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第五章『遠い日の約定』

第三百八十話『対面の時を信じて』

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 まず最初に聴覚が目覚めて、周りの物音を拾い始める。遠くでかすかに聞こえる足音と、耳元から聞こえてくる震えた息遣いが俺の意識を急速に現実へと引き戻した。

 それに引っ張られるようにして嗅覚と視覚も自らの仕事を思い出し、建物の間から見える青空と少し埃っぽい香りが目覚めたての俺を刺激する。それと背中から伝わるざらついた感触から推測するに、ここはどこかの路地裏だろうか。精霊が言っていた通り、どうやら俺はちゃんと生きているらしい。

(……大丈夫だ、ちゃんと憶えてる)

 高慢で尊大で、だけど誠実だったあの声とのやり取りを思い返して、俺はかすかに頷く。精霊から頼まれたことも、託された願いも、全部全部俺の脳内に刻み付けられていた。

「……マルク、身体は大丈夫⁉」

 精霊からの言伝を改めて確認していると、俺の横にかがみこんでいたレイチェルが身を乗り出して俺に問いかけてくる。その顔色は決していいとは言えないが、今にも吐いてしまいそうだったあの時に比べたらまだマシになっているように見えた。

「大丈夫だよ、腕も足もくっついてる。……俺たち、転移させられたんだよな?」

「多分そう……だと、思う。マルクが庇ってくれたその後、ペンダントが見たことないぐらいに光ってたから。それがなかったら今頃、あたしたちは――」

 そこまで口にしたところで、レイチェルの喉から細い息がこぼれる。落ち付いたように見えた顔色も一気に青白くなり、不規則で浅い呼吸が繰り返された。

「……ごめん、マルク……こんなことで取り乱してる場合じゃないって、分かってるんだけど。分かってるのに、身体が勝手に竦んで、息が、苦しくて」

 小刻みに息を吸い込みながら、レイチェルは申し訳なさそうに身を縮める。うまく息を吸えていないのも体が震えているのも、外から見ていてはっきり分かるぐらいに重症だった。

 ただ、それも仕方のない話だ。騎士を目指して修行していたアネットですら間近に感じる『死』の気配には身を竦ませていたのに、少し前まで『死』はおろか戦う事すら知らなかったレイチェルがその感覚に耐えられるはずもない。慣れてしまった俺たちが少数派で、『死』に怯えるのはもはや本能的な事なのだ。あんなショッキングな人死にを見た後ならば、なおのこと。

「あたしのせいでマルクを巻き込んで、リリスとツバキとも逸れちゃって。……もっと周りを気にかけていれば、こんなことにはならなかったはずなのに」

「それはお前の落ち度じゃねえよ、むしろ俺の大失態だ。……リリスから任された役割を果たせなかった俺が間違いなく悪い」

 申し訳なさそうに俯くレイチェルの言葉を遮って、俺は自分のミスを改めて自覚する。ウーシェライトに連携の発想などないだろうと先入観を持たされた時点で、俺はあの戦いに敗北していたも同然だ。

 ――リリスとツバキは、今何と向き合っているのだろう。ウーシェライトがあそこから復活してくることもないだろうが、この襲撃が大規模なことはもはや疑いようのない事実だ。この路地裏だって、いつまでも安全圏とは断言できない。

 レイチェルに怪我がなかったのは一つプラス要素ではあるが、それでも状況は限りなく最悪に近い。『夜明けの灯』の最大戦力であるリリスとツバキと離れたことで戦力は大幅に低下しており、今ウーシェライト並の奴とまともにやりあうことは不可能だ。どうにか逃げ隠れしながら、けれどもできる限り迅速に騎士団かリリスたちのどちらかに合流する必要がある。

「それだって無茶振りもいいところだけど――でも、やる以外の選択肢なんてねえからな」

 何も情報がない中でこの状況に放り出されていたら、俺も打つ手なしで逃げ隠れするしかなかったかもしれない。だが、レイチェルを守ろうとしているのは決して俺一人じゃないのだ。その想いの片鱗に触れてしまった今、俺が投げ出すことは許されない。

 深く息を吐いて、それからそれ以上に思いっきり息を吸いこむ。体の中の空気を入れ替えて、それと同時に思考のスイッチも切り返る。そうしてからゆっくり体を起こし、俺はレイチェルに一つ質問を投げかけた。

「……レイチェル、俺がどれぐらい寝てたか分かったりするか?」

「どれぐらい寝てたか? ……ええと、大体五分ぐらい……かな。あたしを庇ったせいで傷がひどくて、それが治るまでに結構時間がかかってたから。……治ったって言っても、それはあたしじゃなくて守り手様のおかげだと思うけど」

 マルクが倒れてる間、今までに見たことないぐらいに激しく光ってたから――と。

 胸元のペンダントを軽く持ち上げて示しながら、ゆっくりした口調でレイチェルは答える。まだまだ動揺は収まりきっていない様子だが、少しずつ落ち着く方向に向かっているだけでも俺にとってはありがたいことだった。

「なるほどな……そりゃ、守り手様のご加護に間違いねえや」

 予想以上にはっきりとした答えが返ってきたことに内心ガッツポーズをしつつ、腕をぐるぐると回して傷の影響がないか確認する。貧血のせいなのか一瞬眩暈のような感覚がしたが、そんなことが気にならないぐらいのファインプレーを精霊は残してくれていた。

「俺のことを有用だって判断してくれてたみたいだから、治療も必死になってくれたのかもな。状況が状況だ、その仕事には感謝してもしきれねえよ」

 あのよく分からない空間でのやり取りを思い返しながら、俺はペンダントを見つめてそう答える。それを聞いたレイチェルが、驚いたように目を見開いた。

「……守り手様は、マルクのことを有用だって思ってるの?」

「ああ、直接聞いてきたから間違いねえよ。思っていた以上に高慢ちきで、それ以上に温かい奴だった」

 レイチェルから発された疑問に、俺は食い気味の肯定を返す。レイチェルからの疑問によって精霊とのやり取りの話に持っていけるのは、ペンダントをぴかぴかと光らせてくれた精霊の功績に他ならなかった。

 目覚めて早々『精霊と話をした』なんて言っても、それは戯言か冗談の類にしか受け取られないだろうしな。もちろんいつ切り出してもそう思われる可能性は消えないが、俺から唐突に言いだすよりはよっぽどマシだ。

 この状況をどうにか打開するためには、精霊が託してくれた知識の全部を有効に使う必要がある。そうすることでしか俺の失態は取り返せないし、それができると信じて精霊は策を預けてくれたのだ。……精霊の想いを裏切るようなことは、絶対にできない。

「守り手様の声、を……? 冗談とかじゃなく、本気で言ってるの?」

「ああ、しっかりはっきり聞いてきた。……もちろんレイチェル、お前への伝言もたくさんあるぞ」

 まだ半信半疑な様子のレイチェルに、俺はできる限り間髪入れずに答えを返す。……その脳裏では、精霊から受け取った助言が思い起こされていた。

『いきなり妾との交流を打ち明けても、今のレイチェルが素直に受け入れられるとは思えぬ。……故に、妾と接触した動かぬ証拠として妾とレイチェルしか知らぬ情報を一つ貴様に教えてやろう』

 秘密を明かすのは本意ではないのじゃがな、と言いつつもご機嫌に話し出した精霊の様子を鮮明に思い返しながら、俺はレイチェルの瞳を見つめる。そこに宿る不安をどれだけ拭い去れるかは、ここからの俺の努力にかかっていた。

「――初めて魔術を使った時、出力の制御が効かなくてお前の身体も宙に浮いちまったんだってな。『あの時は流石に焦った』って、守り手様が笑ってたよ」

 愛おしげな声で語っていたエピソードをレイチェルに投げかけると、その表情がまた変化する。これ以上は開かないだろうというぐらいにまで、その眼がまん丸く見開かれていた。

「本当に、守り手様がそれを教えてくれたの?」

「お前と家族だけの思い出なんだ、調べたところで分かることじゃねえよ。……それを見守ってた守り手様が、自慢げに教えてくれた」

 酒を味わえる状況だったら間違いなくがぶ飲みしていただろうと思えたぐらいに、レイチェルとの思い出を語る精霊は早口だった。長い命の一部とかじゃなく、大切な思い出として精霊はレイチェルとの日々を記憶していた。……それを聞いてしまえば、気を失ったレイチェルに近づく男に過剰反応してしまうのもうなずけるというものだ。

「そうだ、レイチェルへの伝言もたくさん預かってきたぞ。『お前とともにあるのは新鮮で楽しかった』とか『魔術師としてのお前が行きつく先が見てみたい』とか。……全部全部、レイチェルへの愛情に溢れてた」

「……守り手様、が?」

 滔々と語る俺に、レイチェルはどこかぼうっとしながら呟く。無意識の行動なのか、その手はペンダントをぎゅっと握り締めていた。

「守り手様は、あたしのことをちゃんと見てくれてたの? あたしは、守り手様が本当にいるかどうかも疑っていたっていうのに……?」

「ああ、ちゃんと一番近くで見てた。んでもって、今もお前の傍にいる。お前が生きてこの状況を切り抜けられるように、俺を通じていろんな作戦を渡してくれてる」

 レイチェルに対する精霊の思いは、間違いなく本物だった。言葉の端々ににじみ出る愛おしさが、疑う余地もなくそのことを信じさせてくれた。本当ならレイチェルにもそれを聞かせてあげたいけれど、それはあくまで最終手段だ。

「確かに守り手様はグリンノート家を守る存在かもしれねえけど、だからと言ってレイチェルのことをグリンノート家の一員だとしか見てるわけじゃなかったよ。守り手様は、今まで見守ってきた人たちの記憶を一人一人区別しながら大事に抱えてる。もちろん、お前のことだって」

『何度も何度も看取ってきた』と、精霊は悲しそうに口にしていた。そうして見守ってきた人たちの名前を、愛おしげに呟いていた。数百年もあれば記憶が擦り切れてしまったっておかしくないのに、そんな気配は微塵も見せずに。

 そんな精霊の在り方が、俺の背中を強く押す。本当ならばこの答えは精霊本人が示すべきものなのだろうが、そのメッセージを代わりに伝えられるのは俺だけだった。

「守り手様は、お前をペンダントの持ち主だから守ってたわけじゃねえ。幼少期からずっと寄り添ってその人生を影ながら見守ってきたレイチェル・グリンノートだから、こんなにも必死に守ろうとするんだよ」

 弱まりつつある権能もフル活用して、俺のようなイレギュラーな存在も最大限に利用しつくして。考えうる限りの全てを尽くして、精霊はレイチェルを守ろうとしている。……それがただ単にペンダントの持ち主だからなんて、そんなことがあってたまるものか。

「守り手様も俺たちも、お前が思っている以上にお前を守りたいって真剣に思ってるんだ。簡単には信じられない話かもしれねえけど、今は俺と守り手様を信じてくれねえか」

 車の中での問いへの答えを引っ提げて、俺はレイチェルに手を伸ばす。ペンダントを握り締めるレイチェルの手は、まだ不安げに小刻みに震えている。――だけどその眼は、手を伸ばす俺の姿をはっきりと映し出していて。

「……正直、まだびっくりしてるよ。いつまでも聞こえなかった守り手様の声がマルクに聞こえたことも、守り手様がそんなにあたしのことを大事に思ってくれてたことにも。あたしは失敗ばかりで、今もまだ迷ってるぐらいなのに」

「『昔から聡いところのある奴だった』って守り手様は言ってたよ。……多分、アイツにとってはそういう所すら可愛いんだと思うぜ?」

『迷えるのもまた知性の証じゃからな』と笑っていた精霊を思い出して、俺もレイチェルに笑いかける。それにレイチェルは驚いたように背筋を伸ばして、それから少し不安げに表情を曇らせて。……だけど、最後には俺の方へと手を差しだした。

「……今更、いいのかな。散々疑ってきた守り手様の想いを信じて頼って、都合のいい奴だって思われないかな」

「そんなこと言わねえよ。むしろ『柔軟な判断だ』とか言って頭撫でてくれると思うぜ?」

 約定が果たされた暁には、そんな光景を見ることが出来るのだろうか。出来たらいいなと、そう思う。それを見ることが出来るという事は、これからの作戦が万事うまく行った証だろうからな。

 その答えを受けて、レイチェルはどこか安堵したように笑う。……そしてもう一歩踏み込んで、俺の差し出した手を強く握りしめた。ペンダントを握る手と、反対の手で。

「……うん、そう信じる。マルクが聞いたって言う守り手様の話、あたしにも信じさせて」

「ああ、信じてもらうのが俺の役割だからな。どうにかこの状況を突破して、守り手様と顔合わせしようじゃねえか」

 きゃしゃな手をしっかりと握り、俺は堂々と宣言する。――状況を打開するための大勝負へ向けて、条件は着々と整いつつあった。
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