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第三章『叡智を求める者』

第百九十四話『悲願の刻』

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――不確定要素はあった。不安要素もあった。……だが、我々の勝利だ。

 明るくもないが決して暗くもない研究所――マルクたちが『魔喰の回廊』と呼んでいる施設の中をコツコツと歩きながら、アゼルはそんなことを考える。彼が我が子のように――いや、わが身そのものよりも大事に扱ってきた計画の結実を目の前にしていると思うと、普段は作り笑いしか浮かべられない頬が自然に緩むような気がした。

 呪印術式という魔術形態、そしてそれを用いて古き研究者たちが目指していた不老不死の実現。それと初めて出会ったとき、アゼルが生きる意味というのは決定づけられていたのだと思う。先人が残した技術を完全な形で復活させ、その偉大さを、尊さをすべての人類に刻み込む。……呪印術式こそが至高であることを証明するのが、アゼルに課せられた使命だった。

 だから、その目撃者にはできる限り多く生きていてもらう必要がある。信仰を知らぬ野蛮な客人たちの命を取らなかったのも、究極的にはそれが理由だ。真の不老不死を体現した存在が蘇れば、死を克服できない俗物はただ沈むほかない。……抗ったところでどうせ運命が変わらないのであれば、不老不死をこの世界に知らしめる舞台装置として使ってやる方がいくらか有益だろう。

「……この世界には、不老不死の素晴らしさを知らない俗物が多すぎますからな」

 ボタンに触れて扉を開き、アゼルは神獣が待つ祭壇へと一歩一歩近づいていく。生命に制限時間が設けられる空間であるというのに、その足取りには一切の焦りがなかった。

 神獣が完全な形で目覚めれば、不老不死はすぐさま信者たちに行き渡ることだろう。古代の先達は体の大きさの問題を解決できずに不老不死へとたどり着けなかったが、アゼルの研究は呪印の大幅な縮小を可能にした。……あとは、神獣に宿る呪印を分析して縮小を行うだけだ。それを刻めてしまえば、たとえこの研究所の中であろうと死ぬことはない。何せ不老不死なのだから。

 マルクたちが想像している以上に、アゼルという人間は優秀な研究者だ。過去の人物が文書でしか残していないものを分析し、彼らの理想を知り、あまつさえ改良するにまで至った。……その実力は、まっとうな研究者たちに混じれていれば世界を変える論文を書けていたであろうと断言できるほどだ。

 だが、不運なことに運命はボタンを掛け違えた。その結果が今のアゼルであり、彼が目指すのは不老不死の実現だ。……そのために、アゼルは何を捧げることも厭わない。

「あの双子を不死の境地へと導けなかったのは、少しだけ心残りではありますが――」

 手駒としても信者としても優秀だっただけに、時折顔を出す早とちりな部分が惜しかった。他の村人のようにただアゼルの言葉を待っていればよかったものを、なまじ考える頭を持ってしまったのが運の尽きだったと言わざるを得ないか。

「手綱はしっかり握っておくべきものですな。……永遠に、肝に銘じておきましょう」

 いくら完全な存在を目指しても、その下につくものの狼藉でその玉座が崩れる可能性は大いにある。アゼルが永遠の存在――他者に不老不死を与える神のごとき存在になろうとも、その教訓は忘れるべきでないものだろう。神の信徒へと人を変貌させる服従の呪印に、判断力を奪う効果も追加しておくべきだったか。

 だがまあ、その反省も有益なものだ。結果として計画に支障はなく、双子は贄としての役割を果たした。神獣を復活させるにはどうしても人間の命が必要であったから、ある種これも都合がよかったというべきなのかもしれない。

「これもまた神の導き――いや」

 軽くつぶやこうとして、アゼルは一人首を横に振る。今アゼルがここに立っているのは、神の導きなどではない。アゼルは導かれる側ではなく、蒙昧な民を導く神となる存在なのだから。

「これは、私に課せられた使命でしたな。……古き偉人の後を継いで神へと至るという、至上の命題」

 もし仮にこの研究所と出会ったのがアゼルでないのならば、呪印術式という存在はこの世界に蘇ることはなかっただろう。何の因果か十分な才能を持ったものによってそれは現代へと掘り起こされ、そして進化を遂げた。……その偶然の連鎖を、アゼルは必然の所業だと解釈する。

 不老不死。研究者の誰もがゴールに据えながら、誰もたどり着けなかった永遠の境地。それを手にすることによって、小さな村の長でしかないアゼルは真に神となる。民に永遠を与え、究極の領域へと導く。最初は抵抗する者もいるかもしれないが、いずれすぐに気づくことになるだろう。……不老不死へ至ることによって、生命は一つ上の段階へと進むことができるのだと。

 村人全員に刻んだ服従の呪印を起動して、客人たちが祭壇に向かえないように工夫はしておいた。一度不老不死になってしまえば、あちらがどう足掻こうと勝敗は変わらない。……人と神で、争いなど起こせるはずもないのだ。

「あなたたちは指を加えてみていることしかできない。……できるなら、無駄な殺生は少なくしたいのですがね」

 だが、あのやり取りを見るに客人がその素晴らしさを簡単に理解してくれるとは到底思えないのが現状だ。……あくまでアゼルの理想を拒む障壁として振る舞うのなら、その時は悲しいが殺すしかないだろう。

 神となったその先のことを考えながら、アゼルは神獣が待つであろう祭壇の間へ続くボタンを押し込む。それに伴って音もなく扉が開いて、暗い通路がアゼルの前に広がった。

 繋ぎ以外の役割を持たない無機質な空間を通り抜けて、アゼルは祭壇の間へと歩みを進めていく。その一歩一歩は小さいが、しかし神へと至るための確実な一歩だ。その歩みは、誰にも止められない。

 暗い通路を抜け、アゼルはついに祭壇の間へと到達する。呪印の力で老齢ながらも若者並みの視力を保っているアゼルの目に飛び込んできたのは、氷の檻の中でもがく神獣の姿だった。

「……これはこれは、おいたわしい事です」

 神よりも早く不老不死の概念を実現した狼のような存在――神獣は、当然その氷の中でも意識を失っていない。その姿は日記の中でも描かれていたが、実際に目にしてみるとより神々しくその姿はアゼルの瞳に映し出された。

 だからこそ、このように氷漬けにされている現状が痛ましくてたまらない。大方客人たちが神獣と交戦したのだろうが、このような仕打ちを行うなど無礼もいいところだ。

 そして、その状況はアゼルにとって偶然にも不都合だった。氷の中でもがく神獣にアゼルが主であると認めさせる――すなわち服従させなければ、アゼルが神に至ることは不可能だ。それをクリアできなければ、アゼルは神獣に外的とみなされて始末されるだけだろう。

 だが、その悲惨な最期を回避するための仕込みはすでにしておいた。あの双子の命を食らって神獣が顕現しているのであれば、その仕込みは神獣の中へと刻まれているだろう。後は、神獣に触れることによってアゼルこそが服従すべき主であるという認識を神獣の中に叩きこむだけだ。そうすれば、不老不死の神獣でさえもアゼルに付き従うものとなる。

「……神に至るための最後の苦労だと思えば、安いものですな」

 そう呟きながら、アゼルは懐から一枚の紙切れを取り出す。事前に魔力を注ぎ込んでおいた呪印が描かれたそれは、アゼルが一度念じるだけで炎魔術に変じてこの氷を溶かすことだろう。ストックは無数にあるし、それをすべて注ぎ込めば神獣に触れるための穴ぐらいはあけられるはずだ。

「……さあ、刻まれたことの意義を果たすがいい」

 アゼルがそう命じると同時、紙切れは炎に変じて氷の檻を熱で包み込む。自然の摂理に従って、氷の檻はゆっくりと溶け出していった。

 そのまま紙切れを取り出し続け、アゼルはゆっくりと神獣の枷を解き放っていく。……ほどなくして、神獣の白い毛皮に手を触れられるだけの穴がぽっかりと開いた。

 その穴を通じて神獣に触れれば、アゼルの計画は九割方完了する。後は神獣とともに不老不死の存在となり、民から死を取り除くだけだ。そうすれば、アゼルはこの現世において唯一の神となれる――

「……っ、と」

 恍惚に浸りながら手を伸ばしていたアゼルの意識の中に、いきなり不埒な気配が紛れ込んでくる。とっさに袖に仕込んだ呪印を振りかざすと、氷が砕ける音が軽やかに響き渡った。

 アゼルからすれば、悲願成就の一歩手前で横やりが入った形だ。当然、温和なアゼルでも看過することはできない。そして、そんなことをする狼藉者が誰かなんてもうわかりきっていて――

「……つくづく諦めが悪いのですな、あなた方は」

 ゆっくりと振り向きながら、そこにいるであろう客人たちにアゼルは失望の言葉を贈る。――しかし、それに対して返されたのは敵意でもなく怒りでもなく、確かな笑みだった。

「それは流石にブーメランが過ぎるぞ、アゼル。……存在しないものを追いかけるだなんて、あまりにも諦めが悪すぎる」

 四人の先頭に立つ青年が、集団の意見を代表するかのように告げる。名は――確か、マルク・クライベットと言ったか。

 いや、そんなことはどうでもいい。……それよりも今、この男は何と言ったのだ。

「存在しない……? 私が見つけ出した永遠の恩寵が、この世界には存在しないと?」

 腹の底から湧き上がる激情を抑え込んで、アゼルは問い返す。……それに対してマルクが首を縦に振るのに、一秒の隙間もなかった。

「ああ、お前が追いかけてんのは幻だ。本当の不老不死なんて、ここには何もありはしねえよ」

 こぶしを握り締めながら、マルクはアゼルが追いかけてきた理想をそう断ずる。一切の迷いもなく、一切の虚勢もなく。……アゼルよりもずっと澄んだ瞳で、マルクは永遠を否定する。……その言葉に、ついにアゼルの忍耐は限界に達した。

「何を……何を根拠に、俗物如きがそんな戯言を……‼」

 手足をわなわなと震えさせ、アゼルは声を荒げて言い返す。このものには舞台装置などと言う扱いですら生ぬるい。すべてを手に入れた暁には、彼らにもその恩寵を与えてやろう。そして殺し続けるのだ。彼らの心が壊れるまで、ありとあらゆる無残な結末をその身に刻んでやる。……文字通り、万死を彼らに与えてやる。それが、神を否定したことに対する報いだ。

 激情に飲まれていくアゼルとは対照的に、マルクたちは余裕すら湛えてアゼルを見つめている。……いや、違う。彼らの視線は、その後ろにある神獣に向けられている。

「ああ、根拠なら今から作るよ。……そこにいる狼が殺せれば、証明には十分すぎるだろ?」

 獰猛な笑みを浮かべて、マルクは声高らかに宣言する。……不死殺しを唄うその目は、さながら狩人のように爛々と輝いていた。
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