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第三章『叡智を求める者』

第百八十四話『新たな引出し』

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――体が重い。影の援護を受けてもなお、体中に鉛を突っ込まれたような気怠さが消えてなくなってくれない。……やはり無茶はするものではないと、狼に向けて跳躍しながらリリスは思う。

 ツバキの支援を受けているから結構速度は出ているはずなのだが、さっきまでの全力軌道を思えばあくびが出るような速度だ。それだけしか出せない自分の持久力のなさが恨めしいし、そこまでして叩き潰したのに平然と元の形を取り戻した狼も恨めしい。生やさない方がいいとまで助言してやったというのに、またしても触手を三本伸ばしているのは嫌味か何かだろうか。

 そんな風に抗議してやりたいが、あの狼に人の言葉を解することができるとも思えない。あれがどんな経緯をたどって生まれた存在なのかは分かったものではないが、ろくでもない生命体であるということだけは間違いないのだから。

 そんなものと敵対してしまった以上、リリスができることなんてそんなに多くない。……多くないからこそ、その手段の一つ一つにリリスは命を懸けるわけで――

「……氷よ‼」

――そうやって生きてきたからこそ、リリスは今ここに立っているのだ。

 腹の底から絞り出したかのような咆哮とともに、リリスは氷の剣を狼に向けて振り下ろす。その太刀筋をなぞるかのように浮かび上がった白い線が、氷の短剣へと瞬時に姿を変えた。数十個に及ぶそれらの切っ先はすべて狼へと向けられており、リリスの殺意を示しているかのようだ。

 悠然と構えてリリスの攻撃を受け止める体制をとっていた狼からすれば、一瞬にして攻撃の手数が無数に増えたも同然だ。普段リリスが好んで作り上げる氷の槍と比較するとその大きさは劣るものの、鋭く磨き上げられた短剣の一刺しは決して無視できるものではないだろう。……その短剣は、狼に『どこの負傷を許容するのか』という問いを突き付けていた。

 もちろん、『すべて防いで無傷で終わる』という答えを返すのも一つの選択肢だろう。だがしかし、今狼に攻撃を仕掛けているのはリリス・アーガスト。――クラウスをも一度は凌駕した、王都最強の冒険者なのだ。

「は……ああああッ‼」

「ガ……ルウッ‼」

 裂帛の気合とともに放たれた斬撃が、狼によって瞬時に差し向けられた触手によって受け止められる。まるでリリスの気合に答えたかのような咆哮は、何度も壁を跳ね返りながら部屋の中を響き渡った。

 リリスからすれば本命の一撃をいなされた形だが、しかしそれが全くの無駄な行動だったかといえば答えは否だ。……リリスの気迫は、狼の防衛本能を剣にだけ集中させるには十分すぎた。

 それを示すかのように、狼の体表には氷の棘がいくつも突き刺さっている。いくつかは防御されたのか氷の欠片がパラパラと床に散らばってはいるが、防御に成功したといっていい状態でないことは間違いない事実だ。……その状況を作ることこそが、リリスの狙いそのものだったのだから。

 剣をはじき返された反動で大きく後ろに跳躍しながら、リリスはその光景をはっきりと目にする。……そして、小さくほくそ笑んだ。

「やっぱり、あなたあんまり知能はないみたいね。狼の見た目とは合わないから、ほかの姿に再生した方がよかったんじゃないかしら?」

 突き刺さっている短剣の数を必死に目で数えながら、リリスは煽るような笑みを浮かべる。それが狼に通じているとも思えないが、それでリリスの心は少しだけ軽くなるんだからいうだけお得というものだ。……軽口を叩けている以上、ある程度の優勢は確約されているようなものなのだから。

――心から癪に障る話だが、今のリリスたちではあの狼を殺すことはできない。ひき肉にしてもなお再生する生命など、おとぎ話の登場人物としてさえ『無茶苦茶だ』と笑われるレベルの存在だろう。間違いなくあの生命体はイレギュラーで、リリスたちが滅するには知識も推測も足りてはいないのだ。

 しかし、殺すこと以外に勝利条件を求めるのであれば勝ち目は十分にある。そして、今のリリスたち勝利条件は『呪印が起動する前にこの場から撤退すること』だ。……つまり、少しの間だけでもあの狼が追ってこられなくなるような状態が作れるだけでいい。

 どこか別の空間から呼び出されたばかりだという事情もあってか、狼の身のこなしは圧倒的というほどではない。今だって氷の短剣は突き刺さったし、本命の一撃だってはじき返されはしたが負傷することはなかった。これが長続きするものかどうかは置いておいて、今の狼はかなり注意力が散漫だと言えるだろう。

「……ま、いいわ。あなたが犬みたいな見た目してるおかげで、私も心置きなくしつけられるし」

 狼の姿を睨みながら、リリスは次の一手に向けた術式を準備する。正直なところ細かい魔力のコントロールは決して得意分野ではなかったが、度重なる消耗が勝手に魔力の限界出力を押えてくれているのが今だけはありがたかった。

 今からリリスが仕掛けるのは、普段の豪快な魔術とは真逆を行く繊細な魔力の操作を必要とする一手だ。マルクの修復術を何度も受けている間に思いついた、新しい形の拘束術。そんなに回りくどい事をする必要があるとは思えなかったのだが、まさかこんなにも早く出番が訪れることになるとはさすがに予想外だった。

 運がいいやら悪いやら、とリリスは内心苦笑しつつ、狼の体に突き刺さった氷の短剣――いや、楔を見やる。あれはただ体を傷つけるためのものでなく、今できる最短ルートでこの戦いを終わらぜるための下準備だ。再生した経験がそうさせているのか、大振りの一撃を防ぐ方を選択してくれて本当に助かった。

 青白い氷の楔たちを見つめて、リリスは意識を集中させる。不意打ちまがいの小細工までして狼の身体に突き立てた楔は、狼を縛る起点であり支点だ。それが抜けない限り、きっとこの魔術はうまくいく。

「……繋ぐ、繋ぐ、繋ぐ」

 修復術を使うときにマルクがするように、リリスはぶつぶつと呟く。狼の攻撃に警戒しなくてはならないからさすがに目は瞑れないが、それ以外はほとんどマルクの模倣だ。……まるで自分に深く刷り込むかのように、『繋ぐ』意識を明確なものへと変えていく。

 狼はまだリリスの火力を警戒しているのか、一歩引いた位置で構えながら準備を進める姿を注視している。いくら即死級のダメージを食らおうと死ぬことがないのは分かっているのに、やはり痛みへの恐怖というのは前に踏み込む意思を奪うものらしい。

「そう、そのままそうしてなさい。……でないと、もっと痛い目見ることになるわよ?」

 戦意が今も途切れてないことをアピールするかのように、リリスは強気な言葉とともに氷の槍を背後にいくつも装填する。もっともこれはハッタリ、打っても何ら意味をなさないものではあったが、狼の本能に訴えかけるものはあってくれたらしい。

 触手をうねらせながらも狼はリリスを注視し、戦況は見かけ上の膠着状態を迎える。……だが、水面下ではリリスのペースで戦闘が進行していた。

「繋ぐ、繋ぐ……もっと強く!」

 楔同士の間に魔力を通すようなイメージで、リリスは狼の周囲に魔力を張り巡らせる。強い魔力を込めて叩きつけた楔があれば、変化させていない魔力でも少しは残留してくれるはずだ。

 確信とも願いともつかない考えを巡らせながら、リリスは術式の準備を進めていく。今の強気な姿勢がハッタリだとバレる前に、戦況はとっくに狼が優位なのだと、不足している知能でも理解されるよりも前に全てを終わらせようと、リリスは普段より何倍も繊細に魔術をコントロールして――

「ガ……ラアアアッ‼」

 しびれを切らしたかのように、狼は唸り声をあげながら触手を大きくしならせる。氷の槍を維持しながらもその動きは明らかに鈍くなっているリリスに向かって狼がそれを叩きつける、直前のことだった。

「……繋げッ‼」

 鋭く、そして甲高いリリスの詠唱とともに、狼の体が一瞬にして氷に覆われる。何本も突き立てた楔を起点に蓄積させた魔力をすべて氷へと変じさせることで生み出されるそれは、さながら氷の監獄のようだ。一つの傷もつけることなくただ大きな氷塊の中へと対象を閉じ込めるそれは、防御不可能の拘束術式として無類の威力を誇るだろう。

 事実その氷塊は狼の触手をも硬直させ、襲撃者の動きを完全に封じ込める。永久に拘束することは不可能だろうが、それでも足止めとしては十分だ。この隙に撤退して、次こそ完全にこの狼を眠りにつかせるための策を練らなくては――

――なんて、撤退したその先のことにリリスの意識はすでにあったのだが。

「あ、れ?」

 皆のもとに戻ろうとした一歩目に力が入らなくて、リリスの体は膝から崩れ落ちる。――鉛が詰められているようだった手足が、今はもう自分のものではないかのようだった。
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