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オンディーヌ

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「ねぇ、聞いてる?」

久々の練習休みの日曜。

直也は映画館が併設された商業施設のフードコートにいる。

目深にキャップを被り、伊達メガネをつけている。

被り慣れないキャップが鬱陶しく、伊達メガネも性に合わず、サッサと脱ぎたかったが、コーチの命令だ。

“お前は自分が思っているよりも顔が売れてしまっている。彼女と会うなとは言わない。が、頼むから目立たないようにしてくれ”

ま、外出禁止にされるよりマシか、、、

直人は思う。

事実、この数日、自宅や学校の門の前に取材の記者が現れて閉口している。

彼らに言わせると、学校やスイミングクラブに申し込んだ取材に許可を与えないから、突撃するしかないらしいが、直人は放っておいて欲しいと思う。

取材は同じことしか聞かないし、直人には、水泳愛に溢れる純朴な少年アスリート像を求めてくる。

鬱陶しいこと仕方ない。

今日だって、気晴らしに出かけるのに、周囲に記者がいないかを気にしながら、コソコソとこの施設までやって来たのだ。

「ねぇっ!聞いてるのっ?って聞いてるの!」

覗き込んできたのは、百合香。

長い髪、愛らしい顔立ち。

2人は高校入学したてからの公認カップルだった。

美男美女のカップル。

「あ、あぁ、聞いてるよ、今度の公演のことだろ?」

直人は慌てて答える。

だが、軽く上の空だ。

百合香は地元の劇団に入っている。

昨年、その劇団が上演した『ハムレット』で百合香が演じたヒロインのオフィーリアが評判を呼んだ。

4日間の公演だったが、最終日には東京の演劇関係者や芸能事務所のスカウトも彼女の評判を聞き地方の劇場を訪れたらしい。

それに気を良くした演出家は、次回作を百合香主演で上演すると、公言していた。

「そう、『オンディーヌ』ってフランスの戯曲を上演することになったの」

「へぇ、、、」

「とても難しい役。だって、人間じゃないんだもの」

「人間じゃない?」

「水の精霊なの。オンディーヌって、人間の騎士に恋をしてしまった水の精の役なのよ。水の精霊ってどんな感じなんだろ。人間とは違う雰囲気を醸し出せって演出家には言われたんだけど、想像できなくて、、、」

直人の目が開かれる。

水の精霊、、、

水の精霊は女性?

椅子の背にもたれていた上半身が前に乗り出す。

その直人の反応を、自身への反応と勘違いした百合香は話し続ける。

「純粋で、天真爛漫で、人間のお世話や社交辞令が通じない情熱的な役。演出家が色々な台本を読んで、今の私にぴったりの役だって選んでくれたんだ」

「水の精、、、オンディーヌ?」

「そう。水の精霊オンディーヌ。ドイツ語ではウンディーネって言って、4大精霊のうちの1精霊。ジロドゥっていう劇作家が書いた名作なんだけど、古い作品だからセリフ周りも難しいんだ。演出家が今時の言葉遣いに書き換えてくれてるんだけど、今からプレッシャーなんだ」

百合香は憑かれたように話し続ける。

人間じゃない透明感と躍動感を求められていること。

昨年の『ハムレット』を観た重鎮プロデューサーが、夏の終わりの公演の出来次第で来年の春に行われる演劇祭の候補にしてくれるということ。

高校を卒業したら劇団のオーディションを受けて舞台女優になるという夢が一歩近づくということ。

だが、直人の頭の中は、水の精霊のことでいっぱいだった。

“ヒメ”は、水の精霊なのか?

“ヒメ”は、“オンディーヌ”?

精霊ということは、妖怪とは違うってことだよな、、、、

俺のタイムが縮まったのは精霊のおかげ?

“ヒメ”、、、

「、、、だから、直人も、一回くらいでいいから公演を観に来てよね。トレーニングで忙しいのはわかるけど、一回くらい」

「もちろん行くよ」

直人は答える。

百合香の目に不審そうな色が浮かぶ。

直人の本心を探っているようだ。

この春頃から、直人と会う回数は目に見えて減ってきていた。

それが、水泳のトレーニングに打ち込んでとのことだとは分かっている。

だが、2人で会っている時に上の空の表情を浮かべることが以前よりも多くなっている。

自分に飽きが来ているのだろうか、、、

百合香はレンズのない伊達メガネの奥の直人の目を見る。

直人が怯んだような表情を浮かべる。

「『オンディーヌ』は、悲劇で終わるの。オンディーヌに愛を誓った騎士が、彼女に飽きて他の人を愛してしまうとその騎士は死んでしまって、オンディーヌの記憶も無くなるの、、、」

直人を試すように百合香が良く通る声でゆっくりと話す。

騎士はオンディーヌへの愛を誓いながら他の女に心を移し、破滅した。

直人、あなたは?

そんな問いが言外に含まれているようだ。

潤んだ黒い瞳が直人を見据える。

だが直人は百合香の意図に気付かない。

百合香の潤んだ瞳がたまらなく愛おしく感じられた頃が直人には確かにあった。

が、今は、彼女と一緒にいる時間が、無味に思えてきている。

直人の脳裏には、山裾の古びた屋外プールの光景、その水の感触ばかりが過ぎる。

百合香との時間は、これまでの惰性に過ぎない。

早く夜中になれ、、、

“ヒメ”と心置きなく泳げる時間になれ、、、

休養、リフレッシュも大事ということから、今日は、簡単なストレッチを除き、体を休めるよう言明が下っている。

それは、直人にとっても好都合だった。

昨夜はいつもより長く“ヒメ”のいるプールで過ごし、昼間は体を休め、そして、今日も深夜に“ヒメ”と会いに市営プールへ行くつもりだ。

百合香と出掛けてきたのは、今まで部活の無い日は必ず会っていて、今日に限って特に断る理由もない程度のことだった。

「ね、そろそろ行こう。もう映画の入場が始まるよ」

飲み掛けのドリンクを片手に2人は立ち上がる。

シアターへの入り口に向かう2人を振り返って見る人がいる。

共にスラッとしたスタイルの2人は似合いのカップルだ。

2人が坐ったのは一番後方の列の席。

チケットは百合香が予約した。

客席に並び、百合香が意味有り気に直人の顔を見る。

が、直人の表情は変わらない。

落胆したように百合香が前を見ると、ゆっくりと客席の照明が落ち、コマーシャルの映像が流れ始めた。

そこは、2人が付き合いたての頃に座った席。

その時は直人がチケットを用意していた。

恋愛映画だった。

“俺、座高が高いから後ろに人がいると気になっちゃうんだよね”

“前より後ろの方がゆっくりと見られるから、私も後ろで見るのが好きなの”

まだヨソヨソしさの残るぎこちない会話だった。

始まってしばらく経ち、肩に軽く直太の肩が当たる。

百合香はドキッとする。

そして、それを期待していたのかもしれない自分に気付く。

避けるべきなのかどうか分からなかった。

鍛えられた直人の固く肩の感触が熱い。

百合香は、高鳴ってきた自分の鼓動が直人に聞かれないか怖かった。

だんだん、百合香の肩にふれる直人の肩が重くなっていく。

百合香は映画の内容が全く頭に入らない。

そして、百合香もそっと重心を直人の方に寄せる。

しばらく2人の間の時間が止まる。

百合香に触れていた直人の腕が動き、すっと百合香の手のひらに直人の掌が重ねられる。

その太く熱い男らしい指を、細い指で受け入れる。

若い2人は手を握り合った。

百合香が用意したのは、そんな思い出の席。

直人が好きなアドベンチャー物。

始まってすぐ隣から寝息が聞こえてきた。

頭は前に傾いている。

肩に乗せてくれてもいいのに、、、

百合香は、直人は練習で疲れているんだ、疲れている中、私に時間を割いてくれたんだと自分に思い込ませようとしていた。







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