悪魔と聖女

桧垣森輪

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4.欠けていく月

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 それなのに、悪魔の訪れがなくなって三日目の夜。
「よう、聖女」
 声のしたほうに俯いていた顔を上げると、そこにはふわふわと浮いている悪魔がいて、聖女は目を瞬かせる。
「なんだよ、俺に会えなくて寂しかったのか?」
 呆けている様子の聖女にご満悦な悪魔も、いつもと違う。
 これまで頑なに黒のイメージだったのに、大ぶりの花が描かれた派手な模様の半袖シャツに、太腿が辛うじて隠れる丈のズボンを穿いている。
「しかし、ここはずいぶんと涼しいなぁ」
 足元も、素足にサンダルだ。
「……それは、そんな格好だからでしょう……?」
 たいして暑くもなく、どちらかといえば寒い北の地で、なぜそんな軽装なのか。
 頭には、農作業で使うような麦わら帽子を被って……無理矢理被ったのだろう、角が、帽子を突き破っている。
「数日ぶりでも、おまえは相変わらずしけた面してんな?」
「……それは、そんな眼鏡をかけているからじゃない……?」
 なぜか、レンズが真っ黒な眼鏡をかけて……こんな夜更けにそんなものをかけたら、周囲が見えなくなると思うのだけれど。
「ああ、これな。あっちは太陽の光が強くてな。便利なものがあるもんだな」
 眼鏡の下から、見慣れたいつもの赤い目が現れる。暗くてわかりにくいが、よく目を凝らすと、目の周りが眼鏡の形にほんのり日焼けしている。
「気が向いたんで、ちょっと南の国までひとっ飛びしてきたんだ。人間の足ならまだ辿り着いてもいないだろうが、さすが俺様だと思うだろう?」
 ――もう会うことはないと思っていたのに。
 なんてことはない、悪魔は気まぐれに旅に出ていただけだった。
「まあ、本当にたまたま気が向いただけだが、退屈しのぎにはなったかもな。そういえば、おまえ、海を知らないんだっけ?」
「海を見てきたの!?」
 ドヤ顔の悪魔に、予想以上の勢いで聖女が食いついた。
「ま、まあな。特別に教えてやってもいいけど――すごかったぞ! 広くてでかくて水浸しで! 端まで行ってやろうと思ったのに全然辿り着かなくて、あれはここから南までの距離より長いかもな!?」
 海を見たことのない聖女に、これ見よがしに自慢してやるつもりだったのに。
 初めての海に興奮したのは、悪魔も同じだった。
「海のはじまりは砂浜なんだぜ!? 昼間は人間たちがみんな薄着して水遊びしていてな、俺もちょっと入ってみたら、冷たくてしょっぱいんだ! しかも海の水は動いていて、海の中には見たことのない魚がたくさんいて――」
 悪魔は自分が見てきた海を、こと細かに聖女に伝えた。それはもう、自慢話ではなくただの土産話だ。
 悪魔の衣装は、南の国の人間を模したものらしい。北の地よりも太陽に近い南の国は、昼も夜も暖かく、咲いている花も住んでいる魚も鮮やかな色彩を持っているそうだ。悪魔は自分の着ているシャツに描かれた花を引っ張りながら説明して、聖女は目を輝かせながらそれに聞き入った。
「そうだ、砂浜にはこれがたくさん落ちてたんだ」
 そう言って、ズボンのポケットから貝殻をひとつ取り出す。
 手のひらにすっぽりと収まるそれは、悪魔の角のように捻れていた。だけど禍々しさは感じられず、わずかな月の光を帯びて、キラキラと白く輝いている。
「綺麗だろう? ほら、これ、おまえに――うわっ!」
 悪魔は窓辺の聖女に向けて、貝殻を軽く投げてよこした。
 それだけだったのに、途端に結界が白く光り、貝殻は破裂音とともに無残に砕け散った。
「なんだこれ……悪魔オレ以外も通れないのかよ」
 悪魔が呆然とした様子で呟く。聖女を守る結界が、まさか無機物すら受け入れないとは想定していなかった。
 一方の聖女の視界にも、無意識に伸ばした自分の指が映る。
 脳裏に一階にある小さな扉が浮かんだが、伝えなかった。そんなことをしても、壊れた貝殻はもう戻らない。陽の光でさらに輝くという貝殻は、二度と日の目を浴びることなく夜の闇へと消えていった。
 ――私には、無用なものなのね……。
 たかが貝殻ひとつが、聖女を害するわけがない。それでも、結界はそれを許さなかった。
「……ありがとう。気持ちだけで、嬉しいわ」
 でも、たとえ結界が、聖女にとって必要のないものを弾いても――。
「それより、もっと話を聞かせて?」
 見たかった海を教えてくれる悪魔のほうが、自分のために貝殻を持ち帰ってくれた悪魔のほうが、ずっとずっと尊かった。

 その日を境に、聖女の様子が変わった。
 悪魔が訪れたとき、聖女はいつも窓辺に座っている。窓枠に肘を置いて突っ伏しているのを、最初は寝ているのかと思っていた。
 だが、誰もいない暗い部屋で、小さく丸まった華奢な背中が、日に日にひどく頼りないもののように見えてくる。
「なあ、具合が、悪いのか……?」
 悪魔が声をかけると、聖女がゆっくりと顔を上げる。
 碧く澄んでいるはずの瞳が暗く淀んで、泣いているのかと思った。
「呆れた。また来たの?」
 いつもの口調で応えるのだけれど、明らかに覇気もない。
「どうした、なにかあったのか?」
「……平気よ。悪魔に心配されなくても、大丈夫」
「でも、顔色も悪いぞ。誰か、治せるヤツはいないのか?」
 聖女の体調不良は聖職者たちにとっても一大事だろうに、相変わらずここには誰もいない。
 悪魔の問いに、聖女は静かに首を横に振る。
「本当になんでもないの。顔色が悪く見えるのは……月のせいじゃないかしら?」
 そう言って見上げた月は、気がつけばもう半分の大きさになっていた。
「月が欠けていくせいで、力が弱まっているの。だからといって、結界が弱まることはないけどね」
 残念でした――聖女は、悪魔に向けて力なく笑う。
 月の光は、なにもないこの地の夜を照らす唯一の光だ。
 目の前にいる悪魔の姿も、最初の頃に比べてずいぶんと暗くなった。このまま月が欠けていけば、じきに悪魔の姿も見えなくなるだろう。
 あらためて月に照らされた悪魔を見つめる。もうふざけた格好はしていない悪魔は、怖いほどに綺麗な生きものだった。
「角も、翼も、目の色も、私たちとは全然違うのに、綺麗だわ……」
「当然だ。そうでなければ、俺たちはおまえらを魅了できない」
 ぽつりと漏らした讃美を、悪魔は平然と肯定する。
「神も悪魔も、人間より遥かに美しい。それは、おまえたちの心を捕らえて離さないためだ。この世には人間の興味を惹くものなんか腐るほど在る。だからこそ、俺たちのような異形の存在は人間が美しいと感じる容姿で生まれる。そうでなければ畏怖も崇拝もされずに、ただ忘れられるだけだからな」
「……では、私は?」
 ならば聖女は、なにを魅了するのだろう。
 見た目が美しいことは、聖女になるための条件のひとつだった。でも、人間よりも美しい存在である神や悪魔に比べて、人間の中から選ばれた聖女の容姿が敵うはずがない。
「そうだな。俺たちにとっては、おまえの見た目なんかどうでもいいことだな。でも……」
 悪魔が急におどおどし始める。視線を泳がせ、チラリと聖女を窺っては空を見上げ、やがて言葉を選ぶように小さく呟いた。
「俺は、おまえの見た目を……その、好ましいと、思うぞ?」
「――っ!」
 聖女が目を丸くして、暗い中でもわかるほどにみるみると顔を赤く染める。
「だってな、どうせ食べるなら、少しは可愛げのあるほうが美味そうだと思わねぇか!?」
「……それって、中身は可愛くないって言いたいの?」
「中身は知らん! 食ってないからな!」
「あ、そう……」
 雑多に並べられたものよりも、美しく飾られた料理のほうがより食欲をそそるということだろう。悪魔の言葉に聖女はがくりと肩を落とした。
 それでも、今宵の始めに比べれば、聖女の顔つきは少しだけ明るいものになっていた。

 それでも、聖女は考える。
 ――聖女は、なにを魅了するのだろう。
 神か、悪魔か。それとも、盲信した人々か。
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