悪魔と聖女

桧垣森輪

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3.月を待つ夜

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「よう、聖女。邪魔するぜ」
 まるで友人宅を訪れたような気軽さで、今夜も悪魔は聖女の元へやって来る。
「邪魔するなら帰ってよ……」
「どうせ暇なんだろ? 毎晩外を見ながらボーッとしてるだけじゃねぇか」
「ボーッとしてなんかないわよっ、祈りを捧げてるの!」
 聖女が窓辺にいるのは、その先にある北の山へ祈りを捧げるためだ。もの思いに耽るためでも、悪魔の来訪を待っているわけでもない。
 相変わらず結界は破られることはなく、悪魔は聖女に指一本も触れられていない。
 だが、悪魔はめげずにやって来る。それどころか、近頃はちょっとした雑談までしてくるようになった。
「あんたこそ、毎日暇なの?」
「俺はおまえを食うのに忙しい」
「食べられた覚えがないんだけど……?」
 最初は相手にしていなかった聖女だが、こうも続くとさすがに根負けする。一応結界に挑んでいる様子はあっても、最近は明らかに雑談のほうが多くて長い。
「外から破るより、おまえが自分が出てきてくれる方が楽だからな。どうだ、一緒に散歩でもしないか?」
「……遠慮します」
 どうやら悪魔は作戦を変えたようだが、聖女はすげなくそっぽを向く。
「そんな、なにもない部屋なんて退屈だろう?」
 悪魔は結界に触れないギリギリの距離まで近づいて、聖女の背後を覗き込む。
 小さなベッドと、粗末なテーブルと椅子だけが置かれた部屋は、聖女の居室とは思えないほど殺風景だ。
「娯楽は求めていません。ここは、祈りに集中するための場所です」
 それなのに、毎晩毎晩邪魔される。夜になると悪魔が邪魔をしに来るのであれば、昼間こそ真面目に励む時間なのだが、このところは寝不足で満足に祈りを捧げられていない。なにしろここには聖女しかいないから、寝過ごしたとて誰も起こしてはくれないのだ。
 実家にいた頃は、日が高くなるまで寝ているなんてできたものじゃなかった。仕事や弟妹の世話に追われていた昔を思い出して、ふと疑問が浮かぶ。
「あんたって、昼間はどうしてるの?」
 太陽の光が苦手だとか、日中に活動制限があるとか。ある種の弱点があるのかと思ったのだが、特別そういったものはないと言う。
「闇夜に紛れて移動するのに比べて、昼間はさすがに目立ち過ぎるからな。余程の理由がない限りは、人間の前に現れるのは夜だけにしている」
 たしかに真っ昼間から悪魔が宙に浮いていれば、誰かに見られることもある。聖女以外は立ち入らないこの地にも、食事の差し入れに聖職者たちがやって来る。見られること自体は脅威にならないが、戦士や聖職者たちが集団で襲ってくるのは、それなりに厄介なのだそうだ。
「非力な人間が何人集まろうが敵でもないけど、ぶっちゃけ面倒臭い。襲ってくる奴らで食いつなぐより、聖女をひとり食えば十分に満たされる」
 ――襲ってきているのは、そちらでは……?
 物騒な発言はするが、今のところ人間を相手に大立ち回りをするつもりはないらしい。
 というよりも、この悪魔はかなりの無精者のようだ。結局のところ、日中の多くを自分のねぐらで過ごしていると言う。
「悪魔にも家があるの?」
「おお、俺の家は凄いぞ! 完全防音な上に防犯対策もばっちりだ。それに一時期ハマって人間の作った調度品を取り揃えたから、かなり豪華だぜ」
 悪魔に防音や防犯が必要かはさておき、そんな快適な場所で悠々自適な生活を送りながら、たまに気が向いたときは、人目を避けつつ世界を気ままに飛んだりしているそうだ。基本的には人間が簡単に足を踏み入れない場所で、とある滅亡した国を訪れた際に放置されていた城の調度品を気に入って、以来せっせとコレクションにしたらしい。
「普段は誰も招いたりしないが、今ならおまえだけは特別に連れて行ってやるぞ?」
「……遠慮します」
 なんだ、その、押し売りみたいな誘いは。
「遠慮するなよ。おまえが望むなら、世界中のどこにでも連れて行ってやる」
 だからそこから出てこいと、悪魔はあの手この手で聖女を誘う。そんな誘惑には絶対に乗るわけがないのだが、でも、ほんの少しだけ、羨ましかったりもする。
 だって悪魔は、自分の行きたい場所に、自由に行けるのだ。
 平民だった聖女は、もちろん旅行なんてしたことがない。聖女に選ばれて、初めて村の外に出たくらいだ。
 王都の教会本部へと向かう途中、馬車の中から見た外の景色は、今でも目に焼き付いている。王都でも自由に外に出かけることは叶わなかったが、村とは比べものにならないほど立派な建物に、活気に満ちた商店が連なる様子や行き交う人の多さに圧倒された。世界は広いと、知識として聞かされていても、実際に目にしてようやく実感できた。
「参考までに聞きたいのだけれど……この塔は、やっぱり人里からは離れているの?」
「そうだな。一番近い村から、聖職者たちは馬を使って、朝出発して昼過ぎに着いているみたいだな」
「それも把握してるのね……」
 間違っても鉢合わせることのないよう、下調べはしているようだ。無鉄砲ではあるが、あながち馬鹿でもないらしい。
 でも、やはり周囲に人はいない。きっと聖職者たちは、最後に立ち寄ったあの村を拠点にしているのだろうと、聖女は王都から塔までの道のりを思い出す。
 王都を出てからの景色は、代わり映えのないものだった。北の山が近づくほどに緑が減り、赤茶色の石ばかりの道で馬車がひどく揺れた。かつて山がこの地を焼いた名残なのだと、同乗していた聖職者のひとりが教えてくれた。
 王都を出てから七日、自分の村から王都までも七日はかかったから、それだけ故郷から離れた場所に来たということだ。
 聖女が最後に見た外の景色は、故郷とは似ても似つかぬものだった。
 そうして辿り着いたのが、草木も生えていない地にあるこの塔だ。
 ――村を出る前に畑に植えた種は、もう芽が出たかしら。
「ねえ、もう、ルピの花は咲いた?」
「ルピの花? なんだそりゃ、そんなもん知らねぇ」
「そう、よね」
 故郷では当たり前の、どこにでも咲いている花だけど、悪魔なんかが知るわけがなかった。
「花に興味はないが、ここから西にでっかい湖があるぞ。牧草地には家畜がたくさんいて――そうだ、豚の丸焼きを食いに行くか?」
「だから、行かないって」
 湖のほとりには多くの草花が咲いているのだろうが、悪魔にとっては腹の足しにもならない無用なものらしい。
 でも、大きな湖とはどれくらいだろう。故郷の村にも池があって、子供の頃はそこで水遊びや魚釣りをしたものだと、また昔を思い出した聖女の脳裏にある憧れの景色が浮かぶ。
「……じゃあ、海は? 海を見たことはある?」
 聖女が、少しだけ身体を前のめりにする。
「故郷にも王都にも海はなかったから、見たことがないのよ。池よりも広くて湖よりも大きいんでしょう? それに、海を渡ればほかの国にも行けるって本当? そこにも人や動物が住んでいるの?」
 自分たちの住んでいる国は大陸というところにあって、大陸の周りは海に囲まれていると、子供の頃に読んだ本に書いてあった。
 小さな村で生まれ育った少女にとっては途方もない話で、外の世界に自分たち以外の誰かが住んでいることすら想像もしていなかったのだが、今になって視野を広げる機会を得てしまった。
 めずらしく聖女が目を輝かせている。眉目麗しい彼女がはじめて見せた明るい表情に、悪魔の頬がほんのりと赤く染まったが、瞬時に逸らしたため気づかれることはなかった。
「あー、海は知ってるけど、興味がなくて……最南端まで遠いし……」
 要するに、行ったことがないらしい。
「……そう。あ、じゃあ、北の山の遥か先にあるっていう、氷の国は?」
「ない。そんな寒そうなところに行く理由がない」
「だったら、灼熱の砂漠の国」
「暑けりゃいいってもんじゃないぞ」
「じゃあ、一面を水に囲まれたお城とか、天空のお城とか」
「別に城マニアじゃないからなぁ」
「ネズミの神様が治める夢の国」
「……そんなのあるのか?」
 聖女が肩を落とした様子に、悪魔は少しだけバツの悪さを感じた。
 だが、すぐに顔を上げた聖女はまた、小馬鹿にしたような目で悪魔を見る。
「結局なんにも知らないのね。せっかく羽根があるのに、もったいない」
「あのな、人目を避けてコソコソ出かけて、ひとりでどう楽しめっていうんだよ。だいたいそういうところは人間が多いんだ」
「あら、人間が怖いなんて悪魔もたいしたことないわね」
「う、うるさい! 人間ごときが偉そうにするな!」
「その人間が作った結界も破れないくせに。こんなところでいつまでも油を売っていないで、その狭い見聞を広めたら?」
 まだ悪魔がぎゃあぎゃあと喚いているが、聖女は無視した。
 ――そんなことよりも。
 ――見てみたかったな、海……。
 遠い南の地に思いを馳せても、目の前には悪魔と月と、北の山しかなかった。

 次の日の夜、めずらしく悪魔は来なかった。それどころか、また次の日も。
 ――やっと諦めてたのね……。
 何度足を運んだところで、結界は破れない。しばらくは聖女との他愛のない会話を愉しんでいた様子だったが、気まぐれな悪魔はもう飽きがきたのだろう。
 久しぶりの静かな夜に、聖女はそっと手を組んで、欠けていく月に祈りを捧げた。
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