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達と沙奈子
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『なんて泣いてんだ? おデブのやつ』
織姫が何故泣いていたのか、結人には理解できなかった。さっきのやり取りのどこに泣くような要素があったのか、彼にはさっぱりだった。結人は、そういう部分の感性があまりに未熟だったのである。いわゆる共感性という部分だろうか。
彼は、自分の母親やその交際相手の男達を始めとした大人への憎悪に目がくらんで、それ以外のことを考えられずに来たのだ。だから他人の気持ちが分からない。
無論、他人の気持ちが分かるなどというのはただの幻想に過ぎないだろう。自分じゃない人間の気持ちが完全に分かるなんてことは、人間の脳の機能上、有り得ない。それでも分かったような気になるのは、想像で補っているからだ。
結人はその想像力が致命的に欠落していた。これは、多くの凶悪な犯罪者に共通して見られる傾向だろう。残念なことだが、彼にはその素養が十分すぎるほどにある。故に危険なのだ。
ただ、それを補う為の方法が無い訳ではない。事実、それを実践しているのが山下達であり山下沙奈子であった。彼らが『優しい』のは、そういう性格だからではない。意識してそうあろうとしているだけである。
実際、山下達には本来は共感性が備わっていなかった。他人のことなどどうでもいいと無視することがたやすくできた。どんな凶悪な犯罪のニュースを見ても気持ちが動くことすらない人間だった。
だが、そこに沙奈子が来たことで、彼は様々なことを考えざるを得ない状況に追い込まれたのだった。成り行きとはいえ自分が面倒を見ることになってしまった少女を死なせない為に。
最初は単に、少女に何かあって自分が責任を問われるのが嫌だったから仕方なく始めたことだった。しかし、自分が責任を取らされないように少女を何とか生かそうとあれこれ考えているうちに、少女の気持ちについて考えるようになり、それが身に着くと今度は他の人間の気持ちについても考察するようになっていったのだった。それが想像力となり、他人の気持ちを分かろうとする発想へと繋がっていったのだ。
厳密には彼には元々そういうものが備わっていたのが眠っていただけで、沙奈子が来たことをきっかけにして目覚めてしまっただけかもしれない。しかし、沙奈子との出会いがなければそれが目覚めることもなかったかもしれないのもまた事実である。
山下沙奈子もそうだ。
彼女は実の父親を始めとした大人達からの暴力を恐れるあまり心を閉ざし、何も考えない、感じないように、分厚い殻に閉じこもってしまっていた。それが故に他人の気持ちとかについても当然、考えることができなくなっていた。その一方で、自分に向けられる他人の感情には鋭敏になり、特に、暴力的・加虐的な感情に対しては非常に敏感になっていたのだった。
しかしそんな彼女の心を解きほぐしたのが山下達だった。
何も分からない状態ながら彼は思考を巡らせて少女のことを理解しようとした。彼のその姿勢が、不器用であっても自分を守ろうとしてくれているというその事実が、彼女の安心感となり、自分のことを考えてくれているというのが伝わり、それが少女の承認欲求を満たし、精神の安定をもたらした。だから彼女も、この不器用な青年のことを理解しようと努めたのだ。
『この人は、どうして私のことを守ろうとしてくれるのだろう…?』
と。
こうして彼女も、彼のことを理解しようとする中で、他人の気持ちを想像するという行為を自然と身に着けていったのである。
二人が出逢っていなければ、山下達も、山下沙奈子も、他人の気持ちなど想像することさえできない、大きな闇を抱えた危険な爆弾のような存在になっていた可能性が高かった。二人は共に結人のような強い攻撃性は持っていなかったが、その奥深いところには激しい衝動も潜んでおり、悪い形で条件が揃ってしまえばそれが表に出てくることも十分にあり得たのである。
事実、沙奈子の左腕には、今はもうよく見ないと分からないが、大きな傷痕がある。
これは大人からの虐待によってついたものではなく、ある事件でパニックに陥った彼女が自らつけたものである。自分の左腕に、手にしたボールペンを何度も突き刺すという形で。この時はその衝動が自分自身に向かった為に自分を傷付ける範囲で収まったが、それが他人に向かっていた可能性は十分にあったのだ。
そう。こんなにも大人しくて虫も殺せそうにない少女にも、そういうものは潜んでいるということだ。
そして、彼女が自らを傷付けてしまったのと時を同じくして、山下達も危うく他人を傷付けそうになってしまっていたのだった。臆病で暴力には縁のなさそうな彼にもやはり、その種の衝動は潜んでいる。
危険なのは何も結人だけではないということだ。誰でもそういう衝動を持ち、危険をはらんでいるのだ。
しかし多くの人間は、それぞれの方法によってその衝動を抑え込んでいる。それを結人も身に着けることは、決して夢物語ではないということだ。なにしろ結人にはそれを可能にするだけの思考力も知性もあるのだから。あとはそれをどう活かすか、その方法を学び取ればいいだけだ。その為の絶好の実例が目の前にある。
結人がそれを学ぶことができれば、それだけ社会的な危険が減ることにも繋がる。だから彼はそれを学ばなければいけない。織姫を守る為にも、何よりも自分自身を守る為にも。
彼がもし、自らの復讐心に囚われて事件を起こせば、世間は彼の不幸な生い立ちなど何一つ気遣ってはくれない。この世に不要な危険な害獣として駆除することを望むだろう。『ガキでも死刑にしろ』と平然と罵るだろう。彼がどれほど苦しんできたのかなど考えもせずに。
そうだ。人間は他人の気持ちなど理解できない。その最も顕著な証拠がそれだ。他人の気持ちが理解できるなら、結人の気持ちも理解できるはずだ。だが、現実には誰も理解などしてくれない。理解しようともしてくれない。それが現実であり、それが人間というものだ。
だから、他人に気持ちを理解してもらおうとしても無駄だ。『俺の気持ちがお前らに分かるか!?』と問うても無駄だ。誰にも結人の本当の気持ちなど理解できない。彼のもっとも近くにいる織姫でさえも。
彼女が結人のことを沙奈子のように育ててあげられなかったと泣いたのがその証拠なのだ。彼の気持ちが分かるなら、そんなことで悩む必要もなく正しい対処ができる筈なのにできていない。つまり分かっていないということだ。
だが、他人の気持ちを想像することはできる。正解ではなくとも、近似値までなら、正解に近いものまでなら辿り着くことは不可能ではない。よりそれに近付ける為には、情報を提供することが必要だ。自分の想いを語り、想像をより具体的にしてもらうことで近似値を導き出してもらうことはできる。『言わなくても分かってほしい』というのは子供っぽい甘えと言えるだろう。今の結人の状態がまさにそれだ。
彼は自分の気持ちなど分かってもらう必要はないと強がってはいるが、それは自分のことを分かってもらいたい、自分の気持ちを分かってもらいたいという願望の裏返しでしかない。しかし期待していることを悟られたくなくて強がっているに過ぎない。
要するに子供なのだ。子供らしい甘えなのだ。さりとてその甘えが通用するのは子供のうちだけである。大人になってまでそれをしていてもそれこそ誰も相手にはしてくれなくなる。
結人はそれを知らなくてはならない。でなければ彼は、周囲の人間を巻き込んだ上で、最悪の結末を迎えることになるだろう。
織姫が何故泣いていたのか、結人には理解できなかった。さっきのやり取りのどこに泣くような要素があったのか、彼にはさっぱりだった。結人は、そういう部分の感性があまりに未熟だったのである。いわゆる共感性という部分だろうか。
彼は、自分の母親やその交際相手の男達を始めとした大人への憎悪に目がくらんで、それ以外のことを考えられずに来たのだ。だから他人の気持ちが分からない。
無論、他人の気持ちが分かるなどというのはただの幻想に過ぎないだろう。自分じゃない人間の気持ちが完全に分かるなんてことは、人間の脳の機能上、有り得ない。それでも分かったような気になるのは、想像で補っているからだ。
結人はその想像力が致命的に欠落していた。これは、多くの凶悪な犯罪者に共通して見られる傾向だろう。残念なことだが、彼にはその素養が十分すぎるほどにある。故に危険なのだ。
ただ、それを補う為の方法が無い訳ではない。事実、それを実践しているのが山下達であり山下沙奈子であった。彼らが『優しい』のは、そういう性格だからではない。意識してそうあろうとしているだけである。
実際、山下達には本来は共感性が備わっていなかった。他人のことなどどうでもいいと無視することがたやすくできた。どんな凶悪な犯罪のニュースを見ても気持ちが動くことすらない人間だった。
だが、そこに沙奈子が来たことで、彼は様々なことを考えざるを得ない状況に追い込まれたのだった。成り行きとはいえ自分が面倒を見ることになってしまった少女を死なせない為に。
最初は単に、少女に何かあって自分が責任を問われるのが嫌だったから仕方なく始めたことだった。しかし、自分が責任を取らされないように少女を何とか生かそうとあれこれ考えているうちに、少女の気持ちについて考えるようになり、それが身に着くと今度は他の人間の気持ちについても考察するようになっていったのだった。それが想像力となり、他人の気持ちを分かろうとする発想へと繋がっていったのだ。
厳密には彼には元々そういうものが備わっていたのが眠っていただけで、沙奈子が来たことをきっかけにして目覚めてしまっただけかもしれない。しかし、沙奈子との出会いがなければそれが目覚めることもなかったかもしれないのもまた事実である。
山下沙奈子もそうだ。
彼女は実の父親を始めとした大人達からの暴力を恐れるあまり心を閉ざし、何も考えない、感じないように、分厚い殻に閉じこもってしまっていた。それが故に他人の気持ちとかについても当然、考えることができなくなっていた。その一方で、自分に向けられる他人の感情には鋭敏になり、特に、暴力的・加虐的な感情に対しては非常に敏感になっていたのだった。
しかしそんな彼女の心を解きほぐしたのが山下達だった。
何も分からない状態ながら彼は思考を巡らせて少女のことを理解しようとした。彼のその姿勢が、不器用であっても自分を守ろうとしてくれているというその事実が、彼女の安心感となり、自分のことを考えてくれているというのが伝わり、それが少女の承認欲求を満たし、精神の安定をもたらした。だから彼女も、この不器用な青年のことを理解しようと努めたのだ。
『この人は、どうして私のことを守ろうとしてくれるのだろう…?』
と。
こうして彼女も、彼のことを理解しようとする中で、他人の気持ちを想像するという行為を自然と身に着けていったのである。
二人が出逢っていなければ、山下達も、山下沙奈子も、他人の気持ちなど想像することさえできない、大きな闇を抱えた危険な爆弾のような存在になっていた可能性が高かった。二人は共に結人のような強い攻撃性は持っていなかったが、その奥深いところには激しい衝動も潜んでおり、悪い形で条件が揃ってしまえばそれが表に出てくることも十分にあり得たのである。
事実、沙奈子の左腕には、今はもうよく見ないと分からないが、大きな傷痕がある。
これは大人からの虐待によってついたものではなく、ある事件でパニックに陥った彼女が自らつけたものである。自分の左腕に、手にしたボールペンを何度も突き刺すという形で。この時はその衝動が自分自身に向かった為に自分を傷付ける範囲で収まったが、それが他人に向かっていた可能性は十分にあったのだ。
そう。こんなにも大人しくて虫も殺せそうにない少女にも、そういうものは潜んでいるということだ。
そして、彼女が自らを傷付けてしまったのと時を同じくして、山下達も危うく他人を傷付けそうになってしまっていたのだった。臆病で暴力には縁のなさそうな彼にもやはり、その種の衝動は潜んでいる。
危険なのは何も結人だけではないということだ。誰でもそういう衝動を持ち、危険をはらんでいるのだ。
しかし多くの人間は、それぞれの方法によってその衝動を抑え込んでいる。それを結人も身に着けることは、決して夢物語ではないということだ。なにしろ結人にはそれを可能にするだけの思考力も知性もあるのだから。あとはそれをどう活かすか、その方法を学び取ればいいだけだ。その為の絶好の実例が目の前にある。
結人がそれを学ぶことができれば、それだけ社会的な危険が減ることにも繋がる。だから彼はそれを学ばなければいけない。織姫を守る為にも、何よりも自分自身を守る為にも。
彼がもし、自らの復讐心に囚われて事件を起こせば、世間は彼の不幸な生い立ちなど何一つ気遣ってはくれない。この世に不要な危険な害獣として駆除することを望むだろう。『ガキでも死刑にしろ』と平然と罵るだろう。彼がどれほど苦しんできたのかなど考えもせずに。
そうだ。人間は他人の気持ちなど理解できない。その最も顕著な証拠がそれだ。他人の気持ちが理解できるなら、結人の気持ちも理解できるはずだ。だが、現実には誰も理解などしてくれない。理解しようともしてくれない。それが現実であり、それが人間というものだ。
だから、他人に気持ちを理解してもらおうとしても無駄だ。『俺の気持ちがお前らに分かるか!?』と問うても無駄だ。誰にも結人の本当の気持ちなど理解できない。彼のもっとも近くにいる織姫でさえも。
彼女が結人のことを沙奈子のように育ててあげられなかったと泣いたのがその証拠なのだ。彼の気持ちが分かるなら、そんなことで悩む必要もなく正しい対処ができる筈なのにできていない。つまり分かっていないということだ。
だが、他人の気持ちを想像することはできる。正解ではなくとも、近似値までなら、正解に近いものまでなら辿り着くことは不可能ではない。よりそれに近付ける為には、情報を提供することが必要だ。自分の想いを語り、想像をより具体的にしてもらうことで近似値を導き出してもらうことはできる。『言わなくても分かってほしい』というのは子供っぽい甘えと言えるだろう。今の結人の状態がまさにそれだ。
彼は自分の気持ちなど分かってもらう必要はないと強がってはいるが、それは自分のことを分かってもらいたい、自分の気持ちを分かってもらいたいという願望の裏返しでしかない。しかし期待していることを悟られたくなくて強がっているに過ぎない。
要するに子供なのだ。子供らしい甘えなのだ。さりとてその甘えが通用するのは子供のうちだけである。大人になってまでそれをしていてもそれこそ誰も相手にはしてくれなくなる。
結人はそれを知らなくてはならない。でなければ彼は、周囲の人間を巻き込んだ上で、最悪の結末を迎えることになるだろう。
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