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鼓草―たんぽぽ―

3 包囲網

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 大人がいなければ子供は生きられない。
 しかし大人だって完璧ではない。アーロンの主張は理想でしかない。甘いというより、青いという方が合っているだろう。
「理由なんてどうでもいいんです。子供には何もできないから、助けたいんです。私にできるなら」
 伯爵はフッと笑って何かを云おうとした。が、エッケハルトが来て阻まれた。
「アーロン...」
「気をしっかり持ちなさい。ヴェンデリンを探して市街に出てしまったのかも知れません。あなたは自宅に戻って、イェルンの帰りを待っていて下さい。いいですね、エッケハルトさん」
 アーロンの励ましを傍で聞きながら、ヴァルターは胸の内でツッコむ。───あなたもですよ、アーロン先生。
 憔悴するエッケハルトを支えながら、ヴァルターとイェルンの捜索を警察に任せる。
「家まで送ります、エッケハルトさん」
「車はどうするんです、アーロン先生?」
 ヴァルターが聞き咎めて口を挟む。アーロンとエッケハルトはそれぞれ別の車で来ていた。
「また、後日取りに来ます」
 まあ、確かに、今のエッケハルトに運転は心配だ。ヴァルターはため息をついて、
「リヒター家から先は、私が先生を送ります。イブラントの公用車は、別の者に運転させますから」
「伯爵はどうぞ真っ直ぐご帰宅なさっ───」
「先生を野放しにはできませんから!」
 珍しく強い口調のヴァルターに、アーロンは大人しく従った。



 イブラントに戻ると、まずはハリーへの報告。
「よく、真っ直ぐ帰ってきたな」
 何故か褒められた。ひどく安心した顔だった。
 ハリーにも説明はしたが、正確には真っ直ぐではない。
 エッケハルトを送って家族に事情を説明すると、予想通りプチパニック。アーロンに縋って探してと泣きつかれるが、ヴァルターが立ち塞がった。
「警察は早い段階で捜索に入っています。巻き込まれたのだとしても、ご子息の件は突発的な事象ですから、専門家に任せておくべきです」
 厳しい口調に、誰も何も云えなかった。伯爵はエッケハルト個人にも、
「あなたも二大公爵家の出なら、こんな時こそ動揺すべきではない筈です。情報は逐一お伝えしますので、何事も冷静に対処なさって下さい」
 リヒター家を出る時には、一家は半分呆然としていた。
 もしも誘拐であった場合、イェルンに関して何らかの接触がある筈だ。その時の為に警察が何人か待機するので、アーロンは後ろ髪を引かれる思いで、リヒター家を後にした。
 ハリーはプライベートルームにアーロンを連れて行く。
「まだ着替えてないよ、オレ」
「いいよ。着替えたいならオレのを貸す」
 いやいや、着替えを要求するのはハリーの方だろ。
 アーロンがソファに座らされると間もなく、メイドがワゴンを押して入って来た。紅茶かと思ったら、白ワインだった。
「食事もまだなのに、もう飲むの、ハリー?」
 メイドが下がるのを待って、アーロンは訊いた。ハリーはグラスにワインを注いでいる。
「何か食べたいのか? 云えば持ってこさせる。何が食べたい?」
 規則正しい生活を心がけるハリーの為に云っただけで、何かを口にすれば、アーロンはそれでいい。まあ、確かにワインの他にも、カプレーゼや、カナッペ、ドライフルーツ、チーズの盛合せなども広げられている。アーロンには充分過ぎるくらいだ。
「呑みたいんだ。ダメ?」
 どうしたどうしたどうした? なんだその、あざと女子みたいな云い方?
「疲れてる...よね?」
 確認するアーロン。昼に会った時も、こんな会話をしてたな。そうか。ハリーは疲れてるんだった。
「帰って来ないつもりだったんじゃないか、アーロン?」
「そんな事ないよ」
 ソファのアーロンの膝に乗るハリー。向かい合わせになって見つめ合うと、アンバーの瞳の虹彩まで鮮明に見えてしまう。
 ハリーはアーロンの顎を掬って上向かせる。ワインを口に含むと、唇を合わせた。
「んむ...ん」
 ハリーの口内でぬるくなった液体が、アーロンの中に入って来る。微かなフルーツの香りとスッキリしたのどごしの後に、うごめく舌が口内を支配する。アーロンの大きな手は、ハリーのダークブロンドの髪を逆撫でするように襟足を這う。
「ふぁ、ぁ...ン」
 角度を変え、舌を絡め、吐息を合わせる。
「食事も仕事なのに、珍しいな、ハリー。そんなに───」
「呑みたい、て答えじゃ不満か、アーロン?」
 ハリーの眉がピクリと動く。───あれ、ハリーのご機嫌...?
 アーロンは気付くのが遅かった。
「お前が勝手に動き出さないように、呑ませてんだろーがっ!」
 あああ、やっぱり怒ってるー!
 ハリーはアーロンの顔を睨みながら、左手を這わせて脇腹を押す。
「いてててっ!」
 身を捩るアーロン。
「いくらアーロンでも、昨日の銃創が今日治る訳がない!」
 ニコルには、アーロンは打ち身と掠り傷で済んだ、と伝えていた。が、その掠り傷は銃によるもの。程度がある。頬の傷は痒い程度になっていて、痕も残らなそうだ。足の方は大きな絆創膏でも貼っておけば気にならないくらいだったが、右の脇腹の傷は、出血が酷かった。ニコルと同じ病院で五針も縫う手術をして、入院せずにイブラントに戻った。
 朝、仕事と云ってカミルが呼び出したが、ついでに説教も食らっていた。自ら火に飛び込むのではなく、人を使う事を覚えろと。
 だから、それを一緒に聞いていた伯爵も、アーロンをまるで見張るように行動にうるさかったし、子爵も同じく、電話で釘を刺していた。
 アーロンには云わないが、ハリーだってカミルから説教された。パートナーの手綱も取れないのか、と。
 まあ、ハリーのイライラは、カミルの説教とは関係ない。摂政の職務が完了するという時期に、未だに事件に関わって怪我をしているアーロンが心配で仕方ないだけだ。
 ハリーはアーロンの栗毛を抱き寄せて、キスをする。
「頼むから、じっとしててくれよ、アーロン」
「ハリー...」
 アーロンは顔を上げて、「帰って来ただろ、ちゃんと」
「伯爵が送ってくれなかったら、どうするつもりだったんだ?」
 読まれてる。まあ、アーロンの行動パターンくらい、ハリーならお見通しだ。
 答えられないアーロンに、ハリーは畳み掛ける。
「ニコルの件で、まさかこんな無茶するとは思わなかった。お前は知り合いの全てを助けられると思ってる。ちょっとは落ち着けよ」
 焦ってるつもりはない。ハリーの云わんとしているのは、カミルと同じなんだろう。
「ごめん。努力はする。ただ、エッケハルトの───」
「助けるな、て云ってるんじゃない。お前が現場に行かなくてもいいだろ!」
 ハリーだって事情は知っている。ハリーの云ってる事は正しい。そして、ハリーが心配するのも解かる。
 でも、落ち着いていられないアーロン。ヴェンデリンもイェルンも、今この瞬間、どんな目に遭っているかも分からない。それなのに、婚約者と酒を呑みながらイチャイチャしてはいられない。
「じゃあ、情報収集なら、してもいい?」
「どうやって?」
「取り敢えず...伯爵に、訊く」
 ハリーはちょっと残念そうに、アーロンの膝から降りた。それを見咎めて、アーロンはハリーを呼び止めて、軽くキス。ハリーは一瞬目を伏せ、微笑んだ。
───なんか、今日はかわいいな、ハリー。
 そんな風に思いながら、アーロンはスマホを手にした。
 伯爵はすぐに電話に出て、事細かに教えてくれる。
『作業員が一人、行方不明なので、身元の確認をしています。それと、イェルン=リヒターのスマートホンが見つかりました』
「ぁっ、どこでですか!?」
『公道から子爵邸への道に差し掛かる分かれ道の草むらです』
 アーロンは残念なため息をつく。
 さすがに、イェルンがスマホを持っているかどうか、攫う側も確認するだろう。
「GPSの信号はいかがですか?」
『所々で反応があったようです。しかし、居場所の特定には至っていません』
「そうですか...」
 アーロンは傍で見ているハリーにも分かる程、落胆する。それは電話口のヴァルターにも伝わったようで、
『エッケハルト=リヒターもかなり落胆しているようですが、むやみに訪ねたり、連絡したりしないで下さい、アーロン先生』
「しかし...」
 こんな時こそ、友人として力になりたいものだ。
『リヒター家では誘拐対策の為に、警察が詰めています。家族ではない者は遠慮して頂かないと対応に困ります』
 アーロンはため息をつき、分かりました、と力なく答えた。ヴァルターは電話口から呼びかけて、
『今後、私から情報を逐一伝えます。ヴェンデリン=コールの事を知る人は子爵家の三人しかいませんし、リヒター家と先生とは親しい間柄ですよね。だから間違いなく、先生のお力を借りる事になると思います。それまで、勝手な行動だけは控えて頂きます。よろしいですね、アーロン先生』
「はい、もちろんです、伯爵」
 リヒター家との連絡もするな、と再度念を押されて、ヴァルターは電話を切った。
───なんか今回は、しつこく釘を刺されるな。
 と、スマホを見下ろしながら思っていると、
「分かったか、問題児?」
 ハリーが云った。白ワインを片手に、まるでポートレートのようにポーズが決まっている。が、目が笑っていない。
「オレ、問題児か?」
 確かに今の扱いは問題児みたいだが、アーロンに問題を起こしている自覚はない。
「じゃなきゃ、トラブルメーカーかな」
 あんまり変わらない。
 アーロンは憮然として椅子に座ると白ワインを一気にあおった。
「トラブルを起こしてなんかいないだろ。昨日の事だってニコル様のトラブルだし」
「でも、何か大きな事件が起こると、お前が首を突っ込んでる」
 誰のせいだよっ! と云いたい気もするが、自分から首を突っ込むのも事実だ。
「昨日の件でも、お前はニコルを捕まえて戻ればそれでよかった筈だ。直接の原因ではないかも知れないが、死人が出たし、お前も怪我をした」
 ニコルが怪我をしていたかも知れない。そう反論したいが、ハリーやヴァルターが問題にしているのはそこじゃない。アーロンにも分かってはいる。
「でも、オレは丈夫だし、傷だってすぐに治る。その能力ちからがあるのに、指を咥えて見てはいられないよ」
 ヴァルターに云った事を、アーロンは繰り返す。ハリーは頭を振って、婚約者を切なく見つめた。
「お前はもう、オレの為だけのお前じゃないし、お前の体はお前だけのものじゃないんだ」
 だとしても、アーロンの体は丈夫だ、と云った筈だ。
「なんだよ」
 と不機嫌に返すと、ハリーは席を立ってアーロンの隣に座る。手を握ってアンバーの瞳をアーロンに向ける。
「こんな云い方、お前は嫌だろうけど、お前はオレの婚約者だ。オレの婚約者という事は、王族の婚約者なんだよ」
 ああ、そうか。アーロンはゆっくりと額に手を当てる。
───王族の者がむやみに事件に首突っ込んで、何か起きたらそりゃ問題だよな。
 昨日の件は過ぎた事で何も云えないが、これからの事は何とかできる。だから口酸っぱく云うのだ。伯爵もハリーも。そして国王や子爵までも。
 昨日は、何針も縫う傷の事は、ニコルには隠した。アーロン的にはニコルに罪悪感を持たせない為だったが、ハリーやヴァルターとしては、王族の婚約者が事件で怪我をした、なんて事は、国民に知られる訳にはいかなかったのだ。
 何故なら、巻き込んだニコルがバッシングを受けるか、またはアーロンの軽率さを疑問視されるか、どちらかだからだ。
「フリートウッド家に傷を付けたくない、ていうラファエルの意図でもあるんだけどさ」
 ハリーはもう、フリートウッド家とは殆ど無関係だ。しかし、イメージ的には、いつまで経ってもフリートウッド家の末っ子だ。
 公爵家が二つあるのは、互いを牽制する役目もある。その片方の地位を下げればバランスが取れなくなる。
「微妙な立場なんだ。お前は望んでないだろうけど」
「いや。ごめん、ハリー。オレに自覚が足りなかった」
 アーロンはそう云って、もう片方の手をハリーの手に置いた。
「結婚式は注目されると思ってるみたいだけど、それだけじゃない。この先ずっと、一生、オレの傍にいる限り、お前の事も誰かが見てるんだ、アーロン」
 辛さと諦めの表情で視線を逸らすハリーを、アーロンは笑って覗き込んだ。
「辛い事は、ふたりで分け合って、一緒に乗り越えて行くんだろ、夫婦、て」
 ヘーゼルの瞳を見上げたハリーは、琥珀色アンバーの瞳を揺らして微笑んだ。
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