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夫の秘密 ①
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――それから二ヶ月と少し経ち、七月初旬。もうすぐ梅雨が明けるのか、このごろ雨が少ない。
「――里桜、もう食べないのか?」
夕食を残したあたしに、夫の正樹さんが気遣わしげに訊ねた。
二ヶ月前のあの夜から、この人は気持ち悪いくらいあたしに優しくなった。義母は相変わらずだけれど、あれであたしが自分の子供を身ごもったと思ったからだろうか。
「……ええ、ちょっと気分が悪くて。お昼に食べすぎちゃったかなー」
胃のあたりをさすりながら、あたしはわざと軽い口調で答える。でも、最近本当に胃のムカつきがひどい。そしてやたらと酸っぱいものがほしくなる。
……と、また吐き気がしてきた。
「……ごめんなさい。ちょっとお手洗いに」
トイレに駆け込み、便器の中に思いっきり嘔吐する。
もしかして、これって悪阻? 本当に妊娠しているんじゃ……。大智と正樹さんのどちらの子か分からないけれど。
そういえば、この二ヶ月間生理が来ていない。
大智とはあれからも、何度か避妊せずに交わっている。あの熱い快感は、一度得られると病みつきになる。相手が本当に愛する人ならなおさらだ。
「……そうだ、検査薬」
あたしはトイレの収納スペースに隠してあったそれを取り出した。今日の仕事帰り、会社近くのドラッグストアで購入しておいたものだ。
コットンパンツとショーツを下ろして便座に座り、尿をかけてみる。尿意も催していたのでちょうどよかった。
この妊娠検査薬は、二本線が出れば陽性反応だけれど……。
「出た、陽性だ」
やっぱり、あたしは妊娠しているらしい。でも、これだけでは確実じゃないので、ちゃんと産婦人科で調べてもらった方がいいかな。
「――大丈夫か、里桜? 顔色が少し冴えないな。もしかして君は……」
ダイニングへ戻ると、正樹さんはやっぱりあたしに妊娠の可能性を指摘しようとしている。
どうしよう……? どちらの子かハッキリしない今、ヘタにこの人に期待させたらこちらの首を締めることになりかねない。
打ち明けるにしても、一度産婦人科を受診して、大智にも相談してからだ。
「……さあ? 考えすぎじゃないですか? あたし、今夜はまだ気分が悪いので、片付けが終わったら先に休ませてもらいますね」
食べ残した分はラップをかけて冷蔵庫に入れ、手早く洗い物を済ませて、あたしは寝室に引っ込んだ。
通勤用バッグからスマホを取り出すと、ベッドに腰かけて大智に電話をかける。
「――もしもし」
『里桜、どした?』
「あのね、明日なんだけど。出社するの午後からでいい? 午前中はちょっと病院に行きたくて」
『いいけど……、病院って? 具合でも悪いのか?』
「うん……、ちょっと産婦人科に。さっき検査薬使ってみたら陽性が出て」
大智には正直に話した。だって、もし妊娠していたら、この子の父親は彼かもしれないから。
「でも、ちゃんと調べてもらった方が確実でしょ? だから明日行ってくる。……ああ、このこと、まだあの人には言ってないから。変に期待させたくないからね」
『なるほどねぇ、了解。ウチはフレックスだから、午後から出てきてもらっても全然問題ねえし、むしろ午後からの方が好都合』
「えっ?」
『明日、午後から飯島さんが訪ねてくることになってさ。里桜に頼まれてた件で、調査結果を報告したいって』
「ああ……」
父が負わされた借金の裏事情についてだ。さすがは優秀な弁護士さんだ。こんなに早く調査を終えられるなんて。
ちなみに、飯島さんは一ヶ月ほど前から〈Oプランニング〉の顧問弁護士を務めて下さっている。
「分かった。じゃあ明日、診察が終わったらまた連絡するから」
『ああ、連絡待ってるな。じゃ、また明日。――子供、オレの子だったらいいな』
「うん。じゃあね」
電話を終えると、あたしはふーーっと長い息を吐く。あたしも、この子が大智の子供ならいいなぁと思う。
そして翌日、驚くべき事実があたしを待っていた。
* * * *
「――ご懐妊ですね。八週目に入ってます」
翌日の午前、四十代の女性医師が開業している産婦人科で調べてもらうと、やっぱりあたしは妊娠二ヶ月と分かった。
「……やっぱり、そうですか」
「中絶をご希望でしたら早い方がいいですが、ご出産されるんでしたら毎月定期検診を受けに来て下さいね」
「はい。ここでも出産できますか?」
大きな病院で産むとなれば、そこは藤木家の息がかかっている可能性が高い。あの家との離縁を望んでいるあたしとしては、それは非常にマズいのだ。できることならこのクリニックか、ここではなくても個人の医院がいい。
「ええ。ここにも出産と入院の設備はありますから」
「よかった。先生、よろしくお願いします。――あと、夫には受診のこと、言わないで頂けますか? ちょっと事情があって」
まさか「夫の子か不倫相手の子か分からない」なんて言えないけれど、先生には詮索されなかった。これだけのベテラン医師なら、色々と事情を抱えた妊婦を何人も診てきたのだろう。
「大丈夫ですよ、藤木さん。医師には守秘義務がありますから、たとえパートナーやご家族であっても診察内容を漏らすことはありません」
「そうですか! よかった……。では、来月からも引き続きよろしくお願いします」
――会計を終え、クリニックを出てもまだお昼にもなっていない。……そうだ、保健事務所に行かなきゃ。
「母子手帳、もらいに行かないと」
父親の欄には、まだどちらの名前を書いたらいいのか分からない。でも、あたしのお腹の中には確かに新しい生命が宿っているのだ。
* * * *
――真新しい母子手帳を受け取り、母親になるという自覚を新たにしたあたしは大智に電話した。
元々、午後から出社すると決めていたので、七分袖のカットソーに薄手のジャケット、ボトムスは産婦人科を受診するのでフレアースカートという服装だ。
「――もしもし、大智。病院行ってきたよ。やっぱり妊娠してるって。今二ヶ月。母子手帳ももらって来たよ」
『そっか、やっぱデキてたか。……うん、そうかそうか』
あたしからの報告に頷く彼はものすごく嬉しそうだ。まだ自分の子だと決まったわけでもないだろうに、なぜかそう確信しているらしい。
「まだどっちの子か分かんないけど、あたし産むことにしたよ」
『うん、それでいいんだよ、里桜。子供の父親がダンナっていう可能性はゼロだから』
「えっ、どういうこと? なんでそう自信満々に言い切れるの?」
大智がやけにキッパリと断言したので、あたしは疑問に思った。
『実は飯島さんから、お前のダンナのことでも報告があってさぁ。詳しいことは会社に来てから話すけど、どうやらお前のダンナは子供を作れないらしい』
「…………はぁっ!?」
あたしは思わず、ここが街中であることも忘れて声を跳ね上げた。往来の人たちが不思議そうな、もしくは迷惑そうな顔でこちらを振り向く。バツが悪くなったあたしは「すみません」と小さく謝った。
「ちょっと待って、大智。どういうことよ、それ?」
『うん。ちょっと電話では話しにくいしオレにもよく分かんねえから、会社で飯島さんから直接話してもらうわ。――ところで里桜、お前昼メシまだだろ? 悪阻は?』
「うん、今朝からちょっと治まってきてる。あんまり食欲はないけど」
『じゃ、一緒に食いに行く? 今どこ? 迎えに行くけど』
「赤坂……」
『分かった。じゃ、今から迎えに行くよ』
「うん、ありがと。じゃあ待ってるね」
電話を切ったあたしは、大通りに面したベンチで彼のクルマを待つことにした。
「あの人が子供を作れないって、どういうこと……?」
その事実は大智と幸せを掴みたいあたしには喜ばしいことだけれど、衝撃的でもあった。
* * * *
――その後あたしは合流した大智と二人でランチを摂り、午後から出社した会社の社長室で飯島弁護士と向き合っていた。もちろん大智も一緒だ。
「――里桜ちゃん、久しぶり。じゃあさっそく本題に入らせてもらうけど、まずお父さんが負わされた借金について」
「はい」
「詳しく調査したところ、これにはやっぱり藤木グループが一枚嚙んでいた。というか、銀行も彼らの頼みで貸し剥がしを行ったわけだから、彼らが仕組んだと言った方がいいかもしれない」
「やっぱり、父は藤木に嵌められたってことですね。じゃあこの借金ってチャラにできるんですか?」
「うん。貸し剥がしは違法行為だからね、民事で訴訟を起こして勝てば負債自体がなくなる可能性もある。訴える相手は銀行と藤木グループの両方になるけど」
「そうですか! ありがとうございます! じゃあ、両親にもそう伝えます」
あたしと藤木家を繋いでいるのはその借金だけ。だとしたら、その借金事態がなくなることであたしと正樹さんとの結婚も破談にできるということだ。
あたしはいつでもあの人と別れられるように、自分の欄を記入済みの離婚届の用紙を用意してある。あとはあの人に記入してもらい、役場に提出するだけだ。
「あと、これは大智に頼まれて調べていた別件なんだけど。……ご主人の、藤木正樹さんの体のことで」
「……はい」
大智がさっき電話で言っていた、「正樹さんは子供を作れない」という事実についてだ。あの理由がこれでハッキリする。
「彼は……実は無精子症だということが分かったんだ。彼の主治医がたまたま僕の知り合いでね」
「無精子症……? って、ちょっと待って下さい。だってあの人、あたしとセックスした時、射精して……」
だからあたしは翌日、大智とも生身で交わったし、彼も直接あたしの子宮の中に射精したのだ。
「うん。ただ、その精子に問題があってね。彼の精子は非常に弱くて、受精する前に全部死滅してしまうらしい。だから彼の子供ができる可能性はゼロなんだって」
「……! じゃあ、大智はそのこと知ってさっき電話で……」
あたしはハッとして、隣で話を聞いている彼に向き直る。あんなに自信満々で「子供の父親は自分だ」と言いたげだったのは、そういうことだったのか。
「そういうこと。だから、お前の身ごもった子供は百パーセントオレの子で間違いないんだよ」
「そっか……、この子は大智との……。じゃあ、あの人たちがやってきたことって全部ムダだったってことなんじゃ……。このこと、本人たちは知らないんですか?」
「知らないみたいだね。本人だけじゃなくて、ご両親も。だからあの家で跡継ぎを作ろうと思ったら、養子をもらうしかないだろうね」
正樹さんは一人息子だと言っていた。だから、嫁であるあたしにはぜひとも跡継ぎを産んでもらいたいと。じゃあもし、彼ら親子があたしの妊娠を知ったら……? たとえ自分の子供じゃなくても、この子を跡継ぎとして産めと言うだろう。あたしの意思なんて関係なく。
でも、あたしはそんなのまっぴらゴメンだ。この子はちゃんと大智の子供として産んで育てていきたい。大智と二人で。あの家にこの子は絶対に渡さない。
「――僕からの報告は以上。何か質問ある?」
「あの……飯島さんは、あたしと大智の今の関係について知ってたんですか? その……不倫してるって」
「うん、知ってたよ。大智から直接聞いてたから。でも、僕も二人が不倫関係だとは思ってない。そりゃ法律上はそうなるんだろうけど、ご主人の方が後出しジャンケン的に奪ってったっていうし。大智と一緒になった方が君も幸せになれると思うから。僕も二人の仲を応援してるよ。訴訟を起こすなら、僕が原告側の弁護につくから」
「ありがとうございます! 訴訟の時もよろしくお願いします!」
あたしに驚くべき事実を告げた飯島さんは、この後相談の予約が入っているからと言って帰って行った。
「――大智、あたし、この子を絶対にあの人たちの好きにさせないから。二人で幸せになろうね」
「ああ。お前と子供はオレが絶対に守ってやるから」
「うん!」
彼はあたしのことを優しく、でも力強く抱き締めてくれた。
――ここから、あたしの反撃開始だ。
「――里桜、もう食べないのか?」
夕食を残したあたしに、夫の正樹さんが気遣わしげに訊ねた。
二ヶ月前のあの夜から、この人は気持ち悪いくらいあたしに優しくなった。義母は相変わらずだけれど、あれであたしが自分の子供を身ごもったと思ったからだろうか。
「……ええ、ちょっと気分が悪くて。お昼に食べすぎちゃったかなー」
胃のあたりをさすりながら、あたしはわざと軽い口調で答える。でも、最近本当に胃のムカつきがひどい。そしてやたらと酸っぱいものがほしくなる。
……と、また吐き気がしてきた。
「……ごめんなさい。ちょっとお手洗いに」
トイレに駆け込み、便器の中に思いっきり嘔吐する。
もしかして、これって悪阻? 本当に妊娠しているんじゃ……。大智と正樹さんのどちらの子か分からないけれど。
そういえば、この二ヶ月間生理が来ていない。
大智とはあれからも、何度か避妊せずに交わっている。あの熱い快感は、一度得られると病みつきになる。相手が本当に愛する人ならなおさらだ。
「……そうだ、検査薬」
あたしはトイレの収納スペースに隠してあったそれを取り出した。今日の仕事帰り、会社近くのドラッグストアで購入しておいたものだ。
コットンパンツとショーツを下ろして便座に座り、尿をかけてみる。尿意も催していたのでちょうどよかった。
この妊娠検査薬は、二本線が出れば陽性反応だけれど……。
「出た、陽性だ」
やっぱり、あたしは妊娠しているらしい。でも、これだけでは確実じゃないので、ちゃんと産婦人科で調べてもらった方がいいかな。
「――大丈夫か、里桜? 顔色が少し冴えないな。もしかして君は……」
ダイニングへ戻ると、正樹さんはやっぱりあたしに妊娠の可能性を指摘しようとしている。
どうしよう……? どちらの子かハッキリしない今、ヘタにこの人に期待させたらこちらの首を締めることになりかねない。
打ち明けるにしても、一度産婦人科を受診して、大智にも相談してからだ。
「……さあ? 考えすぎじゃないですか? あたし、今夜はまだ気分が悪いので、片付けが終わったら先に休ませてもらいますね」
食べ残した分はラップをかけて冷蔵庫に入れ、手早く洗い物を済ませて、あたしは寝室に引っ込んだ。
通勤用バッグからスマホを取り出すと、ベッドに腰かけて大智に電話をかける。
「――もしもし」
『里桜、どした?』
「あのね、明日なんだけど。出社するの午後からでいい? 午前中はちょっと病院に行きたくて」
『いいけど……、病院って? 具合でも悪いのか?』
「うん……、ちょっと産婦人科に。さっき検査薬使ってみたら陽性が出て」
大智には正直に話した。だって、もし妊娠していたら、この子の父親は彼かもしれないから。
「でも、ちゃんと調べてもらった方が確実でしょ? だから明日行ってくる。……ああ、このこと、まだあの人には言ってないから。変に期待させたくないからね」
『なるほどねぇ、了解。ウチはフレックスだから、午後から出てきてもらっても全然問題ねえし、むしろ午後からの方が好都合』
「えっ?」
『明日、午後から飯島さんが訪ねてくることになってさ。里桜に頼まれてた件で、調査結果を報告したいって』
「ああ……」
父が負わされた借金の裏事情についてだ。さすがは優秀な弁護士さんだ。こんなに早く調査を終えられるなんて。
ちなみに、飯島さんは一ヶ月ほど前から〈Oプランニング〉の顧問弁護士を務めて下さっている。
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「うん。じゃあね」
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「――ご懐妊ですね。八週目に入ってます」
翌日の午前、四十代の女性医師が開業している産婦人科で調べてもらうと、やっぱりあたしは妊娠二ヶ月と分かった。
「……やっぱり、そうですか」
「中絶をご希望でしたら早い方がいいですが、ご出産されるんでしたら毎月定期検診を受けに来て下さいね」
「はい。ここでも出産できますか?」
大きな病院で産むとなれば、そこは藤木家の息がかかっている可能性が高い。あの家との離縁を望んでいるあたしとしては、それは非常にマズいのだ。できることならこのクリニックか、ここではなくても個人の医院がいい。
「ええ。ここにも出産と入院の設備はありますから」
「よかった。先生、よろしくお願いします。――あと、夫には受診のこと、言わないで頂けますか? ちょっと事情があって」
まさか「夫の子か不倫相手の子か分からない」なんて言えないけれど、先生には詮索されなかった。これだけのベテラン医師なら、色々と事情を抱えた妊婦を何人も診てきたのだろう。
「大丈夫ですよ、藤木さん。医師には守秘義務がありますから、たとえパートナーやご家族であっても診察内容を漏らすことはありません」
「そうですか! よかった……。では、来月からも引き続きよろしくお願いします」
――会計を終え、クリニックを出てもまだお昼にもなっていない。……そうだ、保健事務所に行かなきゃ。
「母子手帳、もらいに行かないと」
父親の欄には、まだどちらの名前を書いたらいいのか分からない。でも、あたしのお腹の中には確かに新しい生命が宿っているのだ。
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――真新しい母子手帳を受け取り、母親になるという自覚を新たにしたあたしは大智に電話した。
元々、午後から出社すると決めていたので、七分袖のカットソーに薄手のジャケット、ボトムスは産婦人科を受診するのでフレアースカートという服装だ。
「――もしもし、大智。病院行ってきたよ。やっぱり妊娠してるって。今二ヶ月。母子手帳ももらって来たよ」
『そっか、やっぱデキてたか。……うん、そうかそうか』
あたしからの報告に頷く彼はものすごく嬉しそうだ。まだ自分の子だと決まったわけでもないだろうに、なぜかそう確信しているらしい。
「まだどっちの子か分かんないけど、あたし産むことにしたよ」
『うん、それでいいんだよ、里桜。子供の父親がダンナっていう可能性はゼロだから』
「えっ、どういうこと? なんでそう自信満々に言い切れるの?」
大智がやけにキッパリと断言したので、あたしは疑問に思った。
『実は飯島さんから、お前のダンナのことでも報告があってさぁ。詳しいことは会社に来てから話すけど、どうやらお前のダンナは子供を作れないらしい』
「…………はぁっ!?」
あたしは思わず、ここが街中であることも忘れて声を跳ね上げた。往来の人たちが不思議そうな、もしくは迷惑そうな顔でこちらを振り向く。バツが悪くなったあたしは「すみません」と小さく謝った。
「ちょっと待って、大智。どういうことよ、それ?」
『うん。ちょっと電話では話しにくいしオレにもよく分かんねえから、会社で飯島さんから直接話してもらうわ。――ところで里桜、お前昼メシまだだろ? 悪阻は?』
「うん、今朝からちょっと治まってきてる。あんまり食欲はないけど」
『じゃ、一緒に食いに行く? 今どこ? 迎えに行くけど』
「赤坂……」
『分かった。じゃ、今から迎えに行くよ』
「うん、ありがと。じゃあ待ってるね」
電話を切ったあたしは、大通りに面したベンチで彼のクルマを待つことにした。
「あの人が子供を作れないって、どういうこと……?」
その事実は大智と幸せを掴みたいあたしには喜ばしいことだけれど、衝撃的でもあった。
* * * *
――その後あたしは合流した大智と二人でランチを摂り、午後から出社した会社の社長室で飯島弁護士と向き合っていた。もちろん大智も一緒だ。
「――里桜ちゃん、久しぶり。じゃあさっそく本題に入らせてもらうけど、まずお父さんが負わされた借金について」
「はい」
「詳しく調査したところ、これにはやっぱり藤木グループが一枚嚙んでいた。というか、銀行も彼らの頼みで貸し剥がしを行ったわけだから、彼らが仕組んだと言った方がいいかもしれない」
「やっぱり、父は藤木に嵌められたってことですね。じゃあこの借金ってチャラにできるんですか?」
「うん。貸し剥がしは違法行為だからね、民事で訴訟を起こして勝てば負債自体がなくなる可能性もある。訴える相手は銀行と藤木グループの両方になるけど」
「そうですか! ありがとうございます! じゃあ、両親にもそう伝えます」
あたしと藤木家を繋いでいるのはその借金だけ。だとしたら、その借金事態がなくなることであたしと正樹さんとの結婚も破談にできるということだ。
あたしはいつでもあの人と別れられるように、自分の欄を記入済みの離婚届の用紙を用意してある。あとはあの人に記入してもらい、役場に提出するだけだ。
「あと、これは大智に頼まれて調べていた別件なんだけど。……ご主人の、藤木正樹さんの体のことで」
「……はい」
大智がさっき電話で言っていた、「正樹さんは子供を作れない」という事実についてだ。あの理由がこれでハッキリする。
「彼は……実は無精子症だということが分かったんだ。彼の主治医がたまたま僕の知り合いでね」
「無精子症……? って、ちょっと待って下さい。だってあの人、あたしとセックスした時、射精して……」
だからあたしは翌日、大智とも生身で交わったし、彼も直接あたしの子宮の中に射精したのだ。
「うん。ただ、その精子に問題があってね。彼の精子は非常に弱くて、受精する前に全部死滅してしまうらしい。だから彼の子供ができる可能性はゼロなんだって」
「……! じゃあ、大智はそのこと知ってさっき電話で……」
あたしはハッとして、隣で話を聞いている彼に向き直る。あんなに自信満々で「子供の父親は自分だ」と言いたげだったのは、そういうことだったのか。
「そういうこと。だから、お前の身ごもった子供は百パーセントオレの子で間違いないんだよ」
「そっか……、この子は大智との……。じゃあ、あの人たちがやってきたことって全部ムダだったってことなんじゃ……。このこと、本人たちは知らないんですか?」
「知らないみたいだね。本人だけじゃなくて、ご両親も。だからあの家で跡継ぎを作ろうと思ったら、養子をもらうしかないだろうね」
正樹さんは一人息子だと言っていた。だから、嫁であるあたしにはぜひとも跡継ぎを産んでもらいたいと。じゃあもし、彼ら親子があたしの妊娠を知ったら……? たとえ自分の子供じゃなくても、この子を跡継ぎとして産めと言うだろう。あたしの意思なんて関係なく。
でも、あたしはそんなのまっぴらゴメンだ。この子はちゃんと大智の子供として産んで育てていきたい。大智と二人で。あの家にこの子は絶対に渡さない。
「――僕からの報告は以上。何か質問ある?」
「あの……飯島さんは、あたしと大智の今の関係について知ってたんですか? その……不倫してるって」
「うん、知ってたよ。大智から直接聞いてたから。でも、僕も二人が不倫関係だとは思ってない。そりゃ法律上はそうなるんだろうけど、ご主人の方が後出しジャンケン的に奪ってったっていうし。大智と一緒になった方が君も幸せになれると思うから。僕も二人の仲を応援してるよ。訴訟を起こすなら、僕が原告側の弁護につくから」
「ありがとうございます! 訴訟の時もよろしくお願いします!」
あたしに驚くべき事実を告げた飯島さんは、この後相談の予約が入っているからと言って帰って行った。
「――大智、あたし、この子を絶対にあの人たちの好きにさせないから。二人で幸せになろうね」
「ああ。お前と子供はオレが絶対に守ってやるから」
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――ここから、あたしの反撃開始だ。
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