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天使が訪れる

1 そういう場所ではありません

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 今後のアーロンとハリーのスケジュールは、大体決まっている。
 約一ヶ月後に、ハリーは摂政を退任する。爵位は正式に侯爵となり、王宮を出る。
 同時にアーロンも王宮を出て、当分の間、カミルを中心に立ち上げられた箱物───医療施設に勤める事になっている。
 この肩書きとして、所長をカミル、副所長をアーロン=ニューエンブルグとする。カミルは実際には業務には就かず、アーロンが実務上の所長の業務を担当する予定。
 ハリーは、摂政になる前の状態に戻る。
 持株会社の管理を中心に、所有不動産の運用、あとは当分、オファーがある限り、雑誌やメディアの取材に答えたり、モデルをやったり、といったところ。
「人前では、侯爵、て呼べよ、アーロン」
 アーロンのしっとりした腕枕から、ハリーは見上げて云った。
「分かってるよ。摂政に就任した時だって、ちゃんと間違えずにできてただろ?」
 アーロンはハリーのダークブロンドを手で梳きながら、優しく見下ろす。
 ハリーは嬉しそうに微笑みながら、
「愛してるよ、アーロン」
 そう云ってアーロンの手を捕まえ、口づけた。





 なんとなくくすんだ、というか、影が差してる暗さのカーペット。
「なんか、場末の連れ込みなんとかに来てるみたいじゃないか?」
 ハリーはその場に立ち尽くす。
「へえ、初耳だな。連れ込みなんとか、て所に行った事あるの?」
 アーロンは相変わらず、どんな所にいても物怖じしない。心臓に毛が生えているのかも知れない。
「行った事あったら『なんとか』なんて云い方しないだろ」
「濁してごまかしてるのかと思った」
 雰囲気を明るくする為か、それともハリーの気分を和らげる為か、アーロンはウィンクをキメる。
 使い古された感じの安っぽいソファ。その前には大きめのディスプレイが置かれ、その下の棚にはDVDらしきケースが乱雑に積まれている。壁際には簡易ベッドにシーツと枕一つ。三段ボックスにはヨレヨレの雑誌が凭れて並んでいる。いちばん下の箱にはたぶん、いかがわしいオモチャが入っているに違いない。
 アーロンのウィンクに効果があったのか、ハリーは戸惑ってそっぽを向いた。その後ろからアーロンは抱きすくめる。
「ひぁっ...!」
 大袈裟な程に肩を震わせるハリー。
「カップ、持ってて。ハリーに触るとオレ、気分出るから」
「え、ちょっ、オレに触る!?」
 アーロンのプラスチックカップを押し付けられ、耳元で囁かれる。雰囲気に飲まれながら、ハリーは膨らむ期待に戸惑う。
「それとも、オレに見せてくれる? ハリーがひとりでところ」
「あ、ばか、そこっ...!」
 アーロンは訊いておきながら、ハリーの膨らみに手を伸ばす。
「カップ落とさないでね、ハリー」
「ほんとに、オレものか?」
 肩越しのアーロンを振り返ると、艷やかな微笑みの目と合う。今にもヘーゼルが光り出しそうだ。
 そのアーロンの手は既に、ハリーのベルトを外し、バックルの音を立てつつ、ファスナーに手をかける。
「ぁっ、はあ...」
 ハリーの耳を甘く噛み、熱い吐息を溢しながら、舌先でくすぐる。
「あ、ま、待ってアーロン!」
 ハリーはカップを持つ手の小指側で、アーロンの腕を押さえる。
「...ひとりでとこ、見せてくれるの?」
「ばかっ。オレがアーロンの、あげる」
 するとアーロンは、何を思うのか、ハリーの顔を舐めるようにじっくり見つめ、いつになく雰囲気たっぷりな表情で、
「いいよ」
 と囁いた。
───絶対楽しんでるよな、アーロンこいつ
 毛の生えた心臓が憎らしいハリー。何故か、自分の昂りも治まってくるから不思議だ。
 ハリーはアーロンの手を引いて、ソファに座らせた。
「あ、たぶん、唾液混ざるのNGだと思うよ、ハリー」
「だ...っ!」
 アーロンの発言に、ハリーは絶句して口をパクパク。そんなあからさまに云わなくてもっ。
 ハリーはまた、プイとそっぽを向いてしまう。
「お、DVDとかある。観る、ハリー? 観た事ないだろ?」
「それ、違法画像だろ?」
「だと思うよ。あ、違う、ハウトゥ物だ。観る?」
「オレが観る訳ないだろ」
「わ、スゴい雑誌! ハリーには気の毒だな」
「気の毒、てどういう意味だよっ」
「うわ~、ハリー、これ、オトナのオモチャだよ、見て!」
「絶対ヤダ!」
 ハリーは立ち上がった。アーロンの首根っこを掴んで、
「お前、やる気あるのか、アーロン!」
 唸るように怒られた。
「じゃあ───」
 ハリーの手首は軽く背中に捻られた。「ハリーに触らせて?」
 と凄んだと思う間に、ハリーはソファに正面から押し付けられ、膝をついたままボトムを下げられた。
「やあっ、アーロン!」
 室内はエアコンが効いているが、服を着ている前提での温度設定。しかも筋肉ではない部分は体温が低く、アーロンに触れられると、その手は熱く感じる。
「ハリー...」
 呟くアーロンの声。それこそ場末の安宿で、一夜限りの交合を行う見知らぬ男女のようだ。
───なんで? そういう目的の部屋じゃないの、分かってる筈だろ、アーロン?
 そう。ここは病院で、この部屋は本来、不妊治療などで男性が精子を採取する為の採精室。ソファとベッドとディスプレイ、そして男性がになる為のグッズが置いてあるだけの、狭い部屋。
 ふたりの目的はもちろん、子作りの為。
 既にコーディネーターに、凍結卵子の提供を受けている。なのであとは、アーロンの精子があれば、受精卵ができる。別の部屋ではおそらく、代理出産をする女性が待機している筈だ。
「必要なのはお前のだけだろ、アーロン!」
 ハリーは文字通り、後ろからマウントを取られながら、背中のアーロンに訴える。
「ハリーに触れば、オレ出せるから」
「出せる、てそれにしたって、オレに触るだけなのに、これ、ガチじゃん!」
 文句を云う割に、ハリーはアーロンに下半身を撫で回され、固く膨らませている。
「ハリーだって充分その気なんだからさ」
「あっ、や、ダメ、あぁんっ」
 突き出した腰の内側から触れられ、声を我慢できないハリー。
「可愛くてすげぇそそるけど、ハリー、その声ちょっと大きいかも」
「ふん、ぅぐ、も、ばかぁ」
 自らの手で口を塞ぐが、いつもと違う場所で、違う態勢で、自分の意思に反して感じてしまうハリー。
 すると今度は、内腿の際どい辺りに、軽く叩くように固いモノが当たる。
「アーロンっ!」
 言葉にならず、愛する名前を呼ぶ事しか、ハリーにはできない。
 欲望に後ろを晒してアーロンが入ってくるの待つ自分がいる。その一方では、身分と場所と、そして目的がハリーの欲望を制止し、アーロンをもなんとかして止めようともがく。その声が、
「アーロンっ!」
 「来てっ!」という懇願と、「ダメ」と云わなければならない理性とがハリーを混乱させ、もう何も考えられなくなる。
「あぁあ、やあ、ああ...っ!」
 アーロンの固くなったモノを押し付けられながら、ハリーは扱かれ、欲を放った。
 その瞬間のハリーは、意識が飛び、目の前は真っ白で、麻痺したように音も聞こえなくなる。気付いた時には、いつもなら、アーロンがベッドに寝かせてケアをしてくれているが、この時は、アーロンの吐息混じりにハリーの名前を呼ぶ声が、聞こえた気がした。
───採取、できたかな、アーロン...。



 その産科医は、ふか~く息を吐いた。
 イライラを紛らわす為だ、という事は、アーロンにもハリーにも解かった。
 茶褐色の細い髪に、グリーンブラウンの瞳、くっきり二重瞼は昔から変わっていない。クレーメンス=ノイエンドルフはアーロンの大学時代の先輩だ。
「お前は、昔からそういうところがあったな、アーロン」
 額に当てた手を外して、彼はやっと云った。
「悪いがドクター、その...アレで妊娠は...出来るのだろうか?」
 ハリーも云いにくそうだが、結論を先に知りたい。クレーメンスは何度も頭を振りながら、「ええ、ええ」と答える。
───イライラしてるなぁ。
 その原因のアーロンが、他人事のように思った。
「一応、受精は出来ます。今、大学うちでいちばん上手い奴が作業をしてますから、ご心配なく、侯爵」
 イライラを隠さない医者の答えに、ハリーも安心半分だが、苦笑いも出ない。
 この雰囲気の原因はアーロンだ。
 卵子提供のコーディネーターに高額の報酬を払って、ランクの高い卵子をコーディネートして貰った。
 高学歴の白人女性で、ルーツもルックスも、卵子バンクの会社ではかなり高いランク。健康で若い女性の提供した、最高クラスの卵子だ。
 代理出産を引き受ける女性がベストな体調のこの日、示し合わせてこの大学病院を訪ねたアーロンとハリー。
 元々この話は、アーロンの子供が欲しい、と云ったハリーの要望で立ち上がった話だった筈。必要なのはアーロンの精子だったが、ハリーも一緒に来院した。それは特に問題ではない。が───。
「精液混ぜるとか、何やってんだ!?」
 ハリーにも、クレーメンスにも怒られたアーロン。なのにケロッとしている。曰く、
「神の意思に委ねたい」
「それ、本気で云ってるのか?」
 異口同音に云われる。
───そんなに目くじら立てて云う事かな。
 反省はしてないアーロン。
「ダメかな...?」
「なあ、アーロン」
 クレーメンスは、やっと落ち着いた───というより呆れてイライラもどっかに行った気持ちで、穏やかに話しかける。
「お前がクローンだ、て事は聞いた。その上で云うんだが、子供を作るなら、計画的である方が、親も子供も幸せだと、俺は思う。それはお前もよーく知ってると思うんだがな」
 修道院育ちのアーロンは、無計画で生まれた子供も周りには多かった。同じ修道院育ちの兄弟たちの中には、計画的に生まれた後で状況が変わり、預けられた子供もいた。しかしそれは、ごく僅かだ。
「そうだな...」
 反省したようにしゅんとなるアーロンに、クレーメンスはまた呼びかける。
「もしかして、自分がクローンだ、て事、気にしてるのか?」
「うん...かもな」
 曖昧に答えるアーロンの手を、隣に座るハリーが握った。それを握り返すアーロンの手を見て、
「なら、調べてやるから、来週にでももう一度来い」
 と産科医は云った。すると、あ、とかえ、とか声を上げるふたり。
「すみません、来週から新婚旅行なので、診ては貰えません」
 そういえば、看護師や患者たちが、そんな事を云っていたかも知れない。クレーメンスにはまだ信じられないが、後輩のアーロンは元摂政のハリーと結婚、したのだ。
「なら、旅行から帰って、時間のある時に来い。急ぐ必要はないからな」
「よろしくお願いします!」
 と力強く云ったのは、ハリー元摂政殿下。手を差し出され、握手をすると、見た目の女性っぽさからは想像しなかった強さで握り返された。
 来院した時もそうだったが、帰る際も、産科の待合室付近には、噂を聞きつけた病院関係者などが騒がしく集まっていた。
 ふたりとも立ち上がると、ハリーがアーロンの腕に触れる。気付いて目が合うと挨拶のような軽いキス。目の当たりにした看護師は、悲鳴のような小さな声を上げた。
「......」
 クレーメンスは声も出なかった。アーロンの笑顔が、彼の知っている後輩の笑顔ではなかったから。
───そうか。こんな顔するようになったか、アーロンこいつ
 診察室も病院も入る時と同じく、院長と理事長に先導されてバックヤードから出た。タイムリー過ぎるふたりなので。
 病院の地下駐車場に待機していた車に乗る。動き出すと、二方向からフラッシュが連射されたのが分かったが、どうしようもない。
「なんでしょうか、侯爵」
 フラッシュは気にならないが、ハリーの視線は気になるアーロン。
「いや。私は何もない」
「......」
 前を向いてしまうハリーに、アーロンは更にびびる。
───空気が、痛い...。
 自分に非があるので、アーロンはハリーを問い詰める事ができない。が、我慢にも限界はある。
「怒ってます?」
「...いや」
 ハリーは否定した。
───怒ってない、て云ったんだから、いいや。
 アーロンもシートに体を預けた。
 でもちょっと何か云いたい。なので、
「愛してる?」
 とハリーに問いかける。
「もちろん」
 答えるハリーの膝に、アーロンは手のひらを上に向けて置く。ハリーは素直に手を握った。
「クレーメンス=ノイエンドルフ、て云ったか、あの医者?」
「うん...?」
 口を開いたハリーの話題は、アーロンの先輩の事。
「機会があったら食事にでも誘おう」
「うん。いいよ」
 彼のどこが気に入ったのか分からないが、アーロンに異存はない。
 しばらく沈黙があった後、再度口を開いたのは、ハリー。
「気にしてたのか、クローンだと?」
 やっぱり、そこ訊きたかったよね、ハリー。アーロンはなんだかホッとする。
「いや。...思いつき」
「だと思った」
 ハリーもなんだか、ホッとしているようだ。そこでやっと、アーロンも話す気になる。
「なんか...もったいない気がして...ハリーのが」
「ばーか。───」
 アーロンの指に指を絡める。「どっちだって、ちゃんと愛せるよ、オレは」
「そういう意図はないよ、ハリー」
 アーロンは慌てて否定する。ハリーが生まれてくる子を選ぶかどうか、確かめたと思っているのだろうか。
 アーロンは握った手に力を込める。
「本当に思ったんだ。神の意思に委ねよう、て」
「ああ、そうだな」
 ハリーは穏やかに笑ってそう云った。
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