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第117話 ウイニング・アグリー

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 幸いなことに、聖の右脹脛で起こった筋痙攣はすぐに収まってくれた。テニス選手は試合中に怪我をした場合、治療を行うためのメディカルタイムアウトを取る権利が与えられている。だが、それはあくまで怪我にのみ適用され、筋痙攣はその対象外だ。筋痙攣は基本的に、スタミナや水分不足などによって引き起こる現象の為、怪我の扱いにならない。「走らされて呼吸が乱れたから、治療時間を下さい」そう言っているのと同じで、治療は認められないのだ。

 過去、日本のとある選手が試合中に足を痙攣させたが、ルールの適用外だった為に治療時間を与えられなかった。しかし、選手のあまりに悲痛なその様子を目の当たりにした多くの者たちから批判が集まり、ルール改正が行われた。テニスの歴史において、一次的にではあるが筋痙攣でもメディカルタイムアウトが取れた時期があったのだ。そのルール変更は、当事者であった選手の名前を取り、『シューゾー・マツオカ・ルール』と呼ばれたが、このルールを悪用して不必要に休息を取る選手が出始めたことで、結局は再び廃止されることとなった。

<あっぶねェとこだったなァ? 危うくリタイアじゃねェか>
(いや、正直まだ結構コワイ)

 靴紐を結び直すフリをして、聖は一旦間を取る。
 脹脛の具合を確かめると、一応問題は無さそうだ。

(一瞬ピクっときただけか。でも限界が近いことに変わりはない)
 つま先をコートで軽く叩き、足とシューズの一体感を高める。動作に影響はないが、いつまた痙攣が起こるか分からない。痙攣によるプレースメントの低下ももちろん問題だが、庇おうとして別の個所に負担がかかったり、痙攣箇所が筋断裂などの怪我に繋がる恐れもある。練習なら一旦止めてマッサージするなりケアに徹するところだが、今は試合中、それも決勝戦だ。

(できれば、もう少しカウントが進んでからが良かったけど)
 最初のセットを先行されてしまった聖は、迎えた2ndセットはもちろん、もう一つセットを奪わなければならない。自らの意志でリザスを使う場合に発生する代償は、能力の使用時間に比例して増大する。それゆえリザスの使用は、できれば最低でも2ndセット中盤以降、理想は自力で2ndセットを取ってからが望ましい。しかし、右足の脹脛に爆弾を抱えてしまった今、悠長なことは言っていられない。判断を間違えるわけにはいかなかった。

(負けられないのは、僕も渡久地さんも同じ)
 ネットの向こう側にいる渡久地へ、聖は視線を向ける。

(僕がリザスを使うことで、恐らく相手の潜在的な実力が開花する)
 初めて能力を使用したときに立てた仮説。未来の可能性の撹拌の意味。未だその根拠となるような、確かな事象は確認できていない。しかしその仮説が、生真面目な性格の聖に能力の使用を踏み切らせる、もっとも都合の良い言い訳になっていた。

(すみません、渡久地さん。でも、ここは譲れないんです)
 渡久地が確かな才能を持ちながらも、怪我によって憂き目に遭い、未だ世界ランキング100位の壁を破れないのは知っている。安定的にツアーを巡るには、今大会の賞金は渡久地にとって欠かせないものだろう。しかし、それでも。

(マクトゥーブ)

 聖は勝利のために、自分の切り札を切った。

           ★

 港区赤坂の一等地に、金俣豪毅かねまたごうきが所有するマンションはあった。壁も床も大理石で出来たエントランスは、真冬の夜の寒さで酷く冷え切っている。インターホンを前に桐生早苗がぞくりと悪寒を覚えたのは、ボタンを押せぬまま短くない時間躊躇って身体が凍えたからではないだろう。いつまでもこうしてはいられないと自分に言い聞かせ、彼女は最上階のボタンを押した。二度ほどコール音がしたあと、部屋と繋がる。カメラのレンズ越しに、舐めるような視線を想像して早苗は目を逸らす。すると、何の応答もないままオートロックが解除され、ガラスのドアが開いた。

 エレベーターで最上階へ行き、部屋の前のインターホンを鳴らす。だがやはり反応はなく、試しにドアノブに手をかけてみると、あっさりと開いた。早苗はなんだか、誘い込まれているような気がして居心地が悪い。虎穴に入らずんば、というが、中にいるのは決して虎子ではないことを早苗は知っている。できれば今すぐ帰りたいと思う一方、ここで帰っても状況はなに一つとして変わらない。愛する者を守るには、彼女が危険を冒す以外に方法が無かった。少なくとも、今の早苗に思いつく方法はそれしかなかった。

「どうした、こんな時間に」
 リビングに入ると、キッチンカウンターの方から金俣の声が聞こえた。視線を向けると、禍々しいほどに隆起した筋肉が目に入る。直前までトレーニングをしていたのだろう、全身の筋肉が筋肉膨張パンプアップし、皮膚の内側を走る血管が蛇のように浮き上がっている。それを目にすると、嫌でも菊臣の身体と比較してしまう。菊臣が死に物狂いの鍛錬の末に手に入れ、維持している身体と、ありとあらゆる手段・・・・・・・・・で構築された、獰猛な印象を受ける金俣の肉体。プロテインを飲み上下する喉ぼとけさえ、どこか恐ろし気に見える。もしかすると、金俣は不要なものと同時に、人として大切にすべき何かまで削ぎ落しているのかもしれない。その凶悪さと無慈悲さがもし自分に向けられたらと想像すると、早苗は恐怖で足が竦みそうだった。

「突っ立ってないで座ったらどうだ」
 顎でしゃくり、ソファに座るよう促される。金俣との距離は充分離れているが、早苗はどうしても警戒心を解くことができない。せめて怯えているのを悟られまいと、慌てないようにしながら座った。

「で、こんな時間に何の用だ」
「服を着てくれませんか」
 タオルを首から下げたまま、金俣は早苗の対面に座る。

「ここはオレの部屋だ。勝手に来たオマエがオレに指図するのか」
 静かに威圧する金俣。普通に考えれば、非常識なのは金俣の方だ。しかしなぜだか、彼の態度と言葉に説得力を覚えてしまう。早苗のなかにあるか細い理性が揺らぐ。弱みを握っているのは自分の方なのに、なぜこうも強く出られてしまうのか。そういえば昔から、自分の方が正しいと断言できる場面でも、大声を出されると自分が折れてしまうようなことが度々あった。ふとそんなことを思い出すと同時に、現実逃避している自分に気付く。なけなしの勇気を振り絞り、早苗は用件を口にする。

「き、菊臣に、八百長の手伝いをさせてるって……どうして」
「あぁ、あいつが自分から手伝わせてくれってな」
「そんなの嘘、だって……っ!」
「オマエ、あいつと付き合って長いのに、本当にアイツを理解してないな」
 反論を続けたかった早苗は、その指摘にどきりとする。

「知ってるだろ? アイツの亡くなったオヤジさんは元デ杯の選手だった。お袋さんも元テニス選手で、言うなればアイツは才能に恵まれたテニスエリートだ。ガキの頃から将来を嘱望されて育ち、これまで努力を積み重ねてきた。それを無駄にしないために、そして何よりサナ、オマエのために絶対に結果を出すと、覚悟を決めてるんだ」
「私の、ため?」
「アイツ、オマエが抱えてる借金のこと知ってるぞ」
「えっ」
 後頭部を殴られたような衝撃が、早苗を襲う。
 なぜ、菊臣がそのことを知っているのか。

「確かにアイツが最初オレを頼ったのは、自分のタメだった。長引く怪我と不調から脱却したくて、もっとも効率の良い手段を模索した結果だったんだろう。オマエは信じないだろうが、オレは初め断ったんだぜ? だがお袋さんが病気で倒れて、どうしても生きてるうちに大きな成果を出したいんだって言い張ってな。クスリを使ったのはそれが最初だ。しかし、それ以降もアイツは金が必要になった。そこそこ結果が出始めて、賞金とスポンサー料が入るようになったはずなのに変だと思ってな、聞いたんだ。そしたら、オマエの両親が作ってオマエが抱えるハメになった借金のことを教えてくれた。だから、ヤツはこれまで以上に金が必要になった」

 金俣の言葉に愕然とする早苗。
 感情と思考が掻き乱され、知らずに呼吸が浅くなり、目の前が明滅する。

「オマエの目には、アイツが勝ちに目が眩んで、不正に手を染めた様に見えたのか? それとも、オレに脅されて仕方なく? まぁ、どちらも多少はそういう要素が無いとは言い切れないがな。ただ、アイツが今自分の人生を賭けて挑んでいるのは、他ならぬオマエのためだとオレは思うぞ。もちろん、自分の夢見たキャリアを成し遂げたいとも思ってるだろう。いずれにせよ、アイツはオマエが思ってるよりも、遥かに強い覚悟を胸に抱いて戦っている」

 金俣に言われて初めて、早苗は自分が心のどこかで菊臣を見下していたことに気付く。早苗の大学の先輩だった菊臣。学部が違い、接点といえばテニスだけだった。最初に会った時の印象は、いわゆるチャラくて女遊びが激しそうなタイプに思えた。事実、付き合うようになってからも、彼は何度か浮気をしたことがある。その度に大喧嘩して別れ、時間をおいては元鞘に収まるのを繰り返した。テニスは上手いけどそれ以外はちょっとダメな人、でも何故だか憎めなくて放っておけない人。早苗にとって菊臣はそんな男だった。だが、人付き合いが苦手だった早苗には、初めて付き合う異性だった菊臣が忘れられなかった。自分が都合の良い女扱いされているかもしれないと思うこともあるが、いつかきっと、自分だけを愛してくれると信じていたし、今もそう思っている。

「それだというのに、オマエはなんだ?」
 話の矛先が急に自分へ向けられ、早苗は顔をあげる。

「恋人が死に物狂いで、人生を賭けて戦ってるっていうのに、支えるどころか重荷になってるだけじゃねぇか。不正に手を染めたことを知りながら、咎めることもなければ積極的に守ろうともしない。ただただ、アイツに嫌われたくないっていう自己保身のために行動してるだけだ。しかも時々、思い出したように正論を口にしてアイツを追い詰める。なんだそりゃ? オマエみたいなやつがどのツラ下げて渡久地の恋人を名乗るんだ? 良心が痛むってか? ならさっさと全てブチまけりゃいいだろう。オレのことも渡久地のことも、全部世間に公表して不正を正してみろよ。それでも世界アンチドーピング機構の職員か? 仕事にプライドも持てない、恋人に対して誠実でもいられない、惨めで矮小で卑怯なオマエは、渡久地の傍にいる資格があるか? 教えてくれよ、なぁ? オマエはなんで、アイツの隣にいるんだ」

 捲し立てられる強い言葉が、早苗の理性を容赦なく押しつぶす。罪悪感と情けなさが同時に込み上げて混ざりあう。やがて、自分のなかの内なる声までもが、早苗自身を糾弾し始める。彼に夢を叶えて欲しいという自分の想いに、自信が持てなくなる。私は結局、自分が愛されたいがために、可哀想な人間を装っていただけなのだろうか? 自責、疑惑、焦燥、自己嫌悪。あらゆる感情が早苗のなかで渦巻き、混ざり、しかしカタチにならない。このままでは自分自身さえその渦に飲み込まれて溺れそうだった。

「オマエが本当にアイツの役に立ちたいなら、方法はあるぞ」

 よせ、罠だ。早苗の中の小さな理性が叫ぶ
 だが、感情の濁流はあっさり声を掻き消す
 いつの間にか、金俣が早苗の目の前にいる
 蛇に睨まれた蛙のように、早苗は動けない
 金俣の手が、ゆっくりと早苗の肩へ伸びる

「オマエみたいな卑怯者に、とっておきの役割さ」

 耳に掛かった生温い息が、どうしようもなく、不愉快だった。

           ★

(あれ……?)
 自分の意識が現実から離れたあと、聖は虚空の書架で一冊の本を選んだ。いつもならその直後に、その選手にまつわる記録や記憶が聖の頭の中を駆け巡り、気付けば身体の内側から力が湧き上がるような感覚をもって意識が現実へと戻って行く。しかし今回は、本を開いても何も起こらなかった。

(え? どういうことだ?)
 いつもと違う状況に、聖は戸惑いを覚える。だが、不思議と何かを間違えたというような感覚はない。叡智の結晶リザスは確かに、聖の手によって開かれた。それは間違いないはずだった。それなのに、何も起こらない。聖は虚空の書架でポツンと一人、戸惑うばかりだ。

(アド、どうなってるんだ?)
<あ~、今回はハズレなンじゃねェ?>
 アドのどうでも良さそうなぼやきが聞こえる。
 ハズレってなんだ、と聖が問う前に、アドとは別の声・・・・・・・が聞こえてきた。

<無礼者め、ハズレなわけないだろう>
 低く、渋みのある声だった。当然、リピカであるはずがない。
 聖とアドとリピカ以外の第三、いや、第四者の声だ。

<つーか、あンた存命中だろ。どうなってンだ?>
虚空の記憶アカシック・レコードに刻まれているのは、あくまで記憶と記録だ。刻まれた人間の魂そのものが書き込まれているわけではない。私の今のこの状況も、刻まれた記憶と記録をもとに再現している、いうなれば影のようなものだ。本人の人格と寸分違わないが、本人そのものではない>
<サーヴァント的なやつか?>
<なんじゃ、それは>
 聖を置き去りに、当たり前のように会話している二人。
 あれこれ言い合っているその間に、思わず聖が割って入る。

(あの、すみません。ちょっと良くわからないんですが、貴方は?)
<なんだ、さっき書き込まれたんじゃないのか? ようわからんなぁ>
<レアケースだなァこれ。こンなこともあンだな>
<まぁ良い。さっさと始めよう>
 低く渋い声が勝手に取り仕切ろうとする。
 若干の苛立ちを覚えつつ、聖は改めて声の主に問う。

(いやだから、貴方は一体誰なんです?)
<さっき本に書いてあっただろう。まさか読めなかったのか?>
(え、いや、読めはしましたけど、その……)
<嘆かわしい! このクソ生意気な小僧はまだ仕方がないにしても、現役のオマエがワシの名前を知らんとは。そりゃあ確かにワシが活躍していた時代にオマエは産まれてなかっただろうがな、オマエが知ってるであろうトップ選手を何人も育てた名コーチなんだぞ、ワシは。えぇい、もう一度書き込んでやるから、しっかりと脳に刻み込め!>

 男がそういうと、聖の脳裏に今度こそ、情報の洪水が流れ込んできた。


 その男は、栄光の四舞台グランドスラムの名誉を得ぬまま引退した。

 輝かしい栄光も、派手な武器も持たない平凡だが優秀な選手アベレージャー

 観客を魅了するでもなく、ひたすら地味に戦い、気付けば勝利を手にしている。

 しかしそれでも、有能な知恵者ワイズマンとして、幾多の名選手と肩を並べ続けた。

 男の持つ最大の武器は、その狡猾さにあった。突出した強みを持たぬ代わりに、相手の嫌がる事を徹底的にやり尽くす戦略家。比類なき嫌らしさと分析力を武器に、多くの選手に苦渋と辛酸を舐めさせて回った嫌われ者。悪童の代名詞マッケンローが、最も嫌い、最も憎み、最も恐れた男。そして、キャリアの低迷に苦しむ選手たちを、幾人も再び頂点へと導いた、辣腕の指導者。

 敵を知り、己を知り、またそれ以外のあらゆる要素を分析し、勝つ為に必要な論理ロジックを冷徹に組み上げる、戦略的タクティカルテニスの先駆者パイオニア。テニスというスポーツを、勝負事のなんたるかを、誰よりも深く頭脳で理解し体現し続けた、その男の名は、

 Bradブラッド Gilbertギルバート

 誰よりも貪欲に勝利を求める姿勢に、畏敬の念を込めて、人々は彼をこう呼ぶ。

 偉大なる卑怯者ウイニング・アグリー

 格好良さなど無用。
 汗を流して泥に塗れて、最後の最後に、勝利をその手に掴み取れ。

                               続く
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