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それぞれの戦士の運命
最終話 「ステンカ・ラージン」の最期
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凍てついた大地は馬の蹄も歯が立たないほど硬かった。
少し前なら行列の先頭の蹄が踏んだ凍った土は、数千に及ぶ騎馬隊の後尾が通るころには溶けて泥になり馬たちの足元を汚していたかもしれない。
だが今は数千が数百となり、寒さもさらに増していた。隊列の一番後ろが通った後でも、路は硬く凍り付いたまま、激しさを増した雪にただ覆われてゆくばかりだった。
さらに風まで加わり、ヘルマンの一行は吹きすさぶ吹雪の中、馬のたてがみや毛皮の上に徐々に雪を積もらせつつ、ただ黙々と歩みを進めていた。
10メートル先も見え難い猛吹雪。それでも止まるわけには行かなかった。吹雪を避けて身を寄せる窪地もなければ暖を取れる薪もなく空腹を満たせる食もない。止まれば死が待っていた。目的地のトビリーの村に着くまでは、ただひたすらに馬を歩かせるしかないのだ。
最先頭をゆくイーゴリの耳に耳朶を弄る吹雪以外のかすかな音が聞こえた。
彼はサッと右手を上げた。
「止まれ! 」
隊列は前から順に路の上に止まった。
伝令!
周りの者たちの耳にも早馬の蹄の音に加え、風に逆らって叫ぶ声が確かに聞こえた。
「旗を振れ! 」
イーゴリの声に、戦闘集団の一騎が鞍に手挟んだ赤い旗を振った。辺り一面の白の世界では赤い旗はよく目立った。
やがて、行く手の先の方に全速力で向かってくる騎馬姿を認めた。
「伝令っ! 」
「ご苦労だった! 」
馬も乗りても疲れ切って大きく白い息を吐いて来た一騎はイーゴリの前に止まった。
一行の到着と受け入れを命じるため先行させていた伝令が、帰って来たのだ。
「首尾はどうだ?! トビリーの様子は?! 」
「そ、それが・・・」
「なんだ! ハッキリ言え! 」
寒さと疲れと空腹、そして、ヴォルゴグラから帝国軍を追い出すという戦闘目的は達成したにもかかわらず、同志のユージンを喪った喪失感と全軍を覆う言いようのない敗北感とに苛まれていたイーゴリは、可哀そうな伝令に憤懣をぶつけた。
休む間もなく駆けてきたと思われる伝令は、周りの兵から革袋入りの貴重な酒を含まされてやっと人心地つき、再び口を開いた。
「自分がトビリーの村に着いた時、村の入り口に数十ほども馬が繋がれていました。エレバーンやギャンジや、我らに従わず焼き討ちした村々の長が来ていると・・・」
イーゴリは、沈黙した。
そこへ。
隊列の後方から、片腕を布で巻いて釣り、もう片方の腕で手綱を操るヘルマンがやってきた。戦闘集団の面々は、彼らの総司令官のために路を空けた。
ヘルマンは、言った。
「それで。トビリーの村長は何と言ったのか」
疲れ切った伝令は何度も生唾を飲み、そして、言った。
「ト、トビリーの村長が言うには、我らは受け入れたいのだが、他の村の意見も聞いたうえで返事をしたい、と・・・」
真面目で忠誠心のカタマリのような伝令にはとても報告し難い、しかし、事実を報告した。
「やつら、我らの足元を見ているのです! 」
ヘルマンの後ろから付き従っていたセバスチャンが吼えた。
「まあ、そうだろうな」
ヘルマンは言った。
「敵の勢いが弱まれば、腹に溜まった鬱憤をぶちまけたくなるのは人情と言うものだ。彼らにとって、我らは同志ではなく、敵だったということだ。
ご苦労だった! 休めと言いたいところだが、今は急がねばならぬ! 」
そして、吹きすさぶ吹雪の中、後方にも伝わるよう、大声を上げた。
「皆の者! 疲れているだろうが、出発する! トビリーに急ぐぞ! 」
数百の、兵も馬も疲れ切った騎馬隊が、動き出した。
先頭集団が行軍を開始したのを見届けるや、ヘルマンはイーゴリとセバスチャンを張り出した枝に雪の積もった大木の許に呼び寄せた。
「イーゴリ、今から言う俺の言葉を心して聞け!
お前に、俺の最後の策を授ける。
セバスチャン、お前はイーゴリを援け、その策が成就するよう手配りをせよ! 」
北の民族の男は成人すると皆肌を青く染める。
たださえ青く、寒さと連敗続きのいくさで疲労していたイーゴリの顔は、よりいっそう蒼褪めた。
しんしんと降りしきる雪の中、騎馬隊はトビリーの集落に到着した。
だが、集落の門は固く閉ざされ、真っ白に覆われた防柵の中の屋根の連なりも全て白く沈黙し、静まり返り、物音一つしなかった。
だが、閉ざされた門の向こう側に、集落の者たちが息をひそめてこちらの様子を窺っているのはピンと張りつめた空気で知れた。
「トビリーの者たちに騎馬隊が物申す!
門を開けよ! 」
声を励まし、イーゴリは怒鳴った。
やはり、返事はない。
もう一度、呼ばわった。
「今一度命じる! 門を開けよ!
さもなくば、村を焼き討ちする! 」
すると、今度は返事が来た。
「やれるものなら、やってみよ! 帝国軍にやり込められ、兵の大部分を失ったお前たちゴロツキ共など返り討ちにしてくれる! 」
これはトビリーの村長(むらおさ)だ。
ここで怯むわけにはいかない。ここからが、勝負だ!
「そのような戯言! 誰から聞いたのかは知らぬが、我らはヴォルゴグラから帝国軍を追い払った! 帝国軍さえ歯が立たぬ我らに挑戦しようとてか! 片腹痛いわ! 」
「それはウソだ! 」
今度は違う者の声がした。
「帝国軍は自ら去ったのだ! お前らの勝利ではない! お前らは俺たち北の民をいじめる負け犬だ! 」
門の中にいるのは、恐らくは、エレバーンかギャンジ周辺の、騎馬隊に従わず焼き討ちした村の生き残りだろうと見当をつけた。
「我らは食と休息する場所が欲しい。だが、お前たちは去れという。ここで押し問答をしていても埒が明かぬ。となればいくさになる。俺たちも傷つき死ぬだろうが、お前たちも女子供だけではない、一人残らず死ぬだろう。・・・愚かなことだと思わぬか」
「やかましい! 村の大切な糧食と家を奪ったお前ら、特にお前だけは許せん、ヘルマン! 去れ! 二度と来るな! 」
「これは異なことを言う。俺は、ヘルマンではない。イーゴリという! 」
「ヘルマンはどうした! 」
「ここにいる! 顔を見たくば壁の上に顔を出せばよい! 」
すると門の両脇に立っている物見の櫓の上に2、3の男が上がった。
イーゴリの背後の群れから馬に乗せられ後ろ手に縛められた男が一人引き出された。
「見えるか? ヘルマンは、ここにいる! 」
「なぜヘルマンが縄を受けているのだ! 替え玉ではないか? 騙されんぞ! 」
「替え玉などではない! ここに縛められているのは、先の我らのお頭、ヘルマンだ。
彼は、私利私欲を求め、部下たちを無為に殺し、いくさにおいて敵の前から逃げ出した。俺たちの掟に背いたのでお頭の地位から降ろされ、こうして囚われの身となったのだ! 」
ヘルマンの屈辱的な姿を目の当たりにし、明らかに壁の中の者たちは動揺していた。
「どうしても彼を許せんというのなら、どうとでもすればよい。
その代わり、我らに門を開くことだ。そうすれば、お互いに兵や民を失わずに済む!
門を開くのか! それとも、皆殺しに遭いたいか!
答えよ! 」
雪が、止んだ。
交渉は、成立した。
門が開かれ、中から剣や槍で武装した男たちがゾロゾロと出てきた。
同時に騎乗縛られたままのヘルマンが彼らの前に引き出されていった。
向こうの兵たちに引き渡される寸前、ヘルマンが振り向いた。ユージンとセバスチャンに穏やかな笑みをくれた。
その姿を目にしたユージンの眼に、ぶわっ、と涙があふれた。
「アイツらにしてみれば、俺はただ憎いだけの対象だ。俺の首を差し出すと言えば、気も収まろう。そこで手打ちとするのに異論は無いだろう」
ヘルマンは「最後の策」を伝えるにあたり、イーゴリに後を託した。
「今にして思えば、セバスチャンが助言してくれた通りヴォルゴグラの帝国軍など捨て置いてシビル攻略に赴いていればよかったかもしれん。
だが、それではダメなのだ。
ただシビルを、帝国軍を叩けばいいと言うものではないのだ、イーゴリ!
背後に無傷の敵を残したまま進撃すれば、アイツらは必ずや俺たちを侮っていただろう。『帝国軍が怖いから逃げたのだ』と。それでは、いつまでたってもこの北の地に古(いにしえ)のルーシを復活させるなど思いもよらぬ。
イーゴリ。これから俺に代わってお頭となるお前は、帝国軍を駆逐するだけではなく、そのような低い知性しか持たぬ我が北の民をあいてにせねばならんのだ」
「お、俺には出来ねえ!」
イーゴリは、泣いた。
「やるんだ、イーゴリ!
やらねばならん! 誰かがやらねば! 俺たちの、俺たちだけの国を作るためには、誰かが立たねば! 」
ヘルマンはデキの悪い最愛の手下の肩をがっしりと掴んだ。
「ユージン亡き今、後を託せるのはお前しかいないのだ!
お前とセバスチャンとで我が北の国の未来を切り拓くのだ!
いいな?! 」
そして、去り行く「前のお頭」は、「新しいお頭」と熱い抱擁を交わした。
ヘルマンは馬から降ろされ、開かれた門の前の広場に引き据えられた。
そして、一度解かれた縄は新たに両手両足にそれぞれ巻かれ、その先が一頭ずつ4頭の馬に括られた。
これから何が起こるか。ヘルマンがどのような運命を辿るのか。
その場を取り囲んだ人垣の半分であるトビリーやエレバーン、ギャンジの民たちも知っていたし、もう半分であるイーゴリたち騎馬隊の兵も知っていた。
ただ、騎馬隊の全てが知っていた。
ヘルマンは私利私欲とは無縁の男であったこと。皆が苦しい時は共に苦しみを耐えたこと。常に最前線に立ち、最も危険な位置にいたこと。そして、常に最悪を考え、後をセバスチャンやユージンやイーゴリに託し、真っ先に敵陣に向かって行ったこと・・・。
すでに400にまで減っていた精鋭中の精鋭である騎馬隊の生き残りたちは、彼らのお頭の最後を悲痛な面持ちで迎えていた。
「これより、我が北の民の裏切り者、ヘルマンの処刑を行う!
馬、曳けーぃ! 」
恐らくはギャンジの村長であろう掛け声とともに、ヘルマンの手足を括った縄がそれぞれ別な方向に引かれた。
民族に大きな災いをもたらした重罪人に課される、八つ裂きの刑である。
縄がピンと張り、ギリギリと引き絞られた。
馬たちの尻にムチが飛んだ。ロープを曳きあう、体重一トン近い強靭な馬たちが筋肉を強張らせ振るわせる。
白く積もった雪の上に横たえられたヘルマンの身体がぶわっ、宙に浮いた。
右腕と左脚が一直線に、同じく一直線になった左腕と右脚の線がヘルマンの身体の中央でクロスする。相当な激痛であることは傍目にもわかる。
喝采する北の民の歓声。しかし、苦痛を浮かべながらも悲鳴を上げるでもなく、ヘルマンは苦しみに耐えていた。
その地獄絵に、騎馬隊の誰もが拳を握り締めた。せめて、この非情の苦しみからお頭を解放してやりたい! だが、一切の手出し無用はヘルマンの、そしてイーゴリからの厳命だったから耐えていた。
ついに、「帝国のいくさ神」との一戦で折られたヘルマンの左腕が、千切れた。そのロープの先の馬がよろめく様に半歩前にでた。
「・・・ウッ! 」
呻いたのはむしろ、見守る騎馬隊の面々だった。
その時、騎馬隊の中から剣を抜いた影が、飛び出した。
手出し無用を命じた本人、イーゴリだった。
彼は、耐えられなかった。それで、せめてヘルマンの胸を突いて命を絶ってやるべく、駆け出していた。
やっ! 斬り込みか?!
勘違いした北の民たちの動揺に、セバスチャンが叫んだ。
「総員、射撃用意! 」
騎馬隊の全員が矢をつがえ、弓を引き絞った!
セバスチャンだけでなく、全員がわかっていた。
イーゴリは、彼らの新しいお頭は、せめて断末魔の苦しみからヘルマンを救おうとしているのだ、と。
北の民族の二つの勢力の対峙する中、イーゴリはヘルマンの傍に駆け寄り、ジャンプして剣を振りかぶった!
「でゃーああああああああああっ! 」
想像を絶する苦痛を過ぎ、ヘルマンはただぼんやりと低い雪雲を見上げていた。
なぜか、仲間たちと共に野を駆け馬を競った少年のころが思い出された。
「セバスチャン! 俺は、デッカイ夢があるんだ! 」
「なんだ、ヘルマン! 」
「いつの日か、この北の民全てを一つにし、帝国に奪われた土地を取り戻す! どうだ、ユージン! 心が躍るだろう?! 」
「はは、ソイツはいいや! なあ、イーゴリ! 」
「でも、絶対ムリだ・・・」
「ムリなもんか! お前は臆病だな! 」
「ハハハハ・・・」
そう。オレとしたことが、あの「帝国のいくさ神の娘」にこだわったばかりに、仕損じてしまったな。だが、オレの人生の最後の相手に相応しい、素晴らしい技の持ち主だった。あのおどろおどろしい化粧はいただけなかったが、あれを取れば、きっと美人だったに違いないな・・・。
ふっ! 我ながら、埒もないことを・・・。
おや? 誰だ、あれは?
なんだ、ユージンじゃないか!
いつの間にか少年の姿になっていたヘルマンは、同じく少年の姿のユージンが騎馬で駆けてくるのを見た。
ヘルマンもまた愛馬に打ち跨り、古い友達を出迎えた。
「迎えに来た! 行こう、ヘルマン! 」
「おう! じゃあ、あの山のふもとまで競争だ! 」
二騎は仲よく連れ立って走り出し、遠くに見える山を目指して駆けだした。その道は山の頂上まで続いていて、その先が、雲の切れ間、光射す天にまで繋がっているように思われた。
朝未だ来。
まだ暗い緑の山々に美しい鳥たちの声が、今日も響き始めた。
低気圧は過ぎ去った。黎明の空にはまたたく星々が煌めていた。
薄闇の部屋の中に置かれたベッド。白い健康的なふとももを惜しげもなく晒し、しどけない寝姿で深く寝入っていたハンナは、かすかなラッパの音で目覚めた。
寝乱れた亜麻色の長い髪。その下の、好奇心ではち切れそうなエメラルドの瞳を開いた。
ガバッと身を起こす。寝間着をかなぐり捨てる。そして、もう着慣れた帝国軍の冬季軍装を手早く身に着け、厚手のジャケットを羽織った。
しめしめ。
今朝は小うるさい方も、ものわかりのいい方もどっちの母も未だ寝ている。朝寝坊の父は言わずもがな。今日だけは、絶対に行かなくては!
家を飛び出した。
昨夜降った深い新雪を蹴散らしながら部落の門に急いだ。監視小屋では、寝てはいけないはずの寝ずの番のイワンがグースカピーで夢の中だった。
だらしないわねっ!
居汚く寝入っているイワンを尻目に前進基地に急いだ。
「アヴェ・カエサル(親愛なる皇帝陛下)! 上がっていい? 」
「おう! 今朝も元気だな、ハンナ! 」
前進基地の監視兵に挨拶しゲートを開けてもらい、監視哨に急いだ。
今朝も第四夜警時の当番がヘルマンであることは聞いていた。こんな除隊の当日まで夜間勤務させるのか。帝国軍は人使い荒いなあ、と思ったものだ。
櫓のハシゴを登っているうちに、朝日が昇り始めた。
キュークツな櫓のテッペンに着いた。いつもは眠気と戦いながら交代時間を待っているヘルマンが珍しく双眼鏡で北を睨んでいた。
「おはよ、ヘルマン! 」
「おはよう、ハンナ。今朝も早いな!」
ちょっと不精髭が目立つが、眠気など微塵も見せないキリリとした顔でヘルマンは応えた。
彼の首に巻きつき、キスを。
「今日で、最後ね」
「うん。朝飯食ったら小隊長殿と一緒に副連隊長殿の訓示、それが終わったら連隊本部に出頭して携帯武器を返却して除隊手続き・・・、それで終わりだ。明々後日の夕方には帝都に着く」
「うん・・・」
あー、お熱いとこ悪いんだけど、お二人さん!
ヘルマンが首を出して下を見下ろした。
「またアンテナのチョーシ悪いらしいんだ」
ひとりの兵が兵舎を指さしてこっちを見上げていた。
「またかよ! 」
片脚を上げたヘルマンが監視哨の真ん中から上に生えている鉄の棒を思いっきり蹴っ飛ばした。
がいいいいんっ! 鉄製のアンテナが、震えた。
「お、直ったらしいぞ。ありがとよ、ヘルマン! ジャマして悪かったな。でも、そろそろ交替だぞ! 」
ヘルマンは下に向かって笑いながら大きく手を振って応えた。
前進基地は今日もいつも通りに時が来て、一日が始まろうとしていた。ただ、ヘルマンを除いては。
「で、考えはまとまった? 」
「うん!」
落ち着いた微笑を湛え、ハンナは答えた。
ヘルマンはジャケットの内ポケットから紙きれを取り出し、ハンナに示した。
「これ、オレの実家の住所。チュリオの丘のふもとでさ、さしてデカくもないけど親が靴屋を開いてる。気が向いたら来なよ。それか、バカロレアに来てくれてもいい。北駅で辻馬車を拾ってさ・・・」
「ね、あのね、ヘルマン。あたしね・・・」
「・・・ん? 」
「あたし、行かない。ヤヨイ少尉さまにも誘われたんだけどね、見学だけでもいいわよ、って。でも、ここに残ることにしたわ」
ヘルマンは意外そうな顔を上げた。
「だって、お父さんやお母さんたちが心配になっちゃうし、それに・・・」
「それに? 」
「それに、あたしは帝国語が話せて銃も使えるから、これからもっと村や帝国軍に必要にされると思うの」
が~ん・・・。
ヘルマンは除隊する。偵察兵として徴兵を終わり野戦部隊の3倍は稼いだ。が、大学に戻れば兵役での経験はあまり役立たない。そこからは、今までとは違う学問の分野で独り立ちせねばならない。
それに比べれば、ハンナは「マルスの娘」との作戦に参加して、前よりもずっと逞しく、それでいて魅力的になって未来を語っていた。ちょっと前まではハンナの帝国願望を「打算」と揶揄したのに、今や自分を信じ、それを足掛かりにして未来を夢見ているのはハンナのほうだった。
要は、急に5歳も年下のハンナが眩しくなってしまったのだった。
2人だけの甘い、最後の時間が監視哨の下からの大声に途切れた。
「おおい! デートは終わったか? さすがに3人も登ると狭いものでな! 」
第38連隊の副連隊長、ポンテ中佐が見上げていた。
「じゃあね、ヘルマン! 楽しかったわ! 帝国に帰っても、頑張ってね! 」
サッとキスを残し、ハンナはハシゴを降りて行った。
「え? 」
それだけ?
あんなに、自分と結婚まで考えていた娘(こ)が、たった、そんだけ?・・・。
監視哨から降りたハンナは、気のいいオヤジ風の前進基地のボス、ポンテ中佐に敬礼した。正式なヤツを。
「おはようございます、副連隊長殿! 」
「おはよう、ハンナ! 今日もいい天気だな! 」
ポンテ中佐は笑った。
「副連隊長殿こそ、毎朝大変ですね! 」
「いやなに! 最前線にいるのが気持ちいいものでな! 朝ここに登らんと一日が始まらんのだ! カレシとのデートは済んだか?」
「今日でカレシは終わりです! シビルの敵に備えて訓練しないと、です! 」
おお!
いっぱしの成年した男ではない。中佐はまだ17歳の小娘の、殊勝な意外すぎる返答に目を瞠(みは)った。
「そうか! それではまたお前の母御たちからイヤミを言われそうだな。花嫁修業そっちのけで戦争なんかに夢中になって、と」
「しかたないですわ、副連隊長殿! 『軍神マルスの娘』にエイキョウ? されちゃったもんですから! 」
まだ幼いが元気な敬礼を残し、シビルの里の娘は前進基地を後にした。
その頼もしい大きな後ろ姿を見送って、ポンテ中佐もまた監視哨に登った。
さあ、今日もまた、北の一日が始まる!
後任の前進基地司令が赴任するまで、彼の朝の日課、帝国の北辺の監視は続くのであった。
了
少し前なら行列の先頭の蹄が踏んだ凍った土は、数千に及ぶ騎馬隊の後尾が通るころには溶けて泥になり馬たちの足元を汚していたかもしれない。
だが今は数千が数百となり、寒さもさらに増していた。隊列の一番後ろが通った後でも、路は硬く凍り付いたまま、激しさを増した雪にただ覆われてゆくばかりだった。
さらに風まで加わり、ヘルマンの一行は吹きすさぶ吹雪の中、馬のたてがみや毛皮の上に徐々に雪を積もらせつつ、ただ黙々と歩みを進めていた。
10メートル先も見え難い猛吹雪。それでも止まるわけには行かなかった。吹雪を避けて身を寄せる窪地もなければ暖を取れる薪もなく空腹を満たせる食もない。止まれば死が待っていた。目的地のトビリーの村に着くまでは、ただひたすらに馬を歩かせるしかないのだ。
最先頭をゆくイーゴリの耳に耳朶を弄る吹雪以外のかすかな音が聞こえた。
彼はサッと右手を上げた。
「止まれ! 」
隊列は前から順に路の上に止まった。
伝令!
周りの者たちの耳にも早馬の蹄の音に加え、風に逆らって叫ぶ声が確かに聞こえた。
「旗を振れ! 」
イーゴリの声に、戦闘集団の一騎が鞍に手挟んだ赤い旗を振った。辺り一面の白の世界では赤い旗はよく目立った。
やがて、行く手の先の方に全速力で向かってくる騎馬姿を認めた。
「伝令っ! 」
「ご苦労だった! 」
馬も乗りても疲れ切って大きく白い息を吐いて来た一騎はイーゴリの前に止まった。
一行の到着と受け入れを命じるため先行させていた伝令が、帰って来たのだ。
「首尾はどうだ?! トビリーの様子は?! 」
「そ、それが・・・」
「なんだ! ハッキリ言え! 」
寒さと疲れと空腹、そして、ヴォルゴグラから帝国軍を追い出すという戦闘目的は達成したにもかかわらず、同志のユージンを喪った喪失感と全軍を覆う言いようのない敗北感とに苛まれていたイーゴリは、可哀そうな伝令に憤懣をぶつけた。
休む間もなく駆けてきたと思われる伝令は、周りの兵から革袋入りの貴重な酒を含まされてやっと人心地つき、再び口を開いた。
「自分がトビリーの村に着いた時、村の入り口に数十ほども馬が繋がれていました。エレバーンやギャンジや、我らに従わず焼き討ちした村々の長が来ていると・・・」
イーゴリは、沈黙した。
そこへ。
隊列の後方から、片腕を布で巻いて釣り、もう片方の腕で手綱を操るヘルマンがやってきた。戦闘集団の面々は、彼らの総司令官のために路を空けた。
ヘルマンは、言った。
「それで。トビリーの村長は何と言ったのか」
疲れ切った伝令は何度も生唾を飲み、そして、言った。
「ト、トビリーの村長が言うには、我らは受け入れたいのだが、他の村の意見も聞いたうえで返事をしたい、と・・・」
真面目で忠誠心のカタマリのような伝令にはとても報告し難い、しかし、事実を報告した。
「やつら、我らの足元を見ているのです! 」
ヘルマンの後ろから付き従っていたセバスチャンが吼えた。
「まあ、そうだろうな」
ヘルマンは言った。
「敵の勢いが弱まれば、腹に溜まった鬱憤をぶちまけたくなるのは人情と言うものだ。彼らにとって、我らは同志ではなく、敵だったということだ。
ご苦労だった! 休めと言いたいところだが、今は急がねばならぬ! 」
そして、吹きすさぶ吹雪の中、後方にも伝わるよう、大声を上げた。
「皆の者! 疲れているだろうが、出発する! トビリーに急ぐぞ! 」
数百の、兵も馬も疲れ切った騎馬隊が、動き出した。
先頭集団が行軍を開始したのを見届けるや、ヘルマンはイーゴリとセバスチャンを張り出した枝に雪の積もった大木の許に呼び寄せた。
「イーゴリ、今から言う俺の言葉を心して聞け!
お前に、俺の最後の策を授ける。
セバスチャン、お前はイーゴリを援け、その策が成就するよう手配りをせよ! 」
北の民族の男は成人すると皆肌を青く染める。
たださえ青く、寒さと連敗続きのいくさで疲労していたイーゴリの顔は、よりいっそう蒼褪めた。
しんしんと降りしきる雪の中、騎馬隊はトビリーの集落に到着した。
だが、集落の門は固く閉ざされ、真っ白に覆われた防柵の中の屋根の連なりも全て白く沈黙し、静まり返り、物音一つしなかった。
だが、閉ざされた門の向こう側に、集落の者たちが息をひそめてこちらの様子を窺っているのはピンと張りつめた空気で知れた。
「トビリーの者たちに騎馬隊が物申す!
門を開けよ! 」
声を励まし、イーゴリは怒鳴った。
やはり、返事はない。
もう一度、呼ばわった。
「今一度命じる! 門を開けよ!
さもなくば、村を焼き討ちする! 」
すると、今度は返事が来た。
「やれるものなら、やってみよ! 帝国軍にやり込められ、兵の大部分を失ったお前たちゴロツキ共など返り討ちにしてくれる! 」
これはトビリーの村長(むらおさ)だ。
ここで怯むわけにはいかない。ここからが、勝負だ!
「そのような戯言! 誰から聞いたのかは知らぬが、我らはヴォルゴグラから帝国軍を追い払った! 帝国軍さえ歯が立たぬ我らに挑戦しようとてか! 片腹痛いわ! 」
「それはウソだ! 」
今度は違う者の声がした。
「帝国軍は自ら去ったのだ! お前らの勝利ではない! お前らは俺たち北の民をいじめる負け犬だ! 」
門の中にいるのは、恐らくは、エレバーンかギャンジ周辺の、騎馬隊に従わず焼き討ちした村の生き残りだろうと見当をつけた。
「我らは食と休息する場所が欲しい。だが、お前たちは去れという。ここで押し問答をしていても埒が明かぬ。となればいくさになる。俺たちも傷つき死ぬだろうが、お前たちも女子供だけではない、一人残らず死ぬだろう。・・・愚かなことだと思わぬか」
「やかましい! 村の大切な糧食と家を奪ったお前ら、特にお前だけは許せん、ヘルマン! 去れ! 二度と来るな! 」
「これは異なことを言う。俺は、ヘルマンではない。イーゴリという! 」
「ヘルマンはどうした! 」
「ここにいる! 顔を見たくば壁の上に顔を出せばよい! 」
すると門の両脇に立っている物見の櫓の上に2、3の男が上がった。
イーゴリの背後の群れから馬に乗せられ後ろ手に縛められた男が一人引き出された。
「見えるか? ヘルマンは、ここにいる! 」
「なぜヘルマンが縄を受けているのだ! 替え玉ではないか? 騙されんぞ! 」
「替え玉などではない! ここに縛められているのは、先の我らのお頭、ヘルマンだ。
彼は、私利私欲を求め、部下たちを無為に殺し、いくさにおいて敵の前から逃げ出した。俺たちの掟に背いたのでお頭の地位から降ろされ、こうして囚われの身となったのだ! 」
ヘルマンの屈辱的な姿を目の当たりにし、明らかに壁の中の者たちは動揺していた。
「どうしても彼を許せんというのなら、どうとでもすればよい。
その代わり、我らに門を開くことだ。そうすれば、お互いに兵や民を失わずに済む!
門を開くのか! それとも、皆殺しに遭いたいか!
答えよ! 」
雪が、止んだ。
交渉は、成立した。
門が開かれ、中から剣や槍で武装した男たちがゾロゾロと出てきた。
同時に騎乗縛られたままのヘルマンが彼らの前に引き出されていった。
向こうの兵たちに引き渡される寸前、ヘルマンが振り向いた。ユージンとセバスチャンに穏やかな笑みをくれた。
その姿を目にしたユージンの眼に、ぶわっ、と涙があふれた。
「アイツらにしてみれば、俺はただ憎いだけの対象だ。俺の首を差し出すと言えば、気も収まろう。そこで手打ちとするのに異論は無いだろう」
ヘルマンは「最後の策」を伝えるにあたり、イーゴリに後を託した。
「今にして思えば、セバスチャンが助言してくれた通りヴォルゴグラの帝国軍など捨て置いてシビル攻略に赴いていればよかったかもしれん。
だが、それではダメなのだ。
ただシビルを、帝国軍を叩けばいいと言うものではないのだ、イーゴリ!
背後に無傷の敵を残したまま進撃すれば、アイツらは必ずや俺たちを侮っていただろう。『帝国軍が怖いから逃げたのだ』と。それでは、いつまでたってもこの北の地に古(いにしえ)のルーシを復活させるなど思いもよらぬ。
イーゴリ。これから俺に代わってお頭となるお前は、帝国軍を駆逐するだけではなく、そのような低い知性しか持たぬ我が北の民をあいてにせねばならんのだ」
「お、俺には出来ねえ!」
イーゴリは、泣いた。
「やるんだ、イーゴリ!
やらねばならん! 誰かがやらねば! 俺たちの、俺たちだけの国を作るためには、誰かが立たねば! 」
ヘルマンはデキの悪い最愛の手下の肩をがっしりと掴んだ。
「ユージン亡き今、後を託せるのはお前しかいないのだ!
お前とセバスチャンとで我が北の国の未来を切り拓くのだ!
いいな?! 」
そして、去り行く「前のお頭」は、「新しいお頭」と熱い抱擁を交わした。
ヘルマンは馬から降ろされ、開かれた門の前の広場に引き据えられた。
そして、一度解かれた縄は新たに両手両足にそれぞれ巻かれ、その先が一頭ずつ4頭の馬に括られた。
これから何が起こるか。ヘルマンがどのような運命を辿るのか。
その場を取り囲んだ人垣の半分であるトビリーやエレバーン、ギャンジの民たちも知っていたし、もう半分であるイーゴリたち騎馬隊の兵も知っていた。
ただ、騎馬隊の全てが知っていた。
ヘルマンは私利私欲とは無縁の男であったこと。皆が苦しい時は共に苦しみを耐えたこと。常に最前線に立ち、最も危険な位置にいたこと。そして、常に最悪を考え、後をセバスチャンやユージンやイーゴリに託し、真っ先に敵陣に向かって行ったこと・・・。
すでに400にまで減っていた精鋭中の精鋭である騎馬隊の生き残りたちは、彼らのお頭の最後を悲痛な面持ちで迎えていた。
「これより、我が北の民の裏切り者、ヘルマンの処刑を行う!
馬、曳けーぃ! 」
恐らくはギャンジの村長であろう掛け声とともに、ヘルマンの手足を括った縄がそれぞれ別な方向に引かれた。
民族に大きな災いをもたらした重罪人に課される、八つ裂きの刑である。
縄がピンと張り、ギリギリと引き絞られた。
馬たちの尻にムチが飛んだ。ロープを曳きあう、体重一トン近い強靭な馬たちが筋肉を強張らせ振るわせる。
白く積もった雪の上に横たえられたヘルマンの身体がぶわっ、宙に浮いた。
右腕と左脚が一直線に、同じく一直線になった左腕と右脚の線がヘルマンの身体の中央でクロスする。相当な激痛であることは傍目にもわかる。
喝采する北の民の歓声。しかし、苦痛を浮かべながらも悲鳴を上げるでもなく、ヘルマンは苦しみに耐えていた。
その地獄絵に、騎馬隊の誰もが拳を握り締めた。せめて、この非情の苦しみからお頭を解放してやりたい! だが、一切の手出し無用はヘルマンの、そしてイーゴリからの厳命だったから耐えていた。
ついに、「帝国のいくさ神」との一戦で折られたヘルマンの左腕が、千切れた。そのロープの先の馬がよろめく様に半歩前にでた。
「・・・ウッ! 」
呻いたのはむしろ、見守る騎馬隊の面々だった。
その時、騎馬隊の中から剣を抜いた影が、飛び出した。
手出し無用を命じた本人、イーゴリだった。
彼は、耐えられなかった。それで、せめてヘルマンの胸を突いて命を絶ってやるべく、駆け出していた。
やっ! 斬り込みか?!
勘違いした北の民たちの動揺に、セバスチャンが叫んだ。
「総員、射撃用意! 」
騎馬隊の全員が矢をつがえ、弓を引き絞った!
セバスチャンだけでなく、全員がわかっていた。
イーゴリは、彼らの新しいお頭は、せめて断末魔の苦しみからヘルマンを救おうとしているのだ、と。
北の民族の二つの勢力の対峙する中、イーゴリはヘルマンの傍に駆け寄り、ジャンプして剣を振りかぶった!
「でゃーああああああああああっ! 」
想像を絶する苦痛を過ぎ、ヘルマンはただぼんやりと低い雪雲を見上げていた。
なぜか、仲間たちと共に野を駆け馬を競った少年のころが思い出された。
「セバスチャン! 俺は、デッカイ夢があるんだ! 」
「なんだ、ヘルマン! 」
「いつの日か、この北の民全てを一つにし、帝国に奪われた土地を取り戻す! どうだ、ユージン! 心が躍るだろう?! 」
「はは、ソイツはいいや! なあ、イーゴリ! 」
「でも、絶対ムリだ・・・」
「ムリなもんか! お前は臆病だな! 」
「ハハハハ・・・」
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ふっ! 我ながら、埒もないことを・・・。
おや? 誰だ、あれは?
なんだ、ユージンじゃないか!
いつの間にか少年の姿になっていたヘルマンは、同じく少年の姿のユージンが騎馬で駆けてくるのを見た。
ヘルマンもまた愛馬に打ち跨り、古い友達を出迎えた。
「迎えに来た! 行こう、ヘルマン! 」
「おう! じゃあ、あの山のふもとまで競争だ! 」
二騎は仲よく連れ立って走り出し、遠くに見える山を目指して駆けだした。その道は山の頂上まで続いていて、その先が、雲の切れ間、光射す天にまで繋がっているように思われた。
朝未だ来。
まだ暗い緑の山々に美しい鳥たちの声が、今日も響き始めた。
低気圧は過ぎ去った。黎明の空にはまたたく星々が煌めていた。
薄闇の部屋の中に置かれたベッド。白い健康的なふとももを惜しげもなく晒し、しどけない寝姿で深く寝入っていたハンナは、かすかなラッパの音で目覚めた。
寝乱れた亜麻色の長い髪。その下の、好奇心ではち切れそうなエメラルドの瞳を開いた。
ガバッと身を起こす。寝間着をかなぐり捨てる。そして、もう着慣れた帝国軍の冬季軍装を手早く身に着け、厚手のジャケットを羽織った。
しめしめ。
今朝は小うるさい方も、ものわかりのいい方もどっちの母も未だ寝ている。朝寝坊の父は言わずもがな。今日だけは、絶対に行かなくては!
家を飛び出した。
昨夜降った深い新雪を蹴散らしながら部落の門に急いだ。監視小屋では、寝てはいけないはずの寝ずの番のイワンがグースカピーで夢の中だった。
だらしないわねっ!
居汚く寝入っているイワンを尻目に前進基地に急いだ。
「アヴェ・カエサル(親愛なる皇帝陛下)! 上がっていい? 」
「おう! 今朝も元気だな、ハンナ! 」
前進基地の監視兵に挨拶しゲートを開けてもらい、監視哨に急いだ。
今朝も第四夜警時の当番がヘルマンであることは聞いていた。こんな除隊の当日まで夜間勤務させるのか。帝国軍は人使い荒いなあ、と思ったものだ。
櫓のハシゴを登っているうちに、朝日が昇り始めた。
キュークツな櫓のテッペンに着いた。いつもは眠気と戦いながら交代時間を待っているヘルマンが珍しく双眼鏡で北を睨んでいた。
「おはよ、ヘルマン! 」
「おはよう、ハンナ。今朝も早いな!」
ちょっと不精髭が目立つが、眠気など微塵も見せないキリリとした顔でヘルマンは応えた。
彼の首に巻きつき、キスを。
「今日で、最後ね」
「うん。朝飯食ったら小隊長殿と一緒に副連隊長殿の訓示、それが終わったら連隊本部に出頭して携帯武器を返却して除隊手続き・・・、それで終わりだ。明々後日の夕方には帝都に着く」
「うん・・・」
あー、お熱いとこ悪いんだけど、お二人さん!
ヘルマンが首を出して下を見下ろした。
「またアンテナのチョーシ悪いらしいんだ」
ひとりの兵が兵舎を指さしてこっちを見上げていた。
「またかよ! 」
片脚を上げたヘルマンが監視哨の真ん中から上に生えている鉄の棒を思いっきり蹴っ飛ばした。
がいいいいんっ! 鉄製のアンテナが、震えた。
「お、直ったらしいぞ。ありがとよ、ヘルマン! ジャマして悪かったな。でも、そろそろ交替だぞ! 」
ヘルマンは下に向かって笑いながら大きく手を振って応えた。
前進基地は今日もいつも通りに時が来て、一日が始まろうとしていた。ただ、ヘルマンを除いては。
「で、考えはまとまった? 」
「うん!」
落ち着いた微笑を湛え、ハンナは答えた。
ヘルマンはジャケットの内ポケットから紙きれを取り出し、ハンナに示した。
「これ、オレの実家の住所。チュリオの丘のふもとでさ、さしてデカくもないけど親が靴屋を開いてる。気が向いたら来なよ。それか、バカロレアに来てくれてもいい。北駅で辻馬車を拾ってさ・・・」
「ね、あのね、ヘルマン。あたしね・・・」
「・・・ん? 」
「あたし、行かない。ヤヨイ少尉さまにも誘われたんだけどね、見学だけでもいいわよ、って。でも、ここに残ることにしたわ」
ヘルマンは意外そうな顔を上げた。
「だって、お父さんやお母さんたちが心配になっちゃうし、それに・・・」
「それに? 」
「それに、あたしは帝国語が話せて銃も使えるから、これからもっと村や帝国軍に必要にされると思うの」
が~ん・・・。
ヘルマンは除隊する。偵察兵として徴兵を終わり野戦部隊の3倍は稼いだ。が、大学に戻れば兵役での経験はあまり役立たない。そこからは、今までとは違う学問の分野で独り立ちせねばならない。
それに比べれば、ハンナは「マルスの娘」との作戦に参加して、前よりもずっと逞しく、それでいて魅力的になって未来を語っていた。ちょっと前まではハンナの帝国願望を「打算」と揶揄したのに、今や自分を信じ、それを足掛かりにして未来を夢見ているのはハンナのほうだった。
要は、急に5歳も年下のハンナが眩しくなってしまったのだった。
2人だけの甘い、最後の時間が監視哨の下からの大声に途切れた。
「おおい! デートは終わったか? さすがに3人も登ると狭いものでな! 」
第38連隊の副連隊長、ポンテ中佐が見上げていた。
「じゃあね、ヘルマン! 楽しかったわ! 帝国に帰っても、頑張ってね! 」
サッとキスを残し、ハンナはハシゴを降りて行った。
「え? 」
それだけ?
あんなに、自分と結婚まで考えていた娘(こ)が、たった、そんだけ?・・・。
監視哨から降りたハンナは、気のいいオヤジ風の前進基地のボス、ポンテ中佐に敬礼した。正式なヤツを。
「おはようございます、副連隊長殿! 」
「おはよう、ハンナ! 今日もいい天気だな! 」
ポンテ中佐は笑った。
「副連隊長殿こそ、毎朝大変ですね! 」
「いやなに! 最前線にいるのが気持ちいいものでな! 朝ここに登らんと一日が始まらんのだ! カレシとのデートは済んだか?」
「今日でカレシは終わりです! シビルの敵に備えて訓練しないと、です! 」
おお!
いっぱしの成年した男ではない。中佐はまだ17歳の小娘の、殊勝な意外すぎる返答に目を瞠(みは)った。
「そうか! それではまたお前の母御たちからイヤミを言われそうだな。花嫁修業そっちのけで戦争なんかに夢中になって、と」
「しかたないですわ、副連隊長殿! 『軍神マルスの娘』にエイキョウ? されちゃったもんですから! 」
まだ幼いが元気な敬礼を残し、シビルの里の娘は前進基地を後にした。
その頼もしい大きな後ろ姿を見送って、ポンテ中佐もまた監視哨に登った。
さあ、今日もまた、北の一日が始まる!
後任の前進基地司令が赴任するまで、彼の朝の日課、帝国の北辺の監視は続くのであった。
了
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