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鼓草―たんぽぽ―

4 アーロン、上司になる

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 ヘーゼルの瞳を見上げたハリーは、琥珀色アンバーの瞳を揺らして微笑んだ。
「アーロン...」
 見つめ合うだけで、今何を求めてるか解かる。今日のハリーはすごくキレイだ。それに───。
「今日はどうしてそんなに、カワイイの、ハリー?」
 愛しい唇を吸って、チュッと音を響かせる。伏し目勝ちのまつ毛に向かって、吐息混じりに囁く。
「めっちゃ心配した分、傍にいたいのかもな」
 いつものハリーじゃない。本当は嫌味の一つもぶつけたいのかも知れない。
「ハリー...」
 アーロンはハリーの白い頬を、指の背で撫でる。その手をハリーが捕まえて、唇を付ける。アーロンは更にその手を肩に回してハリーを抱き寄せ、もっと長く深くくちづけた。
「ふぁ...ん、ム...ん」
 吐息を聞きながら、口内を少し乱暴に探る。上顎をくすぐり、舌先を絡め、味蕾を擦り合わせる。
 ソファの上で少し身を捻っているアーロンは、傷の痛みで、決してキスに溺れる事はない。そのせいで、身動きできないもどかしさを痛感させられる。
「どうしよ、ハリー。夢中になりたい」
「傷、痛む?」
 うん、と答えながら、ハリーの手をアーロンは胸に当てる。胸の鼓動が伝わっている筈。
 するとハリーもアーロンの手を取り、同じように、自分の胸に当てた。
「分かる?」
 アーロンは眉を寄せ、首を傾げる。
「分かりづらいな」
 そう云って、ハリーの服の裾に手を入れた。
「ちょっ、ばか、ぁ...んっ」
「ほぉら、そうやってオレを誘う」
「ちがっ...ぁはあ...ん」
 ハリーの声と仕草と表情が、アーロンを煽る。アーロンの中心は熱くなるのに夢中になれないのは、傷のせいだけではない。今もどこかで、12歳と16歳の少年が、助けを求めて耐えている筈だ。
 止まったアーロンの手に気付くハリー。
 アーロンの頬に手を伸ばし、眉をひそめる。両手で頬を包み込み、その手を上にずらして額に当てる。
「お前ちょっと熱あるんじゃないのか?」
「そういえば、抗生物質飲まなきゃいけない。───」
 と云いつつテーブルに目を止める。「ワイン呑んじゃったな」
 頭をかくアーロンの肩にハリーが手を置き、
「何か食べて、もう寝ろ、アーロン」
「何か、て...」
 テーブルの上の皿を見渡す。血や肉になるタンパク質など見当たらない。
「チキンスープでも頼むか? ステーキの方がいい?」
 世話を焼こうとするハリーに戸惑う。
───本当に熱かな? ハリーに興奮して熱くなってるんじゃないのか?
 自分でも額に手を当てるアーロンだが、そんな筈はない。自分が熱を出すなんて。
「食事はいいよ。ありがとう、ハリー」
 体の調子よりも懸念の方が比重が大き過ぎて、食欲も湧かない。眠れる気もしない。
───でも、ハリーに心配はかけられないよな...。
 アーロンの言葉を待って、じっと見つめるハリーが傍にいる。
「まだ早いし、眠れるか分からないけど、取り敢えず横になるよ」
「そうだな。それがいい」
 ハリーはいそいそとアーロンの手を取って、ベッドへ連れて行く。
「ハリーのベッドでいいの? 夜中とか明ける前に起きるかも知れないよ?」
「オレの事は気にするな。それとも、お前の部屋に戻るか? それならオレも行くぞ」
 アーロンは思わずハリーを抱き寄せる。
「心配し過ぎだよ、ハリー」
「一緒にいる」
 キュッと腕に力を込めて、ハリーはアーロンの襟元に顔を埋める。
「じゃあ、支度して。オレ目が覚めたら医療教育をパソコンで受けるかも知れないから」
「寝なきゃダメだろ」
 6センチ下からハリーは睨む。アーロンは笑って、
「抜け出したくなったら困るだろ」
 ハリーは途端に渋い顔をする。
「大丈夫、抜け出したりしないよ。ハリーがこんな顔になっちゃうから」
 しかめた眉間に触れようと伸ばした指に、ハリーは嚙み付こうとした。アーロンは慌てて指を引っ込めて、ふたりで笑い出した。



 結局、翌朝早く起きたものの、アーロンが夜中に抜け出す事はなかった。
 といっても、ハリーが起きた時には、アーロンはパソコンにかじりついて、医療教育を受けているようだったが。
「おはよう、ハリー。今エアコンつけるよ」
 ハリーに気付いたアーロンは、手を止めてパソコンの前から離れる。まだベッドにいるハリーの傍に立ち、ダークブロンドのこめかみにキスをする。
「ちゃんと眠ったのか? 傷は?」
 ハリーには、心配する事しかできない。自分の痛みではないし、アーロンの立場上、大事を取るという事はない。本人は無理を無理とも思わないし、実際は本当に大丈夫なのかも知れない。
 だからアーロンが次に何を云うか、分かっていた。
「大丈夫。よく眠れたよ。ハリーのお陰」
 婚約者は高身長を二つに折って、ハグをしてくる。いつ起きたのか、支度はすっかり済んでいて、襟元にフレグランスを感じる。
「朝食の用意をするから、支度して、ハリー」
「分かった」
 ハリー的にも早く寝たので、睡眠は充分に取れた。ゆっくりめの動作でベッドから降りて、シャワールームに入った。
 ワイシャツ姿で戻ると、既に食事の用意ができていた。ハリーの部屋付のメイドや給仕が、アーロンのアルテミスの間で、甲斐甲斐しくも優美な仕草で仕える。
 ダイニングテーブルに着くと、アーロンがサラダを取り分けながら云った。
「待ってる性分じゃないから、伯爵の所で情報収集しようかと思うんだ」
「いいんじゃないか?」
「本当?」
 予想しなかった答えだったのか、アーロンはハリーを見つめて云った。今朝はもう元気そうな顔だ。
「運転手を付けてやる。王宮の車で出かける時は、今後はそうしろ」
「ん。分かった」
 ハリーの言葉に、オレンジジュースを口に含んでいたアーロンは、慌てて返事をした。
 一瞬の沈黙。ハリーはアーロンが考えていそうな事を、先に云う。
「確かに単独行動をさせない、て理由もある。もう一つ、人を使う事も覚えろ」
「秘書?」
「まあ、そんなところだ」
 アーロンは割りと、メイドや執事に対して『みんな友達』みたいな扱いをする。今まではそれでも良かったが、ハリーの婚約者という肩書きができた以上、位の上下ははっきりさせなければならない。下位の者も、その方が対応し易い。
「オレの知ってる人かな?」
「どうだろうな。陛下からのお達しで、陛下御自ら手配なさった者だ。イブラントここで会ってるかもな」
 アーロンにはそう云ったが、カミルの性格上、アーロンに合わなそうなタイプを差し向けるだろう。アーロンに対して難しい課題を出すのではと、ハリーは予想していた。
 ヴァルターがいい例だ。
 カミルがヴァルターを連れて学校に入学すると決めた時、学校のレベルを自分に合わせた。当然それは、世界的にかなり高レベルな学校で、それまで学校に通っていなかったヴァルターにとっては、常にタイトな授業内容だったらしい。最初の一年は特に苦労しただろうと、皇太后が云っていた。
 まあ、後々ヴァルターに聞いてみると、カミルに助けを求めたら喜んで付き合って、親身になってアドバイスをくれたらしい。カミルの為なら自分の命も惜しまないヴァルターだから、多少話は盛っているだろうが、かなり嬉しかったようだ。その話をした時の、彼のはにかんだ顔がハリーには印象的だった。ヴァルターもこんな顔をするのか、と。
 それは余談として、アーロンに付けるお目付け役は、ハリーも知らない。名前も聞いた事がない。どんな奴で、───てゆーか、かわいい男の子じゃなければいいけど...。
「そうだアーロン、良い知らせもあるぞ」
「なに? プロポーズ受ける気になった?」
 最近聞かなかった言葉。この場で云う、て事は、明日はなしかな?───ハリーはチラッとそんな事を思いながら、
「それと比べると、大した事ないな」
「じゃあ、なに?」
 アーロンは思い切り眉をしかめて見せた。ハリーは笑って、
「王宮の修繕が済んだ。いつでも引っ越しできるぞ」
「だから、てまさか明日とか云わないよね?」
 デートの日はつまり、ふたりとも仕事が休みだという事。仕事がないなら、心置きなく引っ越しに専念できる。
「いい加減に慣れろよ、アーロン。引っ越しの作業は、執事たちがやる。見られて困る物があるなら、箱に入れてそう書いておけ」
 ハリーはそう云って、オムレツを一口。
 アーロンは未だになんでも自分でやろうと思う癖が治らない。こちらが信頼して全てを預けないと、向こうもこちらを信用しない。
「いや。見られて困る物なんてないよ。ハリーの云う通り、人にやって貰う事に慣れてないだけ」
 アーロンはそう云って肩を竦めた。
「明後日からA国への外遊だがら、その最中に引っ越しをして、帰国したら王宮に戻ろうと思う。問題ないだろ?」
 若干の間の後、アーロンは「うん」と返事をした。ハリーが目だけを向けると、アーロンは僅かに渋い顔をしていた。
 ハリーはナイフとフォークを置いた。
「昨日の件が気になるのは解かるが、必要なのは情報だ。それと、上に立つ者は常に落ち着いていなければならない。解かるな、アーロン」
「はい」
 アーロンもナイフとフォークを置いて神妙に聞いていたが、返事をする頃には口角が上がっていた。真面目に聞いてるのか?
 こうなるとアーロンは、本心を胸の奥に隠して、決して表に出ないようにする。心を閉ざすという訳ではなく、議論をやめると云った方が正確だろう。
 それが解っているハリーは、片眉を上げて婚約者を見つめた。アーロンは吹き出すように軽く笑って、
「ご安心下さい、殿下。私も明日は楽しみですから。今日は伯爵に付いて、しっかり学んで帰ります」
 そうやって調子よく答えるアーロンを、咎める事はできない。でも絶対に何か考えてる。あれはそういう顔だ。ご安心下さい? 全っ然安心なんかできるもんか!
「失礼します、ハリー殿下。───」
 珍しく、執事が割って入った。「アーロン卿付の運転手が参りました」
 ハリーとアーロンは、顔を見合わせる。
「応接室に通してくれ。食事が済んだら行く」
 執事は一礼して出て行った。



 アーロンとハリーはゆっくりと食事を済ませた。
 応接室でも、アーロンとハリーのふたりで挨拶を受けたが、ハリーは二言三言、アーロンに対する注意をしただけだった。
 この日のハリーは、彼の執務室でデスクワーク。アルテミスの間から摂政を送り出すと、アーロンは伯爵に連絡してイブラントを出た。
 マルガレータ=アイゼンシュタット。それが運転手の名前だった。
───まさかの女性だな。
 しかも30代半ば。ハリーがヤキモチを妬かないタイプだ。黒のスカートスーツにヒールの高くないパンプス。さして美人という程でもなく、細身ではないが肉感的でもない。履歴書にもあるが、軍所属だ。ガタイがいい、恰幅がいい、イカツイ...どれも女性の表現としては適切じゃないし、ディスってるみたいだ。えーと、丈夫そうな、かな?
 まあアーロンとしては、運転技術があって格闘がそこそこできれば合格だ。いや、あと肝心な事が一つ。
「陛下からは、どう云われているのかな、マルガレータ?」
 後部座席から話しかけると、
「アイゼンシュタット少佐とお呼び下さい、アーロン卿。───」
 運転手は前を向いたまま、「カミル陛下には、自分は謁見しておりません」
 硬いなぁ。アーロンの好まないタイプだ。
「指示をされた時、なんて云われたんだ?」
「辞令です。本日付けで、アーロン卿の運転手を任命されました」
 挨拶の時と全く同じことを、彼女は繰り返した。アーロンは、含み笑いでアルテミスの間を出て行ったハリーの顔を思い出した。
───軍の命令には絶対服従なのかな?
 アーロンは試しに訊いてみる。
「例えば私が、タバコを買って来いと云ったら、買って来てくれるの?」
 口調も崩してみる。するとマルガレータは、
「はい。銘柄を伺えますか?」
「今のは例えだよ。私はタバコは吸わない」
 アーロンは窓に顔を向けて、苦笑い。改めて前を向き、
「ではこれも例えだが、私がスパイをしろと云ったら、するのか、少佐?」
「それは、国家に背くような内容でしょか?」
 一瞬の間の後に、少佐は答えた。声のトーンも下がってしまった。アーロンはクスッと笑って、
「もしそうなら、どうする?」
「直ぐに卿を拘束し、上官に報告します」
 ですよね~。
「ではもう一つ。今そこで引ったくりを目撃したとしよう。捕まえろ、と云ったらどうする?」
「車を停めてもよろしいでしょうか、アーロン卿?」
 マルガレータはアーロンの許可を得て、車を停めた。シートベルトを外してアーロンに顔を向ける。そして改めて、
「質問の意図を伺ってもよろしいでしょうか、アーロン卿?」
 よっしゃ、つかみはオッケー!
 アーロンは自分の顎を軽く摘んで、ニヤリと笑った。
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