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第98話 チカラの源

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――もし、蓮司がATCにいられなくなったら、私もATCをやめるよ

 ミヤビのその言葉を聞き、蓮司は自分のなかで矛盾する感情が同時に沸き上がるのを感じた。歓びと怒り。真逆の性質を持つ二つの想いは、僅かな間をおいてまず怒りが歓びを押しのけ、ミヤビに対する文句となって口から飛び出した。

「はぁ? そんなこと、誰も頼ん」
「いいの。これは私の問題。決めたのは私だから」
 蓮司に顔を近付けながら、ピシャリと言い放つミヤビ。声こそ荒げていないが、有無も言わさぬその様子にあっさり気圧され、蓮司は言葉を続けられない。間近に迫ったミヤビの瞳から目を離せずにいると、彼女の匂いが蓮司の鼻腔をくすぐる。それにつられたのか、さきほどの頬へ触れた柔らかな感触が蘇る。蓮司のなかで、急速に怒りがしぼんでゆく。

「な、なんでミヤはそこまで」
 ATCに所属し続けるには、それに相応しい実績を出し続ける必要がある。厳密には、必要な経費さえ捻出すれば、残ることは可能である。しかし言うまでもなく、その費用は莫大だ。学生風情のアルバイトでは到底賄えない。他のメンバーと違い、平均的な家庭である蓮司の実家に、その支払い能力はない。だからこそ、彼は早くから親元を離れて寮生活を選んだ。蓮司はプロになれる選手であることを証明し続ける代わりに、本来支払わなければならない必要な経費を免除されている。そして、境遇的にはミヤビも蓮司と大差ない。違いがあるとすれば、彼女は充分な実力と実績をすでに兼ね備え、着実にプロへの階段を昇っている点だ。今のこの環境に身を置いて、さらに腕を磨き続ければ、そう遠くない未来にプロとして世界へ羽ばたけるだろう。彼女が今の環境を手放すメリットなど、何ひとつ無い。少なくとも、蓮司はそう思う。

「言っとくけど、同情とかじゃないよ」
 蓮司が頭のなかで思い浮かべるより早く、ミヤビが先回りして否定した。彼女の真っ直ぐな瞳を見れば、蓮司に対する哀れみや同情心がその理由でないことは分かる。だからこそ、蓮司には分からない。以前、今と同じように蓮司を助けてくれた時も尋ねたが、理由を教えてはくれなかった。そのときは確か「当ててみて」と言われてはぐらかされた。思いつく考えはあるにはあるが、それを自分で言葉にするのは、どうにも気が引けた。それこそ、意味が分からない・・・・・・・・からだ。

「私の課題は、蓮司の思い込みをなくすことかもね」
 何を言えば良いか分からず黙っている蓮司に、ミヤビが続ける。意味の分からない言葉を重ねられて、蓮司は思わず眉をひそめてしまう。そんな彼の表情を見て、ミヤビは満足そうに悪戯っぽい笑みを浮かべた。その顔が見たかったと言わんばかりだ。

「さ、まだ終わってないよ。私らの覚悟、見せてやろう」
 ひと足先に気を引き締めたらしいミヤビが、力強く言う。ペアである自分を混乱させておいて、なにを勝手に進もうとしてるんだと、釈然としない蓮司。だが、ここでのんびり話をしている時間はないのだ。囃し立てる観客に向けて、主審が静まるよう促す。試合が再開される。依然、状況は劣勢のまま。勝機は見えていない。

 全員がポジションにつき、各々が構える。これで負ければ、自分はATCを去らなければならない。その上、ペアであるミヤビが自分も同じく辞めるなどと言い出した。態度から察するに、冗談じゃないことは明らかだ。彼女は本気だろう。彼女は自分自身の問題だと言ったが、そんなものは方便だと蓮司は思う。

(クソ、余計なプレッシャー増やしやがって)
 胸中でそう毒づく反面、蓮司は自分がなぜか落ち着きを取り戻していることに気付く。先ほどまで感じていた不安や焦燥感が影を潜め、視界が開けて感じられる。状況は何ひとつ好転していない。それどころか、この勝敗次第で大事に思っている人に迷惑をかけるかもしれないという条件が加わってしまった。だというのに、不思議と気持ちは落ち着いた。

――蓮司を一人にしない。約束する

 胃の腑の奥で熱が灯る。

(あ、そうか)

 失うかもしれない物事に気を取られ、見落とすところだった。
 失うことに怯えたまま、重要な局面で覚悟を持てないところだった。
 熱はやがて火を熾し、怖れを飲み込み、大きく大きく、燃え盛ってゆく。

(やってやる)

 小さな身体に大きな炎を心に宿し、蓮司は眼前の敵を睨みつけた。

           ★

 日本時間午前3時過ぎ。アリアミス・テニス・センターは一部の施設を除き、とうに営業時間を終えて静かな秋の夜闇に包まれていた。24時間利用可能な無人のトレーニングジムでさえ文字通り誰もおらず、最小限の明かりが灯るのみ。人の気配があるのは、最高責任者である沙粧さしょうアキラの執務室だけ。そこへ訪れる二つの人影があった。

「お忙しいところお邪魔しますよ、沙粧クン」
 社交辞令を挨拶代わりに現れたのは、すっかり色の抜け落ちた白髪を丁寧に撫でつけた白衣姿の老人だった。表情の分からないゴーグルを目元に装着し、何が面白いのか口元は常に小さく笑みを浮かべている。多国籍スポーツ科学研究機関GAKSOガクソの実質的な中心人物、新星あらほし教授その人だ。彼の横には、マネキン人形がそのまま動き出したかのような雰囲気を放つ少女のマリーが、付き人よろしく控えている。

「あら、相変わらず時間の概念が無いのね、教授」
 非常識な時間の来訪にも動じることなく、沙粧が皮肉を口にする。もっとも、目の前の老人にそういったコミュニケーションが通じないのは承知のうえ。沙粧は最高責任者席エグゼクティブシートから立ち上がり、自ら珈琲を二つ淹れる。教授は勝手知ったる様子で応接用のソファに腰掛け、そのすぐ傍にマリーが直立不動で起立していた。

「それで、わざわざお出向きになったのはどの件について?」
 珈琲に砂糖とミルクをどっさり入れてかき混ぜている教授に、沙粧が用件を促す。ネットワークを通じたメッセージでのやりとりをしないということは、暗に最重要機密事項に関する連絡だ。いくつか思い当たる節はあるが、そのどれもがまだ報告を受けるほど進捗段階に無かったと沙粧は記憶している。教授はカップの底でまだ砂糖が溶けきっていない様子の珈琲をひと口啜ると、おもむろに口を開いた。

「ジェノ・アーキアの動作不良について、おおよその原因が判明しました」
 教授はそういうと、まだ苦いなとぼやきながら砂糖を追加する。

「そう。何がどこまで分かったの? 端的にお願いね・・・・・・・
 強調するが、恐らく話は長くなるだろうなと沙粧は胸中で苦笑する。人類史上最高の頭脳と悪魔的閃きを持つと呼ばれる新星教授は、その類稀なる天才性ゆえか、口を開くとすぐ話が長くなるのだ。同レベルの知性を持つ人間が身の回りにおらず、相手が分かるように話をするクセがついてしまったと本人は言うが、単にお喋り好きな性格をしているだけだと沙粧は感じている。

「ひと言で済ませるなら、潜在性学習素子の想定外な成長による機能不全、ですな」
 沙粧の眉間に、薄く皺が寄る。アーキアについて、仕組みはともかく性質は把握しているつもりだが、沙粧が持つ既知の内容をもとに考えるとそれは本来なら起こり得ないはずだ。

「だから想定外なのです」
 沙粧の微妙な表情の変化から内心を読み取ったらしい教授が、口元から笑みを消す。彼はその知性ゆえか、会話する相手の思考が止まることを嫌う。目の前で起こった事実に対し、有り得ない、そんなはずはない、といった感想を抱くのは、自分の常識の枠組みでしか物事を考えられない人間特有のものだと彼は言う。あらゆる物事に対して先入観を持たず、常に知的好奇心を発露させている彼にとって、事実から目を逸らして思考をやめる人間は軽蔑の対象だ。

「米国企業リアル・ブルームが主導となって開発したジェノ・アーキア。ナノマシンを人間の体内へ送り込み遺伝子と混合注入インジェクションすることで、人間が本来持ち得ない強化された遺伝子へと作り変える。それによって身体能力や知能指数、肉体的特性をも通常の人類を凌駕し、人為的超越者エンハンサーへと生まれ変わる。人類はその叡知によって自らを進化させ、きたるであろう過酷な宇宙環境での生存や、環境悪化の避けられない地球での適応力を大幅に向上させることが可能となるのです。とまぁ、開発資金を募るための政治家向けスピーチの概略はこうですな。完全な完成にはあと50年はかかるでしょうがね」

 唐突にそこまでいうと、教授はもはや珈琲をかけた砂糖の塊を口へ運ぶ。

「生体活動を維持させながら遺伝子を組み替えるアーキアは、ようやく運動性能を飛躍的に向上させるところまできました。残念ながら知能指数の向上は思う様な結果が出ておりません。知能に関わる遺伝子や脳をいじると、人格や精神があっという間に飛んでしまうのでね。いやぁ困ったものです。そっちが先に進めば、開発期間を大幅に縮小できたかもしれないというのに。いやはや物事はそう簡単にはいかないものですな」

 早口で喋る教授を諫めることなく、沙粧は諦めた様子で曖昧に頷く。機嫌が直るまで、せいぜい自由に喋らせるより他ない。昼間であればもう少し頭も回っただろうにと、教授が深夜に訪れたことを沙粧は忌々しく思った。


「――であるからして、人体の知能指数や運動機能の限界を先天的に決定づける、いわば学習遺伝子とも呼べる染色体とも異なる独立した因子、潜在性学習素子―Potential Learning Element―通称PLEが想定外に活発化したことが、アーキアの機能不全を引き起こしたと考えられるわけです。いやぁまったくもって素晴しい。人体のゲノム解析などとうに終えていたというのに、こんな再発見があるとは」

 だらだらと喋り続ける教授を、沙粧はうんざりした表情で見つめていた。とはいえ、我慢しただけの甲斐もあり、どうにか教授の機嫌は戻ったように見える。いつの間にか教授の頭のなかを整理するためだけの独り言に変わっていることに気付いたときはどうしようと思ったが、かなりの遠回りを経て本題に戻ってきた。もっとも、かなり専門的な話が多分に含まれていたため、さすがの沙粧も全てを理解することはできなかった。把握できる内容だけを掻い摘み、沙粧も頭のなかで情報を整える。

「つまり、本来アーキアがPLEの活動を抑制することで、効率的に強化遺伝子への書き換えを行っているところに、PLEが原因不明の急成長を起こし、機能不全に陥った。そういう理解でよろしいかしら?」
「えぇ、そういうことです」
「アーキア自体が、PLEの活性化を促した可能性は?」
「もっと詳細な検証をすればあるやもしれませんが、現段階においては無いと考えて良さそうです。これは私の仮説、いえ、まだ勘の域をでないのですが、おそらくアーキア自体の機能的欠陥はありません。正しく作動していても、現状備わっている機能では不測の事態に対応できないのです。例えるなら、車を舗装道路で走らせていたら、いきなり地面が水の上になって沈んでしまった。そんな状況といえるでしょう」
「リアル・ブルームがコスト削減のために、勝手に改良した可能性は?」
「極めて低い。彼らはむしろ、コストを増やしてでも機能拡張を目指す。仮にコスト削減をやるのであれば、今の試験運用被験者テスター以外に別の者を新しく用意してやるでしょう」
「それなら、他に考えられる可能性は……」

 時刻はそろそろ4時を回ろうとしていた。教授の長話に付き合ったせいか、沙粧は普段より疲れを感じる。長時間の睡眠を必要とする生活から解放され、1日24時間をフルに使えるようになってからかなり経つが、この朝方の時間はどうにも疲れを覚えやすい気がする。そのことがまるで、成長しても消えずに残る蒙古斑のように思え、沙粧は煩わしさを覚える。彼女は一旦ソファから立ち上がると、デスクの引き出しから小型の自動体外式除細動器A・E・Dに似た機器を取り出した。

「一応、それについても仮説はあります」
「あら、まだ聞いてないけど」
 出した機器から伸びるコードの先には、小さなパッドがついている。それを慣れた手つきで、こめかみや耳の下に当てる沙粧。機器本体を操作してスイッチを入れて目を閉じる。電流、電磁波、音波などの複合的な電気信号が、コードを通じて沙粧の脳を刺激する。脳の神経細胞に働きかけ、脳内化学物質の分泌を促していく。GAKSOが開発したメディカルマシンの一つで、脳の回復を促す装置だ。

「そちらも、そろそろバージョンアップ版が完成します。ただまぁモノがモノだけに商品化は難しいでしょうなぁ。月面と火星の資源が今より70%以上採取できないと量産が難しい。もっとも、それよりも私は脳の物理的なデバイス化技術の発展が先に進むと思っていますが」
 話が逸れるのを喜んでいるのか、教授が嬉々として語り始める。沙粧はそれを聞き流し、実に短い時間で脳のリフレッシュを終えた。これとサプリメント、栄養補助食品を組み合わせれば、休息や体調管理は事足りるのだ。

「仮説っていうのは?」
 すっかり冴えた頭で、沙粧が話を戻す。促された教授が改めて口を開きかけたとき、沙粧のデスクにあるPCから緊急案件を報せるアラートが鳴った。画面を覗いて内容を確認した沙粧の瞳が、大きく見開かれる。そして、少し楽しそうに呟いた。

「教授、またよ」
「ほう?」

 通知の内容は、アメリカで現在使用中のアーキアに、トラブルが発生したことを報せるものだった。

           ★

 観客が静まるのには、かなりの時間を要した。劣勢に立たされている日本人の少女が、大立ち回りでピンチを凌いで大盛り上がりしたうえ、その直後にペアの男子の頬にキスをしたのだ。ハプニングが大好きなアメリカ人が多い会場はボルテージは沸騰し、審判が何度アナウンスしても日本の二人を囃す声はなかなか鎮まらなかった。

「最高だ! 日本人は奥ゆかしいって聞くけど、あの子は情熱的で良い!」
「オイ小僧! オマエもキスし返してやれよー! ボケっとしてんなー!」
「応援のし甲斐があるぜ。あの二人、愛の力・・・で逆転してみせろぉ!」

 愛の力。
 アーキアによって集中力が高まっている今、その気になれば会場内の観客すべての発言を同時に聞き取れるだろう。だが、当然それはノイズになるため、双子のロックフォート兄妹は聴覚情報を意図的に一部遮断している。それにも関わらず、そのフレーズだけが耳に飛び込んできた。

「愛の力、だと」
 兄のアルフレッドが、聞こえた言葉を繰り返す。妹以外には聞き取れないであろうその小さな声色は、どうしようもなく無機質で冷めている。そしてそこには、静かで、酷く濃い怨嗟の色が滲んでいた。

やかましいよ。さっさと終わらせよう」
 妹のアレクシアが、兄とよく似た声色でつぶやく。会場の熱気と興奮から隔絶された空間にいるかのような二人の雰囲気。お祭り騒ぎに浮かれる連中を、ひどく残虐な心持ちで軽蔑する表情を浮かべている。

 ようやく会場が静かになり、試合が再開された。ロックフォート兄妹からみてあと残り3ゲーム。兄のアルフレッドは、1ゲームあたり2分程度で終わらせてやろうと心に決める。意識を集中させ、その身に宿る人工的な遺伝子を活性化させていく。兄と呼応し、妹のアレクシアも同調する。

(いつもより、イイ感じがする?)
 高まっていく集中力、研ぎ澄まされていく感覚。そのどれもが普段以上で、アルフレッドはプレーを始めていないにも関わらず気分が高揚していく。確信する。1ゲームあたり1分以下で終わらせることもできる、と。湧き上がってくる万能感で、意図せず口元が不気味に歪んでいく。

(無能な虫ケラ、潰してやる)

 昂ぶる暗い感情を滾らせ、人為的超越者エンハンサーが嗤った。

                                   続く
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