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第三章『叡智を求める者』

第百八十五話『半透明の翼』

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――初めてツバキと対面した時、リリスは影魔術の恐ろしさを体感したことがある。自分を自分たら占めているあらゆる感覚とのつながりを切り離され、虚空の中を漂わされているかのような恐怖感。あれは幼いころに体験するべきではなかったし、今だって体験したくないものだと断言できる。

 断片的ではあるが、今リリスが味わっているのはその感覚だ。手足は繋がっているのに、前に進もうという意思はあるのに、それに手足が一切応答しない。力なく踏み込んだ一歩目はそのまま崩れ落ちて、いつの間にかリリスは地面に倒れこんでいた。――それと同時に形を保てなく氷の槍が、小さな氷の粒となってはらはらとリリスの肌に降り積もっていく。

「リリスッ‼」

「くそ、やっぱり限界だったっていうのか……‼」

 その姿を目にしたのか、ツバキとマルクが悲痛な叫び声をあげている。……そんな声をあげさせたくて、リリスは前に立ったんじゃないのに。……そんなことを言わせてしまったことが、辛い。

 リリスのあらん限りを振り絞った魔術は、確かに成功した。今でも狼の触手が飛んでくる気配はないし、作り上げられた氷塊がまとう冷気はリリスの肌を撫でている。……だが、あの拘束が不完全だということも、リリスは理解していた。

 認めたくない話だが、リリスはあの術式が完成するその直前で限界を迎えていた。それをどうにかつないで拘束の形らしくしたのはリリスの意地が結実した形だが、だからと言ってそれを喜んでばかりでもいられない。……その拘束は、遠くないうちに壊れてしまうのだから。

 あの氷塊の中で少しでも狼が身じろぎする隙間があってしまえば、拘束が崩壊する時間は急速に早まるだろう。あの中は生命が活動するには寒すぎるが、そんな常識が通用する生命であるわけもなし。……結論から言えば、リリスは自らの限界を見誤ったのだ。

 普段は有り余るぐらいに循環している魔力が今や体のどこにもなく、それがどうしようもない脱力感をリリスに与える。どれだけ立ち上がりたくても、這ってでも進もうと誓っても、それを実現するための手足は相変わらず何も応答してくれない。

「……ツバキ、俺に影の支援を回せるか! ……俺が、リリスを拾いに行く!」

 行動不能に陥ったリリスを見て、マルクはすぐさまツバキにそう掛け合う。もう少し混乱し足り取り乱したりしても誰も責められない状況の中で、五秒と経たずにその判断を下せるのは見事としか言いようがないだろう。……しかし、それに対するツバキの答えがリリスには簡単に想像できてしまった。

「駄目だ、影の支援は全くリスクがないわけじゃない! あの子があれを纏って平然としていられるのは、そこに至るまでに修練を積み重ねたからなんだよ!」

「……そうよ。貴方は、そんな苦痛を背負っちゃ駄目」

 正面から聞こえた強い制止の言葉に続いて、リリスは小さくつぶやく。どれだけマルクが懇願したところでツバキは影の支援をマルクに回さないだろうし、リリスもそれを認めることは決してない。……ツバキの影を借りるのには、それ相応の代償がいるのだ。

 ツバキが扱っているのは、人を直接殺さない優しい影だ。しかし、それでも人の精神を蝕み、食い尽くしてしまえるほどのポテンシャルがあることは否定できない。マルクがそれに飲まれるとも思えないけれど、それでもそこに苦痛が伴うのは変わりないのだ。……それを完全に制御しきれるようになるまで、リリスですら二年かかった。

 だから、マルクにそんな思いはさせられないのだ。……マルクがこれ以上何かを背負い込むことなんて、させたくない。

 痙攣一つすらしてくれない自分の身体に苛立ちながら、リリスは四肢に『動け』と命じ続ける。それでも体は動いてくれなくて、状況だけが進行していく。……氷がひび割れるような音が、背後から聞こえ始めた。

 きっと、触手を振り回せるだけの隙間が拘束の中に生まれてしまったのだろう。そうなってしまえば崩壊までにそう時間はかからない。リリスの全力を突き破った狼の触手は、今度こそ無抵抗のリリスの体を貫くはずだ。

 もちろん、そんな結末で死んでやるつもりは毛頭ない。ないのだが、リリスは今このザマだ。……持久力のない自分の身体が、恨めしい。

「……わかった。ボクとマルク、タイミングを合わせて前に突っ込もう。そうすればどっちかはリリスを抱えられえるはずだし、戻ることだって不可能じゃないはずだ。……現状、それが一番確率の高い作戦だよ」

「……そう、だな。それを通すぐらいの気概じゃなきゃ、ここから生きて帰るのも難しいか」

 氷の割れる音が響く中、マルクとツバキも決意を固め始める。リリスを見捨てるなんて考えがみじんもよぎっていないのが嬉しくて、だからこそ動かない自分の身体が恨めしい。……命を懸けるその思いに返せるものを、今のリリスは持ち合わせていない。

「……リリスは、自分の役割を全力で果たそうとした。それが皆に期待されて、自分が背負ったものだから、って。……限界の先まで力を使い果たして、ああやって倒れちゃってるくらいに」

 自分の無力を悔いているリリスの鼓膜を、唐突にノアの小さなつぶやきが振るわせる。聴覚以外の大体の五感が機能不全に陥っているからなのか、その呟きに気づいたのはリリスだけのようだ。ツバキとマルクがそれに気づいている様子はないし、気づいたとして二人のやることは変わらないのだろう。……今の二人の視界から、ノアは消えているといってもよかった。

 というか、まだ逃げずにこの場に残っていたことに驚くレベルだ。狼という理解できない存在に放心状態に陥っていたのか、それとも何かを考え続けていたのか、口数も少なかったし。……つくづく、不明瞭な点が多すぎるのがノア・リグランという存在だった。

 魔術構造を研究しているという前提条件があるにせよ、手を触れただけで術式を解析できるというのはリリスですらなかなか聞かない話だ。研究者としては有能だった師匠もそんな芸当ができた覚えはないし、リリスもそんなことができるようになるとは思えない。今まで頭の片隅に居座っていた『裏切者』という可能性は――まあ、この場から一目散に逃げていない時点で排除してもいい気がするが。

 なんにせよ、この状況で何かができるとも思えないというのがリリスの所見だ。だが、ノアのつぶやきはやけに真剣な響きを伴ってリリスの耳に届いている。……まるで、何か迷いを断ち切ろうとしているかのように。

「……リリスは、役割を果たそうとした。ううん、ほかの二人だって。……それじゃあ、ウチは……」

 迷うように、しかしそれを振り払うように、ノアは言葉を繰り返す。この戦場で唯一何もできないリリスだけが、それをはっきりと聞いていた。――その合間合間に、氷の砕ける音が混じる。

「……マルク、もうあまり猶予はなさそうだ。……狼が次に動いたら、突撃するよ」

「ああ、そうだな。……それが裏目に出たら、そん時はそん時だ」

 その音を聞いて、マルクとツバキが覚悟を固める。死の淵にいるからなのかやけに時間が間延びして感じられるが、不完全な拘束がまだ破られていないあたりきっと三十秒も経過していないのだろう。……それだけの速度で判断ができるなら、判断のための時間が稼げていたのなら、十分だ。

 そう感じた瞬間、リリスの前方から地面を蹴る音が二つ同時に聞こえてくる。決して短くない距離を、二人は全力で駆け抜けているのだろう。せわしなく、不揃いな足音がだんだんとこちらに近づいてきて――

――それと同時、致命的な破壊音がリリスの後方から聞こえた。

 狼を縛っていた氷の牢獄が砕け散り、現状からの脱出を目指していた触手が本来の役割を思い出す。――すなわち、その触手は再びリリスを標的にしているわけで。

「クソ、間に合ってくれ……‼」

「こんなところでは終わらせない、絶対に……‼」

 その触手よりも先にリリスのことを抱きすくめんと、駆け寄る足音が限界を超えて早くなる。音もなくこちらに近づいてくる触手と、騒がしくこちらに向かってくる足音はあまりに対照的だ。……どちらに身を任せたいかは、最初から決まりきっている。

 だがしかし、その願いが戦況に影響を及ぼすことはない。どちらが先にリリスの体に触れるのか、ただその結果にリリスは身を委ねて――

「……そんな汚い触手で、リリスに触ったらダメだよ」

――凛と響くノアの声を、聴いた。

 その直後、何かが凍り付くかのような音がリリスの耳朶を打つ。……その直後、リリスは華奢ながらもしっかりと鍛錬したことがわかる両腕に抱え上げられた。

「……リリス、意識は⁉」

「大丈夫よ、ぎりぎり保ってるわ。……それより、あれは何なの?」

 切羽詰まった様子で問いかけてくるツバキに、リリスは力なく笑みを返す。……もっとも、ツバキに抱き上げられたことによる安堵によって意識の糸は切れてしまいそうなのだが。

 だが、その前に聞いておかなければいけないことがある。砕かれたはずの氷の拘束が復活し、狼の触手の先端まで完全に制止させていること。それだけでも十分謎だが、リリスが気にしてやまないのはもう一つの方で――

「……ノアは、いったい何を隠してたっていうの……?」

「……わからない。だけど、これでもうあの子を疑う必要はなさそうだ」

――半透明の翼を生やしてリリスたちをかばうようにして立つノアらしき人物の姿に、リリスの視線はくぎ付けになっている。薄黄色の光を周囲に纏うその姿は、どう考えたって人間のそれではなくて――

「……まるで、夢でも見てるみたいね」

――そんな場違いな感想とともに、限界を迎えたリリスの意識は闇へと落ちていった。
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