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第22話 Emotional Strategy(感情的戦略)

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男子ダブルス 試合進行 4-2 不破・沼沖 リード

 ――案の定だ、クソ。
 奏芽は苦虫を噛み潰したような気分で舌打ちする。ゲームカウントはリードしているが、流れは完全に相手へ傾いていた。いっそ、ブンが分かり易く怒りだしてくれたなら奏芽にも声のかけようがある。なまじ冷静さを保ってしまっているから逆に始末が悪い。

 内心でイライラしている人間に、怒るなだの、落ち着けだのと声を掛けて、それでどうにかなるなら苦労はない。本人は怒らないように落ち着こうと努めているのだから、それ以上の声掛けは逆効果だろう。かといって、怒れと言って解決するような話でもない。時間があれば少しずつ感情の昇華を促すように会話すれば良いが、生憎とその時間は無い。結局、ブンが自分自身で気持ちを立て直すより他ないのだ。

 序盤までは難なく決めていたチャンスボールを、ブンは尽くミスした。それだけではなく、相手2人の身体に向けてボールを打つものだから、当たり損ないのボールが絶妙にカウンターで返ってきてポイントを失ってしまう場面もあった。

「キテるよォ!スゲ君!」
「ヤレるよォ!ヤベ君!」

 ポイントを獲るたびに2人はわざとらしく大袈裟に喜ぶ。それが実に鬱陶しい感じで、見る人が見ればイラつくことこの上ないだろう。特に、そこそこ付き合いの長い後輩に自分が気にしていることを煽られたブンにとって、2人の振舞いは絶大な効果を発揮した。

 自分がイラついていることを指摘されて、冷静に受け止められる人は少ない。そういうアンガーマネジメントが出来るなら、そもそもこういう事態に陥らないだろう。自分自身の怒りのコントロールであれば奏芽もそれなりに出来るつもりだが、他人のものとなるとそう簡単にはいかない。

(普段からもうちょい、仲良くしてりゃあな)
 人と人が関わり合う時、最も大切なのは正しさや理屈よりも感情だ。正しい論理で人の心がコントロール出来ればそれに越したことは無いが、なんだかんだ言って人は感情で行動する。そして感情のやり取りというのは、普段の人間関係の状態が大きく影響する。

(付き合い自体は中学からだが、ブン達とはそこまで・・・・じゃねぇしな)
 コートチェンジの際にボウズ頭のスゲが言った言葉を思い返してみるに、恐らくブンのプライドを傷付けたのはマサキとデカリョウに関することだろう。仲良し3人の中で、唯一ブンだけが選手育成クラス・・・・・・・ではない。

 奏芽の記憶では、確か小学生の頃にブンがマサキとデカリョウをテニスに誘い、それがきっかけであの2人は才能を見出されたはずだ。言うなればブンだけが置いてきぼりを食らった形となっている。だが、普段の3人を見ていれば、ブンがそれについて気にしている様子は全く無い・・・・。一方で、奏芽は少なからず同世代であるあの2人の実力に自分が嫉妬しているという自覚がある。仲間同士とはいえ、同い年で同じスポーツをやっている以上、周りにいる相手に対してライバル心を持つのは自然なことだ。

 奏芽だって練習試合で負ければ、その時は相手と暫く口を利きたくなくなる。だがそれは相手を嫌いになったとかそういう事ではなく、敗北を喫した自分に対する不甲斐なさや、シンプルに悔しさの表れに過ぎない。そういう感情は下手に抑え込んだところで消えたりしない。むしろ外に出さないと知らず知らずのうちに降り積もり、やがて自分を蝕む毒となる。

(自分はプロにならねぇ、2人を応援するポジションだっつーのは本音なんだろうが、その実、自分だって負けてねぇって気持ちがあるのを押し込んでやがったな。そういうの、分かるっちゃー分かるけどよ)

「クソッ!」
 またもやブンが簡単なボールを打ち損じる。
 力を見せつけようとして強引にハードヒットを打って一撃を狙い過ぎている。

(似たような立場のオレなら、何かしら届く言葉を伝えられそうな気はするが、それにはちょいと信頼関係が足りてねぇんだよな)
 奏芽は思考を巡らせる。あれやこれやと考えながら打った奏芽のサーブが2本ともフォルトし、ゲームを落とした。にも関わらず、ブンは奏芽に対し一言も無くコートチェンジの為さっさと行ってしまう。

(っしゃーねぇなぁ!信頼を作るのは言葉だけじゃねぇし……いっちょやるかぁ)

 続く第8ゲーム。スゲのサーブ。カウントは4-3で不破・沼沖ペアのリード。スゲのサーブのフォームはなんだか独特で、どうやら本人的にはフランスの天才リシャール・ガスケをイメージしているそうだ。そんなようなことをペアに向かって自慢げに喋っていた。フォームは変だが、それなりに理に適っているらしくスピードはそこそこある。そのスゲのサーブを、リターン側である奏芽は露骨な咆哮と共に全力で強打した。

「どォラァァァッ!!」
 爆発にも似た打球音がして、前衛のヤベの顔面に目掛けボールがかっ飛んでいく。

「ひゃへ!」
 変な声を出しながら咄嗟にしゃがんで避けるヤベ。ボールは野球選手が放つライナーのような軌道でノーバウンドのままフェンスにぶち当たる。

「っちぇ~、ハズしたかァ。オイてめぇ、避けてんじゃあねェぞ!」
 アワワワ、と震えながら腰を抜かしているヤベに、ドスの効いた声色で言い放つ奏芽。容貌の雰囲気と相俟って、さながら中学生に因縁をつけてカツアゲしようとするヤンキーそのものだ。ペアのブンもあまりの出来事に呆然としている。

「おう、ワリィなブン。だがよォ、こいつらもデカリョウにぶち込んでくれてんだろ?だから1発ぐれぇ当てても・・・・・・・・・、そりゃアイコ・・・だよなァ?!」

 不気味に口角を吊り上げ微笑んでみせる奏芽だが、目は笑っていない。
 仲間をやられて怒り狂い、報復に燃えるヤンキーがそこにはいた。

(さて、これで目ぇ覚ましてくれりゃ良いんだが)

 内心やれやれと思いながら、奏芽は悪役の仮面を被ることにした。





女子ダブルス 試合進行 5-0 桐澤姉妹 リード

「すごい!ナイスリーだよ彩葉!」
 彩葉が放った会心のリターンエースが決まり、本人以上に喜んだ鏡花が駆け寄ってくる。ちょっと照れくさそうにはにかみながら、彩葉と鏡花はハイタッチした。

 最高の手応え。これまでテニスをしてきた中で、一番良いショットが打てた。彩葉は先ほどまでの暗い気分は完全に消し飛び、再び心に戦意が甦った。スコアは完全に劣勢だが、まるでこれから試合が始まるかのような真新しい気分が彩葉の中で溢れてくる。

――試合開始の最初のポイントも、試合を決めるマッチポイントも、同じ1ポイントです

 既に崖っぷちで、さらに言うなら片手でぶら下がっているような状況ではあるが、そんな事は関係ないと言い切れるぐらい、2人の士気は高まっている。最後の最後まで、絶対に諦めずに戦おうという強い意志が彩葉と鏡花の間に生まれた。

 しかし

 意志だけで戦況が覆せるほど、相手の2人は甘くない。続く第2ポイント、第3ポイントを連続で奪われてしまう。彩葉と鏡花がミスをしたわけではない。相手2人の連携があまりにも見事過ぎるのだ。速いボールは打ってこない。あくまで的確に配球し、形を作り、決めるべきところで決める。お互いペアの間合いを完全に把握しており、任せるべきところはペアに任せ、それぞれがそれぞれの役割を完璧にこなしている。

 一方、彩葉と鏡花の連携はお世辞にも完成度が高いとは言えない。ボールが来ると反射的に自分が打てるように準備をしてしまう。万が一ペアが取り損ねた時に備えて1つのボールを2人で注視する。その一瞬の無駄が、次に来るボールへの反応を遅らせる。相手はそこを的確に突いてくる。この試合、相手の桐澤姉妹はずっとそういう試合展開をしてきた。

――勘違いだった

 殴られ、蹴られ、地面に這いつくばらせた相手の頭を踏みつけて、とどめを刺さずにひたすら嬲る無慈悲なテニスをしてきていると思ったが、そうじゃない。そんなのは被害妄想に囚われた自分の泣き言でしかない。

 これが、これこそがダブルスだ。
 この信頼を基盤とした連携力、ペアを信じて背中を預ける戦い方。
 ふと、桐澤姉妹と目が合う。
 優しく微笑む、同じ顔をした2人。

――かかっておいで、本物を見せてあげる

 その笑みにつられて、彩葉も白い歯を見せた。
「いくよ、鏡花」
 拳を握り締め、彩葉が呟く。
 まだ終わりじゃない。勝負はまだついていない。

 最強のペアに、彩鏡さいきょうのペアが全身全霊を賭け、最後の勝負に挑む。




混合ダブルス 試合進行 4-2 能条・雪咲 リード

 これまでの6ゲームとはうって変わり、相手のペアはダブルスとして機能し始めた。それも極めて高度な、まるでこちらの意図を先読みしているかのうようなゲームメイクを展開してくる。

(夜明ちゃんが後ろで守って、挑夢が前で決める布陣か)

 雁行陣がんこうじんと呼ばれるその陣形は、ペアの1人がベースライン付近で守備を担当し、もう1人がネット前でチャンスボールを決めるという、ダブルスにおいてごく基本的な陣形だ。先ほどまでは、挑夢が後方に位置しながら、その攻撃力と天晴れなほどのコートカバーリングを頼りに前衛の役目すら自分で果たすという強引な戦法をとっていた。夜明の役目は挑夢の守備範囲を少しでも狭くする為の置き物でしかなく、陣形こそ雁行陣だったが今とはまるで違っていた。

(夜明ちゃんが後ろなら、遠慮なく速いボールを彼女に!)
 ミヤビが球威を強めた瞬間、ネット前にいた挑夢が恐ろしい速さで奇襲攻撃ポーチに出た。捕まえたボールを一瞬のうちに打ち落とし、ミヤビたちはポイントを奪われてしまう。

(速ぇ!? スピードだけならマサキと遜色ねぇぞ!)
 挑夢の凄まじい移動速度に舌を巻く蓮司。先ほどから、夜明に速いボールを打とうとするやいなや挑夢がすっ飛んできてカウンター気味のポーチを決めてくる。多少強引な形であっても無理やり押し込まれ、ことごとく捕まってしまう。

(ある程度ペアに任せながら、こっちの攻めに狙いを絞ってやがる)
 確かに、こちらの方が理に適っている。中途半端なボールを打てば挑夢に食らい付かれるし、挑夢が追い付けないほどの速度でボールを打つのは、こちらもリスクが大きくなる。低リスクで捕まらない為には、高さを使った山なりのボールを打つより他ない。それも半端な高さだとスマッシュの餌食になる可能性がある為、それはそれでリスクがある。もしこれで夜明の実力がもっと高かったら、かなりの強敵になっていたことだろう。

 相手の急な作戦変更と挑夢の猛攻が噛み合い、勝負を仕掛けるはずだった挑夢のサービスゲームを奪う事が出来なかった。だが、次は蓮司のサービスだ。落ち着いて戦えばキープは難しくないはず、ミヤビと蓮司はそう考えていた。

 先ほどまでと変わったのは、何も陣形や戦い方だけではない。相手の2人はポイントの間、20秒ギリギリまで作戦を話し合っている。それも、主に話をしているのは夜明の方だ。挑夢は夜明の言葉に一言二言添えているだけに見える。コートチェンジを終え、蓮司とミヤビが先にポジションにつくと、相手の2人はまだ会話していた。

「おほん」
 ミヤビがわざとらしく咳払いすると、はっとした夜明がぺこりと頭を下げる。その仕草は彼女の真面目な性格が現れていて、ミヤビはなんだか微笑ましく思う。慌てた様子でリターンポジションについた2人は視線を交わすと互いに頷き、真っ直ぐに蓮司を見据えた。

 そして、あろうことか2人同時に蓮司を指差した・・・・・・・

「!?」
 その仕草はまるで、バッターボックスに立った打者がするホームラン予告のよう。
 指を差された蓮司は、戸惑いを隠しきれない。

 揺さぶりに来た、ミヤビはそう直感する。戦い方や作戦を変えただけじゃない。精神的な揺さぶりを隠そうともせず露骨に仕掛けてきた。ミヤビは相手ペアの後ろに、得体の知れない何かの気配を感じた。それは例えるなら、森に棲む狡猾な狼のような気配。

 狼?

――まさか・・・



「蓮司先輩は、そうだな。クールだけど結構アツくなり易いかも。逆にミヤビ先輩は感情的に見えることもあるけど、なんだかんだ冷静かな」

 知り合いである先輩2人に対する印象を、夜明は挑夢に喋らせた。彼女は今日この日に備えて、対戦相手となり得るATCアリテニ所属の選手について調べられることは全て調べていた・・・・・・・
「すげぇな、なんだっけ、敵を知れば百回勝てる?」
「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」
「そう、それ。やっぱ研究って大事なんだな」
「当たり前でしょ。挑夢、対戦相手のこと調べないの?」
「やったことねーわ。だって初見の相手とやるの楽しいし」
 ハァ、と溜息を吐く夜明。その顔は露骨に挑夢を馬鹿にしている。
「あんたはホント、勝負事の戦い方を分かってない。だからこの前も敗けるんだよ」
 なんだとてめぇと言い返そうとする挑夢の口を掌で制し、夜明は続ける。

「でも、私一人じゃどうにも出来ない。いくら作戦を立てても、私には実行力が足りない。だから、どうしたって挑夢に頑張ってもらうしかないの。いい?」
 毅然とした態度で作戦を伝える夜明。先ほどまでの気弱そうな雰囲気は消え去り、彼女の瞳は眼鏡の奥で深く静かな色をたたえている。その瞳に見つめられると、挑夢は言葉が続かなくなってしまう。顔を近付けて話しているせいで、夜明の匂いと息遣いがいつも以上に濃く感じられる。甘い、良い匂いがした。

「ちょっと聞いてる?」
「ん、あぁ、でも、それ妨害行為ヒンダランスじゃね?」
「平気。プレー中じゃないし、指摘される前にすぐやめるし」
 意外と大胆な作戦を立てるヤツだなと、挑夢は感心してしまう。
「でも確かに、揺さぶりかけるなら蓮司先輩だな」
「おほん」
 対戦相手のミヤビが、わざとらしい咳払いをしたのが聞こえた。2人は慌ててポジションにつく。挑夢と夜明は互いに視線を交わして頷くと、2人同時にサーバーの蓮司を指差した。



 対戦相手から同時に指をさされた蓮司は、まるで静かな教室で腹の虫が鳴ったのを聞かれた時のような気恥ずかしさを覚えた。

「なっ、なんだぁ?」
 2人はすぐに指を引っ込めると、何事も無かったかのように構える。助けを求めるようにミヤビに視線を送るが、難しい顔をしたまま首を横に振る。気にしちゃダメ、そう言っているように見えた。蓮司はボールを数回地面につき、気を落ち着かせる。

(あれで揺さぶってるつもりかぁ? ナメやがって!)

 多少は動揺した蓮司だが、稚拙な揺さぶりだと相手の意図を見抜きすぐ冷静さを取り戻す。同時に、そんなこすい手をろうしてくる相手に腹が立ってきた・・・・・・・

 蓮司は基本的に相手が誰であろうと、試合で手を抜かないタチだ。それが相手に対する敬意だと思うし、自分がもし格上に手を抜かれたら死ぬほどムカつく。対戦する以上、実力差は関係無い、全力でぶつかり合うべきだと考えている。

 だが、蓮司のこれまでの経歴で、ここまであからさまに格下の、しかも女の子を相手にしたことは無かった。プロを目指して日々ATCアリテニで練習を積んでいる蓮司が相手にするのは、手を抜く必要などまるでないレベルの選手ばかりだ。

 つまり蓮司にとって、一般人アマチュアの、しかも年下の女の子相手に手を抜かずにプレー・・・・・・・・・する・・ということそのものが実は初めてだったのだ。

 蓮司は試合前の打ち合わせで、夜明に対して強打がいかないようにしよう、という方針をミヤビと共有していた。だからこそ、サーブは確実に入る2ndサーブのみ、ラリーの配球も相手がミスし易いであろう非利き手バック側を主に狙っていた。しかし、相手のミスを誘発出来るような強い回転は無意識のうちにかけていなかった。

(あったま来たぜ、もう手加減してやんねー)
 相手が誰だろうと手を抜かないと決めていた自分がそう考えている時点で、既に矛盾が生じていることに蓮司は気付いていない。強い球を打たない=手加減している、という誤った認識が形成されていた。

 その一方で、夜明のペアである挑夢は全力を出して挑まねばならぬ危険な相手だ。年下だが実力は確かで、僅かな油断が命取りになりかねない。取ってくる戦法は荒かったが、蓮司が知る頃よりも遥かに実力を上げていて、正直危ない場面は何度もあった。

 片方には手心を加え、片方には最善を尽くすというダブルスタンダードな方針が、試合の進行と共にゆっくりと、しかし確実に蓮司の精神的消耗を促していた。それは即ち、蓮司の集中力の限界があと僅かというところまで迫っていることを意味する。

 人は集中力が下がると、まず考えることを放棄する・・・・・・・・・・

(もうゴチャゴチャ考えるのはヤメだ。全力で行くぜ)
 トスを上げ、蓮司は得意の強力な順回転スピンサーブを打つ。ボールは鋭い弧を描き、構えを取る夜明の真正面に向かって飛んでいく。順回転スピンの効果により、急激に落下してからバウンドしたボールは、地面を蹴るようにして夜明の顔面目掛けて跳ねた・・・・・・・・・

「ひゃあ!」
 夜明は飛んで来たボールから顔を守るようにしながら、後ろに仰け反ってそのまま尻もちをついた。
「ツク!」
 すかさず夜明に駆け寄る挑夢。
「ありがと」
 挑夢の手を借りながら、弱々しく立ち上がる夜明。2人は見つめ合って微笑んでから、抗議するような眼差しを蓮司に向ける。視線を向けられた蓮司は、動揺を隠せずに戸惑ったまま固まっている。危うく、夜明の顔にボールが当たるところだった。

――やられた。これは完全にやられた!
 ミヤビは胸中で叫ぶ。さっきの揺さぶりは、蓮司に強いサーブを打たせる為の布石だったんだ。ミヤビは慌てて駆け寄り、蓮司の顔を覗き込みながら必死に言い聞かせた。

「蓮司、気にしちゃダメ。いい?今のは演技だよ。彼女、最初から重心が後ろ・・・・・だった。リターンもわざとボールが正面に来るようにポジション取ってた」
 ネット前で夜明の動きを注視していたミヤビは、夜明の挙動に不審なものを感じ取っていた。だが、その意図を看破できていたところでタイミング的に蓮司に伝えることは不可能だった。

「べ、別に気にしねぇよ。むしろ儲けたぜ」
 蓮司は強がるが、明らかに動揺している。まずい、蓮司は選手としては優秀だが、必ず審判のいる公式な試合ならともかく、こういう野試合みたいな戦い方には慣れていない。

――正々堂々と戦うだけの選手では、上には行けません

 ミヤビの頭の中で、の声がフラッシュバックする。
 その声は、まるで暗い森の影に身を隠す狼の気配に似ていた。

(そうかこの2人、いや、このチームは!)



『ご乗車ありがとうございました。終点、木代きしろ市営スポーツ公園です』

 祝日にも関わらずスーツに身を包んだ銀縁眼鏡の男が、バスから降りる。時計に目をやると、そろそろ決勝戦が始まっていてもおかしくない頃合いだった。しかし今日はあのATCアリテニから2チーム出場しているとのことだから、彼の生徒たちは敗退している可能性が高い。

 西野陣は必ず優勝してみせると息巻いていたが、残念ながら難しいだろう。
今日の試合は学生組にとっては腕試し、バンビや挑夢にとっては一種の社会勉強のような意味合いが強い。彼らの実力で優勝するには、いささか今回の試合はレベルが高い。しかし、優勝よりも貴重な経験を彼らは今日得るはずだ、そう考えながら男はコートに向かった。

「もし、落としましたよ」
 不意に、優しそうな老婆に声を掛けられる。振り返ると、ポケットに入れ損なった定期入れが地面に落ちていた。これはどうも、といって拾うと、挟んであった名刺が一枚ひらりと舞って老婆の足元に落ちる。気を利かせてくれた老婆がゆっくりした動作で拾い上げ、手渡してくれた。
「珍しいお名前ね。素敵だわ」
 名刺に書いてあった名前を目にした老婆が、穏やかに微笑みながら言った。男は丁寧に礼を言うと、名刺を受け取る。

テニスコーチ 榎歌考狼えのうた こうろう

 名刺には、そう書かれていた。

続く
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