと大きなチャンスをつかむことができるのではないか、そう直感したのである。
 これは後述することになるが、マユの家庭は決して恵まれた環境ではなかった。きょうだいが多く、全員が貧困と闘いながら、最低限の生活を余儀なくされていた。そんなバックヤードの中から生まれた飢餓状態こそが、マユの闘争本能を刺激していたのだ。
 ヤンゴンおてんばプロレスの代表を務めるのは、イフューというタイ人女社長であった。日本とミャンマーの橋渡しを務めるMJマッチングという会社の代表に就いていて、大の親日家としても知られていた。ていうか、イフューの夫・コースケが日本人(福島出身)なので、日本に精通していないはずがない。イフュー社長の好物は喜多方ラーメンと福島の桃で、日本でのお気に入りスポットが鶴ヶ城と会津磐梯山というのだから、そんじょそこらの日本通とはわけが違う。筋金入りの日本-しかも福島-LOVEのミャンマー人社長夫妻(立場的には妻夫か)なのであった。
 ヤンゴンおてんばプロレスが発進して二か月後。早くもおてんばプロレス vs バンコクおてんばプロレス vs ヤンゴンおてんばプロレスの三団体対抗戦の日程が固まろうとしていた。現時点での対戦カードは未定だが、いきなりのエース対決もあり得るという噂にネットがざわついた。ヤンゴンおてんばプロレスの選手らの調整が間に合うのかどうか、不安材料がないではなかったが、「まず行動」というのが日奈子社長とイフュー社長に共通のポリシーでもあったのである。もちろんヤンゴンおてんばプロレスは素人の塊。ていうか、よくよく考えてみると、バンコクおてんばプロレストップのジュリーでさえ素人の域を出ていないのだ。とにかくケガだけはしないこと、無理や無茶だけはしないというのが、おてんばプロレスに共通の合(愛)言葉だった。
 ヤンゴンおてんばプロレスの拠点は、ヤンゴン第一大学という名門大学の近くにあった。緑に包まれたキャンパスは、学びの中心という風格を漂わせていたが、周辺は日本でいう東京の原宿のような雰囲気で、朝な夕なに若者たちでごった返していた。
 実はイフュー社長が日本語学校を開設しようと思い、前もってテナントとして借りていたビルのワンフロアを、急きょプロレスの道場として利用することになったというのが、道場誕生のきっかけであった。さすがにリングまでは用意できなかったが、広々としたフロアにはマットが敷き詰められ、マットプロレス専用の道場としては申し分のない環境だった。そんな雑居ビルの六階をアジトとして、桃子とマユのふたりをチームリーダーに、ミャンマー版・二十四の瞳たちによる自主練がくり返された。ミャンマーの暑さは半端じゃないうえ、選手の大半は日中働いていたこともあり、練習は主に早朝と夕方の時間帯にセッティングされていた。不慣れな練習に悲鳴をあげる選手も多かったが、いつかは自分もスターダムにのしあがりたいと思っているからか、脱落していく者がひとりもいなかったのは、すごいとしかいいようがなかった。
 今やおてんばプロレスの名プロデューサーとして、世界を股にかけて活躍する日奈子は、日本での仕事(おてんば企画という編集プロダクションの社長でもあるのだ)は、ナンバーツーの編集部員に任せて、自らはタイとバンコクの間を行ったりきたりする日々を送っていた。
 日奈子の新しい恋人・ルークとは、タイのバンコクで半同棲生活をスタートさせた。飲んだくれの日奈子が酔っ払って、ルークにキス攻めをするあたりは相変わらずとでもいうべきか。部屋中に衣服を脱ぎ散らかしたり、スマホを置きっぱなしにして「ないない」と大騒ぎになったり、プライベートではだらしなさ全開であっが、バンコクで複数の事業を成功させているルークというブレーンがいる限り、日奈子としては安心してビジネスの舵を切ることができた。
 そんな中、バンコクに駐在するジュリーはというと、バンコクおてんばプロレスのPRに全力を注ぎながら、選手層の底上げをはかるべく、新たなプロジェクトを推し進めていた。タイ王国の私立大学の中でもマンモス校として知られるバンコク東光大学に、バンコクおてんばプロレスの特設クラブを立ちあげ、将来を渇望される新人の発掘に乗り出したのだ。ジュリーの新しい恋人であるトム(ジュリーとは同性)の発案もあり、バンコク東光大学・おてんばプロレス入部生限定の特別奨学金制度を設けたところ、これがまた好評らしく、それにつられたといわけではないだろうが、早くも三人の入部が決まった。
 「さぁ、始まるわよ」といい、兜の緒を締めるジュリー。トムは一旦カナダへ帰ってしまったが、ネットを通じて、ふたりの気持ちは二十四時間・三百六十五日いつでもつながっている。トムからは今朝も「Everyday is challenge(毎日がチャレンジ)」というエールの言葉が届いていた。
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