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第三章『叡智を求める者』
第百三十話『焦燥が示す事実』
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赤い呪印をその身に宿した魔物の足取りはせわしなく、まるで自分の身に制限時間が迫っているのだと分かっているかのようだ。本来なら捕食対象であろう俺たちのことも、ギリギリになるまで目に入っていないらしい。
よっぽど呪印の起動による死を恐れているんだな……。魔物の本能にまで訴えかけるのは大した術式だが、そもそも魔物に刻み込む意味がどこにあるのか。……本当に、よく分からない。
「どこまでも、謎の多い術式ね……‼」
「そうだね。だけど、倒さなきゃいけない敵だってのははっきりしてるよ」
その魔物の行く手を阻むかのように立ち、リリスは氷の剣を展開する。横合いから影がぬるりと伸ばされ、リリスの手足と剣に黒い加護を与えていた。
二人の影に隠れるように、俺は三歩ほど後ろに下がって状況を傍観する。本来ならもう少し距離を取りたいところだが、今は安全よりも観察を優先しなければいけないような気がした。
「グ……ラアアアアッ‼」
道を譲らない俺たちに対して、魔物は怒り狂っているかのようなうなり声を上げる。そこに一切の余裕は感じられず、追い込まれているのはむしろ魔物の方だった。
時間制限という絶対的なものに縛られて、魔物の攻撃は単調なものになる。ただ直線的に突破を図る突進に対して、リリスは冷静に構えを取った。迎撃に特化したそれは、一撃で相手を葬るだけの破壊力を秘めた必勝の構えだ。
「……悪いわね」
ぼそりとリリスが呟くと同時、リリスの一撃が魔物の口内を直撃する。突進の速度とリリスの鋭い踏み込みが合わさることによって、魔物の体に食い込んだ刀身はあっさりと魔物の体を上下に切り分けた。
「うお、っと!」
上下に分かたれた魔物の体が俺のところまで飛んできて、俺はとっさに身を壁の方に寄せる。その飛距離を見れば、どれだけの速度で魔物がこの通路を駆け抜けていたかがはっきりわかるというものだ。
魔物の表情は死の瞬間も必死の形相に歪んでいて、呪印の起動が魔物にとってどうしても避けたいものであったことが分かる。その結果体を両断されたのは、幸運だったのか不運だったのか。
その額に刻み込まれていた赤い光は、いつの間にやら姿を消している。死を与える呪印は、死者に興味を示さないということだろう。
「……残酷なこった」
「冷静な判断が出来る状況だったなら、この魔物ももう少し手ごわかったんだろうけどね。生存本能にかられた結果死が近づくだなんて、皮肉な話だよ」
魔物の亡骸へと歩み寄りながら、ツバキはそんな風に評する。その手には、すでに剥ぎ取りのためのナイフが握られていた。
時間制限の事を考えているとあまり戦闘の余韻に浸ってもいられないのだが、そのスムーズな手際を見る限りツバキもそのことは忘れていないようだ。そのナイフ捌きをぼんやりと見つめていると、武装を解除したリリスが少しばかり焦った様子で俺の方に近づいてきた。
「……魔物の体、当たってないわよね?」
「ああ、流石にそこまでのヘマはしねえよ。ま、少し焦る速さではあったけどな」
まるで弾丸のようなそれは、当たっていたらそれなりのダメージにはなっていただろう。それくらいあの魔物は全力で疾走していたわけで、迎撃の一太刀で体を両断されるのにも納得がいくというものだった。
「それなら良かったわ……。守るって言った以上、少しのリスクだってかけるわけにはいかないもの」
「倒し方にまで気を使う必要はないけどな……。だけど、その決意は有難く受け取っておくよ」
そう言いながらリリスの頭に手を置くと、リリスは満足げに目を細める。普段は大人びたリリスが、この時だけ子供っぽくなるのがなんだかおかしかった。
暫く撫でられるままになっていたリリスだったが、十秒くらいするとすっと俺の方に視線を向けてくる。それに気づいて俺が手を離すと、リリスは瞬時に真剣な表情に戻って話を続けた。
「……マルク、一つ気になることがあるのだけど。あの魔物、どこを目指して走ってたのかしらね?」
「どこをって、外じゃねえか? 外に出れば、呪印はいったん消えてまた刻まれるんだからさ」
そのときどんな扱いになるかは分からないが、ここまで何度もダンジョンに出入りしているノアの事を考えるに一度ダンジョンの外に出れば呪印のカウントダウンはリセットされると見ていいだろう。だから、魔物もそれを目指してたんじゃ――
「……村の中に魔物が出たって話、少しも聞かないのに?」
「……あれ、確かにそうだな……?」
俺の中でくみ上げられていた仮説は、リリスの淡々とした問いかけによって全て瓦解する。……呪印のカウントをリセットしてまたダンジョンの中へと戻っていく魔物の姿は、いくら何でも利口過ぎた。
呪印というものは、魔物にとっても死の危険性がある物だ。あれだけの必死さでダンジョンを抜けて死のカウントをリセットした後、もう一度その中へと戻る? ……いやいやいや、あまりに不自然すぎる。
さっき魔物が全速力で駆け抜けていた通り、魔物には生存本能がある。その事と照らし合わせて考えても、一度脱出できたダンジョンの中に戻るのはあまりにもおかしいのだ。このダンジョンを出入りするのなんて、その中を踏破しようとする俺たちでもない限り意味のない事なのだから。
「だから、ダンジョンの外に出ようとしたっていう仮説自体がそもそも怪しい事になるわよね。でもそうすると、あの魔物がどこに向かって走っていたのかって疑問が解決できなくなる。……そこでノア、一つ聞かなければならないことがあるのだけど」
そう言いながらリリスは俺からその隣に立つノアへと視線を映す。いきなり水を向けられて、ノアは少しばかりたじろいだ様子を見せた。
「急に話がこっちに向いてきたね……。いいよ、何が聞きたいの?」
「ありがとう。それじゃあ、これは私の仮説にすぎないのだけど……。ダンジョンの外に出る以外の方法で呪印が起動するまでの時間を延ばす手段が、この場所にはあるんじゃないかしら?」
「……っ‼」
その指摘に息を呑んだのは、ノアではなく俺だ。その一つの仮説がハマるだけで、今まであった疑問はあまりにもすんなりと腑に落ちていた。
あの魔物は、どう考えても何かを目指して走っていた。それが物なのか部屋なのか、それとも生き物なのかは分からないが、それが延命の為であったことに間違いはないと言っていいだろう。
だがしかし、ダンジョンの外に出るという選択肢はさっきまで話した通り魔物の中にあるとは考えづらい。ならば、それ以外の延命方法があると考えるのはとても自然な話だ。
しかも、そう考えるとこのダンジョンの綺麗さにも納得がいく。魔物にも呪印が刻まれ命の制限時間があると考えると、このダンジョンにはもっと魔物の亡骸が散乱していたっておかしくないのだ。
そうじゃないということは、どこかに命を延ばすためのシステムが仕込まれている。どこまでリリスが深く理論立てていたかは分からないが、その仮説は核心をついているように思えた。
「あなたとしても隠しておくつもりはなかったのかもしれないし、責めるつもりはないわ。……ただ、どうしても気になってしまっただけ。あなたは、何か知っているの?」
まっすぐにノアの方を見つめて、リリスは念を押すようにもう一度問いかける。……それが決め手となったのか、ノアは参ったと言わんばかりに手を顔の前でひらひらと横に振った。
「……驚きだよ。後々説明しようとは思ってたけど、まさか自力でたどり着かれちゃうとはね……」
「と言うことは、やっぱり――」
「うん。このダンジョンの中には、術式が起動するまでの時間を延ばせる部屋がある。『セーフルーム』だなんて、私は勝手に呼んでるけどね」
「つまり、魔物はそのセーフルームとやらを目指していたと。そうなれば、全部納得がいくわね」
ノアから提供された情報に、リリスは満足そうな表情を浮かべる。リリスが組み立てた理論は、このダンジョンの隠された要素をまた一つ切り開いていた。
「……そうだ、せっかくだからセーフルームを探すことを当面の目標にしようか。皆相当頭が切れるみたいだし、持ってる情報は先に全部共有しちゃいたいし」
このダンジョンの特異性も分かってもらえたことだしね――と、ノアは笑みを浮かべて俺たちにそう提案する。その表情がいっそ晴れやかなものだったことは、俺に少しばかりの疑問を与えていたが――
「そうだな。落ち着いて話し合いが出来るなら、それに越したことはねえよ」
腰を下ろせる場所にたどり着ければ、諸々の事情も聴きだせるだろう。……そんな希望を抱きながら、俺はノアのプランニングに乗ることを決断した。
よっぽど呪印の起動による死を恐れているんだな……。魔物の本能にまで訴えかけるのは大した術式だが、そもそも魔物に刻み込む意味がどこにあるのか。……本当に、よく分からない。
「どこまでも、謎の多い術式ね……‼」
「そうだね。だけど、倒さなきゃいけない敵だってのははっきりしてるよ」
その魔物の行く手を阻むかのように立ち、リリスは氷の剣を展開する。横合いから影がぬるりと伸ばされ、リリスの手足と剣に黒い加護を与えていた。
二人の影に隠れるように、俺は三歩ほど後ろに下がって状況を傍観する。本来ならもう少し距離を取りたいところだが、今は安全よりも観察を優先しなければいけないような気がした。
「グ……ラアアアアッ‼」
道を譲らない俺たちに対して、魔物は怒り狂っているかのようなうなり声を上げる。そこに一切の余裕は感じられず、追い込まれているのはむしろ魔物の方だった。
時間制限という絶対的なものに縛られて、魔物の攻撃は単調なものになる。ただ直線的に突破を図る突進に対して、リリスは冷静に構えを取った。迎撃に特化したそれは、一撃で相手を葬るだけの破壊力を秘めた必勝の構えだ。
「……悪いわね」
ぼそりとリリスが呟くと同時、リリスの一撃が魔物の口内を直撃する。突進の速度とリリスの鋭い踏み込みが合わさることによって、魔物の体に食い込んだ刀身はあっさりと魔物の体を上下に切り分けた。
「うお、っと!」
上下に分かたれた魔物の体が俺のところまで飛んできて、俺はとっさに身を壁の方に寄せる。その飛距離を見れば、どれだけの速度で魔物がこの通路を駆け抜けていたかがはっきりわかるというものだ。
魔物の表情は死の瞬間も必死の形相に歪んでいて、呪印の起動が魔物にとってどうしても避けたいものであったことが分かる。その結果体を両断されたのは、幸運だったのか不運だったのか。
その額に刻み込まれていた赤い光は、いつの間にやら姿を消している。死を与える呪印は、死者に興味を示さないということだろう。
「……残酷なこった」
「冷静な判断が出来る状況だったなら、この魔物ももう少し手ごわかったんだろうけどね。生存本能にかられた結果死が近づくだなんて、皮肉な話だよ」
魔物の亡骸へと歩み寄りながら、ツバキはそんな風に評する。その手には、すでに剥ぎ取りのためのナイフが握られていた。
時間制限の事を考えているとあまり戦闘の余韻に浸ってもいられないのだが、そのスムーズな手際を見る限りツバキもそのことは忘れていないようだ。そのナイフ捌きをぼんやりと見つめていると、武装を解除したリリスが少しばかり焦った様子で俺の方に近づいてきた。
「……魔物の体、当たってないわよね?」
「ああ、流石にそこまでのヘマはしねえよ。ま、少し焦る速さではあったけどな」
まるで弾丸のようなそれは、当たっていたらそれなりのダメージにはなっていただろう。それくらいあの魔物は全力で疾走していたわけで、迎撃の一太刀で体を両断されるのにも納得がいくというものだった。
「それなら良かったわ……。守るって言った以上、少しのリスクだってかけるわけにはいかないもの」
「倒し方にまで気を使う必要はないけどな……。だけど、その決意は有難く受け取っておくよ」
そう言いながらリリスの頭に手を置くと、リリスは満足げに目を細める。普段は大人びたリリスが、この時だけ子供っぽくなるのがなんだかおかしかった。
暫く撫でられるままになっていたリリスだったが、十秒くらいするとすっと俺の方に視線を向けてくる。それに気づいて俺が手を離すと、リリスは瞬時に真剣な表情に戻って話を続けた。
「……マルク、一つ気になることがあるのだけど。あの魔物、どこを目指して走ってたのかしらね?」
「どこをって、外じゃねえか? 外に出れば、呪印はいったん消えてまた刻まれるんだからさ」
そのときどんな扱いになるかは分からないが、ここまで何度もダンジョンに出入りしているノアの事を考えるに一度ダンジョンの外に出れば呪印のカウントダウンはリセットされると見ていいだろう。だから、魔物もそれを目指してたんじゃ――
「……村の中に魔物が出たって話、少しも聞かないのに?」
「……あれ、確かにそうだな……?」
俺の中でくみ上げられていた仮説は、リリスの淡々とした問いかけによって全て瓦解する。……呪印のカウントをリセットしてまたダンジョンの中へと戻っていく魔物の姿は、いくら何でも利口過ぎた。
呪印というものは、魔物にとっても死の危険性がある物だ。あれだけの必死さでダンジョンを抜けて死のカウントをリセットした後、もう一度その中へと戻る? ……いやいやいや、あまりに不自然すぎる。
さっき魔物が全速力で駆け抜けていた通り、魔物には生存本能がある。その事と照らし合わせて考えても、一度脱出できたダンジョンの中に戻るのはあまりにもおかしいのだ。このダンジョンを出入りするのなんて、その中を踏破しようとする俺たちでもない限り意味のない事なのだから。
「だから、ダンジョンの外に出ようとしたっていう仮説自体がそもそも怪しい事になるわよね。でもそうすると、あの魔物がどこに向かって走っていたのかって疑問が解決できなくなる。……そこでノア、一つ聞かなければならないことがあるのだけど」
そう言いながらリリスは俺からその隣に立つノアへと視線を映す。いきなり水を向けられて、ノアは少しばかりたじろいだ様子を見せた。
「急に話がこっちに向いてきたね……。いいよ、何が聞きたいの?」
「ありがとう。それじゃあ、これは私の仮説にすぎないのだけど……。ダンジョンの外に出る以外の方法で呪印が起動するまでの時間を延ばす手段が、この場所にはあるんじゃないかしら?」
「……っ‼」
その指摘に息を呑んだのは、ノアではなく俺だ。その一つの仮説がハマるだけで、今まであった疑問はあまりにもすんなりと腑に落ちていた。
あの魔物は、どう考えても何かを目指して走っていた。それが物なのか部屋なのか、それとも生き物なのかは分からないが、それが延命の為であったことに間違いはないと言っていいだろう。
だがしかし、ダンジョンの外に出るという選択肢はさっきまで話した通り魔物の中にあるとは考えづらい。ならば、それ以外の延命方法があると考えるのはとても自然な話だ。
しかも、そう考えるとこのダンジョンの綺麗さにも納得がいく。魔物にも呪印が刻まれ命の制限時間があると考えると、このダンジョンにはもっと魔物の亡骸が散乱していたっておかしくないのだ。
そうじゃないということは、どこかに命を延ばすためのシステムが仕込まれている。どこまでリリスが深く理論立てていたかは分からないが、その仮説は核心をついているように思えた。
「あなたとしても隠しておくつもりはなかったのかもしれないし、責めるつもりはないわ。……ただ、どうしても気になってしまっただけ。あなたは、何か知っているの?」
まっすぐにノアの方を見つめて、リリスは念を押すようにもう一度問いかける。……それが決め手となったのか、ノアは参ったと言わんばかりに手を顔の前でひらひらと横に振った。
「……驚きだよ。後々説明しようとは思ってたけど、まさか自力でたどり着かれちゃうとはね……」
「と言うことは、やっぱり――」
「うん。このダンジョンの中には、術式が起動するまでの時間を延ばせる部屋がある。『セーフルーム』だなんて、私は勝手に呼んでるけどね」
「つまり、魔物はそのセーフルームとやらを目指していたと。そうなれば、全部納得がいくわね」
ノアから提供された情報に、リリスは満足そうな表情を浮かべる。リリスが組み立てた理論は、このダンジョンの隠された要素をまた一つ切り開いていた。
「……そうだ、せっかくだからセーフルームを探すことを当面の目標にしようか。皆相当頭が切れるみたいだし、持ってる情報は先に全部共有しちゃいたいし」
このダンジョンの特異性も分かってもらえたことだしね――と、ノアは笑みを浮かべて俺たちにそう提案する。その表情がいっそ晴れやかなものだったことは、俺に少しばかりの疑問を与えていたが――
「そうだな。落ち着いて話し合いが出来るなら、それに越したことはねえよ」
腰を下ろせる場所にたどり着ければ、諸々の事情も聴きだせるだろう。……そんな希望を抱きながら、俺はノアのプランニングに乗ることを決断した。
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