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第四章『因縁、交錯して』

第二百八十五話『定形なき影』

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――しばらく続いていた笑い声が唐突に止んで、力なく崩れ落ちていたメリアの身体が影に包み込まれる。……直後、リリスの肌を鋭い魔力の気配が突き刺した。

「っ、何が……‼」

 異変に気付いてとっさにその正体を探ろうとするものの、状況は悠長な行動を許してはくれない。その影の矛先は、間違いなくリリスへと向けられているんだから。

 さっきまでは獰猛な獣のような雰囲気を纏っていたメリアだが、今の気配はそれとも違う。……いや、そもそもあれをコントロールしているのはメリアなのだろうか。

 メリアの体を源として影が湧きだし、それがひとりでに様々な武装となってリリスが立つ方へと照準を合わせる。影が作り出した形は様々だが、その全てがただ殺すための用途で使われるものであるという事は取り繕いようのない事実だった。

 武装の数は五を超え十を超え、二十に到達しようとしている今でもメリアの身体からは影があふれ出し続けている。もはや全身の九割を影の球体に呑み込まれたその姿は、どうしても意志があるようには見えなくて――

「……何なのよ、一体‼」

 状況を呑み込み切れないリリスが声を上げると同時、メリアから伸びた影の武装たちがリリスへと一斉に差し向けられる。一つ一つの速度は決して速くはないが、二十を超える数の武装が一斉に襲い掛かってくるのは流石に対処も厳しかった。

 そんな状況下でもリリスは軽やかな足取りで影による攻撃を回避していくが、それですべてよけきれるほど余裕があるわけでもない。何度目かのバックステップで槍状の影が地面に深々と突き刺さったのを確認しつつ、その後ろに隠れるようにして迫ってきていた影の剣へとリリスは氷の大剣を構えた。

 メリアの爪撃を耐え、そして影の防護をも突破して見せたこの形状は、耐久力に非常に優れた代物だ。いかな異様な状況であろうとも、この氷が防御において不十分であったことは今までの経験則の中には存在していない。

 それを知っているからこそ、リリスは影の剣を迎え撃つという選択を取った。その判断を不正解だという事はできないし、リリスが過ごしてきた十年間は重く濃いものだ。……そんな状況の中で、リリスが唯一しでかした誤算を挙げるとするのならば――

「……は?」

――メリアの身に何が起こったか、それを詳しく知りえなかったことだろうか。

 両者の剣が衝突した瞬間、リリスはあっけにとられたような声を上げる。その次の瞬間には氷の剣から手を離し、風魔術までもを使って大きく剣から距離を取った。

 判断と行動が完了するまでに、リリスは一秒も費やしていない。……だが、影はその短い時間の中であっさりと氷の剣を両断した。

 もしあのまままともに打ち合うことを選択していれば、リリスの体もろとも一刀両断にされて戦いは終わっていただろう。……リリスの本能的な判断が、またもその命を救った形だ。

 そして、その本能は今こうやって断言している。……『今のメリアは、さっきのメリアよりもはるかに強く厄介な存在だ』――と、それはもう高らかに。

 それの武装が一本だけならばまだやりようもあったのだろうが、当たり前のように後続の攻撃がリリスを追いかけてきているのだからどうしようもない。宙を舞う五本の黒い武装を見つめて、リリスは一時撤退の決断を下した。

 戻る先はもちろん、少し離れた先で待ってくれている二人の仲間たちだ。メリアが移動する気配は今のところないし、いくらあの状態とて射程距離の限界はあるだろう。……アレをどうにか止めるためには、二人の知識を借りることが絶対条件だった。

「……リリス、ケガはないかい⁉ だいぶ魔術も酷使したみたいだけど、手足に妙な感覚とかは⁉」

 念のため視線を外さないようにしつつバックステップで二人の下へと舞い戻ったリリスを、ツバキの心配そうな声が出迎える。普段は冷静なツバキがここまでうろたえているのを見るのは、随分と久しぶりの事のように思えた。

 戦闘以外の場面でならばいざ知らず、戦うとなれば冷静に戦術を練って勝算を見つけ出すのがツバキという少女の強みだ。だからこそ、戦闘中にここまで取り乱しているという事の意味が重い。……メリアの身に何か異常事態が起きたのだと、嫌でも理解させられる。

「今のところそういうのはないけど、魔術神経は痛めつけた自覚があるわね。……マルク、頼めるかしら?」

「当然だ、それが俺の役割だからな。……それでツバキ、あれは何なんだ?」

 首を横に振りながらもマルクに向かって手を差し出すと、その手が一瞬にして取られる。それからしばらくして、マルクの魔力が体の中に流れ込んできた。

 それに伴って鈍い痛みのようなものが全身を走るが、これが修復術式特有のものであることをリリスは知っている。初めて修復されたときには驚いたものだが、今ではそれを受けながら会話ができるぐらいには魔術神経の修復というものに慣れつつあった。

 マルクもそれが分かっているから、修復をしながらツバキの方へと水を向ける。……しかし、疑問に対する回答を持っているであろうツバキの表情は悲痛なものだった。

「……今メリアの身に起こっていることは、ボクも推測することしかできない。決して断定はできないし、できればそうであってほしくないと信じているよ。……そう予防線を張った上で、ボクの考えを話すとするならば」

 視線の先に黒い影の塊を見つめながら、ツバキは言葉を選ぶようにゆっくりと話を前に進めていく。……そして、その指先から影をわずかに迸らせると――

「おそらくだけど、メリアの意識は今影に呑み込まれてる。……もっとわかりやすく言うとするのなら、影魔術がコントロールを失って暴走しているんだ」

 こぶしを握り締めてその影を握りつぶしながら、ツバキは絞り出すように推測を共有する。……『暴走』というその言葉が、リリスにとっては重たかった。

 そう言われてみれば、際限なくあふれ出し、武器として形をとる影にメリアの意志は感じられない。今もその数を増やし続ける影の武装は、しかしどこに矛先を向けるでもなくゆらゆらと宙に漂うばかりだ。

「……二人とも、疑問に思ったことはないかい? いくらリリスが魔術師としてとても優秀だとは言え、本来ならボクのものであるはずの影をリリスが代理で制御するなんて荒業ができるのか」

「……それは、確かに」

 付け加えるように続いた根源的な問題提起に、マルクは小さく息を呑む。リリスからしても、その問いが投げかけられるのは初めての経験だった。

――初めてリリスがツバキから影を借りた時、ツバキはなんて言っていたっけ。……もう十年近く前のことだから詳細な記憶にはもやがかかっているのだが、それでも何かはっきりと言いつけられたような気がしてならなくて。

「時間がないから正解を言うけれど、それは影が明確な実体を持たないものだからだ。基本的には触れることもできず、また自発的に存在することもできない。影って存在の定義は実に曖昧で、だからこそボクたち魔術師が干渉することでいろいろな役割を持たせることができるんだ」

 感覚に干渉したり、音を遮断したりとかね――と。

 何度も見てきたような例を挙げながら、ツバキは影魔術の本質をそう表現する。……だがしかし、すぐにその表情は曇ることになった。

「そこまで聞けば万能な魔術だと思うだろう? ……だけど、事態はそんなに簡単じゃない。なんにでもなれるという事は、裏を返せばどうなるか分からないって事だ。影を制御するボクたち魔術師がコントロールを失えば、自由になった影がどんな属性を得るかなんて誰にも分かったものじゃない」

「……それが今のメリア、ってことかしら。あの感じ、どう考えたってコントロールできているようには思えないものね」

「そういうこと。遠くから見ていただけだからはっきりとは言えないけれど、メリアは影で自分のことを覆って、その手足をまるで獣のような形へと作り替えていただろう? ……アレは影で鎧を作っているのとはまた違う、自分の身体そのものに干渉する行為と言えるんだ」

 顎に手を当てながら、ツバキは努めて淡々と状況を整理していく。然しその視線は限りなく下へと向けられていて、今のメリアを直視するのを拒んでいるかのようだ。……顎に当てた支えがなければ、その顔は今頃地面に向けられていたことだろう。

「リリスが普段『魔術を用いた武装』として影を使っているのとは少し違って、メリアは影を『自分の身体の延長』だと定義して魔術を行使していた。そっちの方が根本的な身体能力の向上にも繋げやすいし、より直感的に影を操れるからね。……だけど、それはメリアが影の干渉する範囲を正しく制御できていたらの話なんだよ」

「……それが失敗したから今、ってことか。どう考えても、あの状態が正しいものだとは思えないしな」

 リリスの修復を完了させたマルクが、目を開いてツバキの説明を復唱する。……それにまた頷いて、ツバキは心を落ち着けるかのように一度深呼吸を挟んだ。

「……影魔術が感覚とか精神に干渉ができることを、二人は知っているだろう? ……おそらくだけど、メリアが陥ってるのはその状態だ。あくまで『身体の延長』でしかなかった影が何らかの要因でコントロールを失うことで、『心身の延長』としてメリアに干渉している――簡単に言うのであれば、メリアの意識は今表にない状態にあるって感じだろうね」

「意識が、表にない?」

「ああ、そうだ。影をコントロールしていたはずのメリアの自意識は心にまで侵入してきた影に飲まれて、直前までメリアを突き動かしていた衝動とか意志だけが表面に残っている。……それに従っているからこそ、あんな状態になっても影はリリスに襲い掛かったんだ」

 口調を険しくしながらも、ツバキは説明することを止めようとはしない。この場で影魔術を最も理解するものとして、ツバキは淡々と役割を果たしていた。……固く握りしめたその両手に、姉としての思いを全て閉じ込めながら。

「このままあの状態で放置すれば、影はその衝動に従って無限に武装を増やし続けるだろう。……その源であるメリアが限界を迎えて命を落とすその瞬間まで、ずっと変わらずね」

――そして、ツバキの説明はその先にある悲痛な結末までもを淡々と語って見せる。……影魔術というものの本当の恐ろしさを、リリスは十年越しに理解させられていた。
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