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水の中の異形

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深夜。

住宅街は暗く静まりかえっている。

路地を黒い影が通り過ぎる。

無灯火の自転車だ。

やがて家が途切れだし、畑が多くなるとポツッとライトが点灯される。

楕円形に白く浮かび上がる路面。

スゥッと狭い脇道に曲がる。

アスファルトから剥き出しの地面に変わる。

虫の鳴き声の重奏が増していく。

次第に勾配が上がり、それにつれ砂利も多くなる。

道の傍に暗闇に蹲る施設の影が現れる。

反対側は木々に覆われている。

そして、通りから見れば施設の裏側に当たるコンクリートの壁と草が繁る急な山肌の間に捻り込むようにライトが入る。

キッ

小さな音がする。

自転車のブレーキ音だ。

ライトが消える。

黒い人影が進む。

カサカサと雑草を踏んで歩く音が聞こえる。

しばらく塀の横を進むと、ブロック塀は金網に変わる。

黒い人影が飛び上がり、金網の上部に飛びつくき、登る。

そして、金網の天辺に手をかけ身を引き上げると軽やかに内側に飛び降りた。

ポツッ

懐中電灯が灯される。

その光に浮かび上がったのは直人だ。

そして、光の先に照らされたのは穏やかな水面、、、

古い市営の屋外プール。

プールの端、スタート台の傍まで進むと、直人は懐中電灯の灯を消す。

再び月と星々だけが照明の闇に戻る。

闇の中、直人は無言でTシャツに手をかけると素早く脱ぎ捨てる。

そして、靴、ソックス、スウェットと脱ぎ捨て、一糸纏わぬ産まれたままの姿となる。

低く短い水飛沫の上がる音。

直人が夜のプールに飛び込んだのだ。

水音は一度きりで辺りは再び静まり虫達が無心に鳴く声にプールは包まれる。

月と星が照らす中、水中を直人のしなやかな身体が水を掻き進むのがうっすらと見える。

息継ぎをせず進んでいく。

“ヒメ”、、、

直人の腕が水を掻く。

ヒラヒラと水を蹴る脚が後方にうねりを作る。

胴がしなり水の振動を受け止めようとする。

“ヒメ”は恥ずかしがり屋だ。

いや、高慢と言っても良いかもしれない。

なかなかその姿を現さない。

だが直人が全力で泳ぐと、限界を超えようとすると現れる。

50メートルを泳ぎ終え、直人が顔を出す。

ブハァッ!

直人が大きく口を開け、酸素を取り込む。

数度深呼吸をすると、再び水に体を沈め、脚で壁を強く蹴り、水中を進み出す。

“予兆”がやってくる。

プルプルとした水の塊、、、水の泡のような感触のものが水中に現れ、直人の身体を撫でて消えていく。

直人は水を掻く腕の、脚の力を増す。

ウォーミングアップなど練習のメニューは全く頭には無かった。

ただ、泳ぐだけ。

必死で泳げば“ヒメ”は現れる。

その瞬間を待ち直人は全力で身体を動かす。

昼間の練習で疲れた身体だったが、新たな力が芯から湧いてくる。

“ヒメ”、、、

直人はひたすらに全身で水を掻く。

息継ぎは最小限に留め、泳ぎ続ける。

直人の素肌を掠める水の塊は次第に大きさを増していく。

それが小さな水の泡達がくっついて大きくなっているのか、それとも新たな塊が生じてきているのか、直人には分からなかった。

だが、確実に直人の肌の表面を撫でる水の感触がしっかりと確実なものになっていくのは分かった。

そして、待ちに待ったその瞬間が訪れる。

柔らかで暖かい水の塊が直人の身体を包み込む。

“ヒメ”が現れた。

直人は意図的に右腕の水を掻く力を強める。

そうすればゆったりと弧を描き、無粋なコンクリートの壁に行手を阻まれることなくプールの中を泳ぎ続けることができる。

ゆっくりと直人の身体がプールの中で楕円形を描いて進む。

“ヒメ”、、、、

水の塊は優しく直人を包みその動きに寄り添う。

直人の肌を水の塊が優しい感触で撫でていく。

その感触の優しさを一瞬でも長く味わうために直人は泳ぎ続ける。

“ヒメ、俺、次代を担う逸材とか褒められちゃってるんだ、、、”

直人は心の中で呟く。

素肌に伝わる波動は、喜びを直人に伝える。

“ヒメのお陰だ。ヒメが俺のトレーニングを見守ってくれているおかげだ”

クスクスと笑うようなこそばゆい波動。

直人を誘うように水の塊は前方へ流れる。

直人も全身の動きを加速する。

素肌を包む水と追いかけっこを始めたような状態。

波動を全身に感じながら直人は充実感を味わっている。

この古びた屋外プールには、幼い頃によく来ていた。

直人は昔から水泳が好きだった。

その当時、子供が気軽に来ることができるプールは市街地の外れ、山の麓に造られた市営公園の奥に設置されたこの屋外プールだけだった。

四角い競技用の無味乾燥なプールだったが、夏になると子供達の格好の遊び場になっていた。

最初の頃はどのくらい顔を水につけて息を我慢できるかを友達と競った。

やがて見よう見まねで始めた泳ぎも様になっていき、距離も伸びていく。

初めて50メートルを泳ぎきった時の嬉しさは忘れられない。

今にして思えば、その頃から“ヒメ”がいた。

幼い直人が気持ち良く泳いでいると水の小さな塊が自分を取り囲み、直人と喜びを分かち合っているのを感じていた。

直人にとっては余りにも自然なことで、プールが好きという友達も皆、同様に感じていると思っていた。

やがて、アクセスが便利な市の中心街に新たな市営スポーツセンターが出来、通年で入れる温水プール、子供用プール、ジャグジーなどの新たな設備がオープンすると、この古い屋外プールは廃れていった。

友達と連れ立っていくのも新しい温水プールになっていった。

が、直人は、屋内の温水プールが好きにはなれなかった。

キツい塩素系消毒剤の匂いが嫌だったし、真新しいプールの水はサラサラで、屋外プールのように直人に優しく触れ、褒めるように撫でてくれる水の塊が感じられない。

小学生の直人がそう言うと、友達たちは怪訝な顔をした。

「直人、なにを変なことを言ってるんだ?」

「そうだよ、水が水の中で固まるわけないじゃないか」

「おかしいヤツ!何かおかしな夢でも見たいんじゃないか?」

そう言われると、気のせいのようにも感じる。

確かに水が水の中で柔らかな塊となり触れてくるなんてことがある訳がないとも思えてくる。

けれど、その感触は身体に残っている。

しかし、友達の反応を見ていると、あまり人に言ってはいけないことなんだなと、幼い直人は思った。

屋外の市営プールは秋になると水が抜かれる。

翌年の初夏までは、屋外プールは閉鎖される。

その期間は、温水プールに行くしかない。

味気なさを感じながらも、水泳自体が好きだったので、ヒマを見ては直人は温水プールに行った。

その直人の泳ぎに目をつけたのが、現在のコーチである。

水から上がった直人に声を掛けてきた。

「君、いい筋をしているな。泳ぐのは好きか?小学生か?」

コーチは隣の市にあるスイミングクラブでスクールを開いており、週に2回、この新しい市営プールに水泳を教えに来ていた。

「良かったら君も水泳教室に参加しないか?」

もとより泳ぐことが大好きな直人はその申し出に飛び付いた。

コーチは自分の運営するスイミングクラブにも入らせたいようだったが、友達と遊びたい盛りの直人は正式な所属は断った。

が、コーチの誘いで何回か隣の市まで向かい、同じ年代の子供達とともにレッスンに参加し、自分の泳ぎが秀でていると実感した。

それは、悪い感覚では無かった。

中学に上がると水泳部に入り、県下で注目される存在となった。

だが、それもその地域だけの注目に過ぎなかった。

変わったのは中学3年の初夏だった。

間も無く学校対抗の水泳大会があると言う時、直人は季節外れのインフルエンザに罹ってしまった。

なんでこんな時に、、、

熱のあるだるい身体をベッドに横たえ、直人は自分を責めた。

その時、直人は水泳部の部長を務めており、大会のトリとなるメドレーリレーはアンカーを務める予定だった。

学校対抗の水泳大会。

若さ故の他校へのライバル心。

直人の中学校の生徒達も、学校対抗の大会にはいつも以上に闘争心を燃やしていた。

直人が部長を務める水泳部は、市内では強豪扱いされていなかった。

しかし、直人だけは抜きん出たタイムを誇っている。

直人以外は個人競技で勝てなくても、大会のラストを飾るリレー競技で勝てる可能性は高い。

メドレーリレーは、背泳ぎ、平泳ぎ、バタフライ、自由形で構成される。

いずれも直人の実力が1番だ。

100メートルのタイムでいうと、やはり自由形、クロールのタイムが1番良い。

だから、リレーに出場予定のメンバー達は、全員クロールが得意だったが、優勝のために不得意な背泳ぎ、平泳ぎ、バタフライでタイムを縮めることに打ち込んでいる。

自分達が足を引っ張り、せっかくの直人の泳ぎを無駄にしてはならないと、春から練習に励んでいる。

彼らへの気持ちに応えたい、、、

友達思いの直人は、部長としての責任感も手伝い、個人競技よりも、そのリレー競技に気合を入れて練習していた。

彼らの想いに報いたい。

それなのに、なぜ、部長の俺がインフルエンザなんかに、、、

泳ぎたい、、、

彼らへの気持ちに応えたい、、、

友達思いの直人は、部長としての責任感も手伝い、個人競技よりも、メドレーリレーで勝ちたかった。

それがインフルエンザ、、、

しばらく練習が出来ない。

熱が下がっても、ウイルスが身体の中に存在する可能性がある。

直人としては珍しく、クヨクヨした日々。

熱は3日程度で下がったが、熱が下がった後も2日は外出するなと言われている。

悔しかった。

1分時間が過ぎるたびに、自分の体が着実に鈍っていくような気がする。

ジリジリとした焦燥感に襲われる。

泳ぎたい、、、

だが、他の人に伝染うつす可能性がある状態で学校に行き、チームメイトがインフルエンザに罹ってしまったら本末転倒だ。

かと言って、子供達が集まる市営の温水プールに出かけて、子供達に伝染うつすわけにもいかない。

家族からは、部屋から出るなと言われている。

元気になった身体で部屋に閉じこもっているストレスも重なり、直人のイライラは限界に近くなる。

っ!

そうだ!

脳裏に浮かんだのは山裾にある古びた市営プール。

市の中心部には新しく設備の整った市営プールと共に、フィットネスジムにもプールが併設され、アクセスが悪く設備も古い市営公園の屋外プールはすっかり過去の存在となりかけていた。

時計を見る。

4時半近く。

確か、あの市営プールの開場時間は5時までだった。

あのプールなら、ほとんど人とすれ違わず行ける。

そして、プールに入っている人が居たら、入らずに通り過ぎて帰ってくれば良いんだ、、、

衝動的に直人は身体を動かす。

両親が仕事から帰ってくるのは7時過ぎ。

兄が直人の部屋を訪れることはまず無い。

ちょっと行くだけだ、、、

病み上がりの身体だが、5時にはクローズするのだから、泳いだとしても少しだけ。 

身体には負担にならないはずだ。

他に泳いでいる人が居たら外から眺めるだけなんだ、、、

ちょっと覗きに行くだけだ、、、

そんな言い訳を自分自身にしてしまうのは、どこかやましさを感じているからだろう。

水着、タオルをリュックに突っ込み、そっと部屋を出る。

自宅から市営公園までチャリで直ぐの距離だ。

直人は颯爽とペダルを踏む。

市街から市営公園へ続く道に入ると見事なまでに人が居なかった。

外に出るのは久し振りだ。

風が心地よい。

繁った樹に挟まれた市営公園の入り口が近づく。

自転車を滑らせるように駐輪場へ入る。

他に自転車はない。

駐輪器具には錆が噴き出していて、かつて良くここに通っていた直人は少し寂しく思う。

屋外プールは公園の一番奥だ。

リュックを肩に引っ掛け、直人は足早に屋外プールへ続く遊歩道を歩く。

え?

ちょうどプールに隣接したシャワー室と更衣室も入っている管理棟の施錠を係員がしているところだった。

まだ、5時じゃないのに、、、

その疑問は直ぐに解けた。

プールの入り口を指し示す看板に、“最終入場 4時半”と記されていた。

これまで、そんなギリギリの時間に訪れたことがなかったので、最終入場時間が定められているとは知らなかった。

プールで泳いでいる人は居ない。

だから、初老の係員は最終入場時間と共に、管理棟を閉めたのだろう。

係員はトボトボと直人のいる反対の方向に歩いていく。

直人の胸の鼓動が高まる。

思わず木陰に隠れる。

直人の脳裏に浮かんだ考え。

“忍び込もうか、、、”

目の前にプールがある。

水面がキラキラと輝き、直人を誘っている。

普段なら、営業後のプールに忍び込むというようなルール違反の行為など考えもしない直人だったが、その時浮かんだ考えがドンドン頭の中で大きくなる。

木陰から去っていく係員を窺う。

道を曲がり、その姿が消える。

プールの水面が豊かな青い色に染まり直人を誘う。

周囲を見回す。

誰も居ない。

プールの反対側は高い金網で、その向こうは山に続く高い勾配で隙間程度の幅しかない。

人は通らないだろう。

しばらくおいて、直人は軽やかに駆け出す。

目指しているのは管理棟の奥。

確か、太いポンプの並ぶ狭いスペースがあった筈だ。

ここだ。

身を隠すように雑草が覆うその空間に入る。

周りを見る。

誰も居ない。

よしっ!

直人は無造作に衣服を脱ぎ捨て、競パンをつける。

そして、もう一度、周囲を見渡し金網に飛び付く。

ガチャガチャと音を立て直人は金網を登る。

そして身を翻し、金網を軽やかに飛び越え、プールサイドに降り立つ。

再び周囲を見る。

今の金網の音に誰か気づいたか不安だった。

が、杞憂だった。

人の気配は無いままだ。

直人は長身をさらに伸ばすように手を上に伸ばす。

続いて長い足を伸ばし、軽くストレッチをする。

そして、本当ならば飛び込みたいところだったが、音を立てるのはマズい。

我慢して、すっと水に足から沈むように入る。

久々の冷たい水の感触。

陽に焼けた皮膚が喜んでいる。

そっと水飛沫をあげないように泳ぎ出す。

まずは平泳ぎでゆっくりと。

身体を慣らすためだ。

しかし、泳ぐ喜びに一掻き一掻きスピードが速くなっていく。

そして、ターン。

今度は背泳ぎだ。

空を見上げる。

水が体を支えてくれる。

プールの中央部に来ると直人はイキのいい魚のように身を捩らせ、頭から水中に潜る。

今度は潜水だ。

よく発達した長い足を上下に動かし、両手は大きく回転させ水を掻く。

爽快感が身体を駆け抜ける。

ッ!

確かに何かが脇腹を掠めた。

柔らかく温かい感触、、、

記憶の底が揺さぶられる感じがする。

続いて腹に、脚に、腕に、、、

次々と儚い感触が掠め、後方に消える。

懐かしい。

そうだ。

この感触、、、

この肌触り、、、

子供の頃に感じた感覚。

息継ぎで顔を水面に上げる時間ももどかしく、直人は水の中を舞うように泳いだ。

このプールには直人を受け入れる何かが居た。

その日以来、直人は再び、設備の古い屋外プールに足を運ぶようになった。

晴れた日だけでなく、雨の日まで。

コーチや水泳部の顧問は、急に古いプールで自主練を始めた直人を不思議がる。

自主練なら、自由に学校、あるいは、スイミングクラブの環境の良い屋内プールを使えば良いのにと。

「あの古いプールが僕の水泳の原点なんっすよ。初心忘れるべからずって言うでしょ。あそこで泳ぐとパワーが増すんすよ」

そう笑って直人は誤魔化す。

そして、時間を見つけては市営公園へチャリで向かう。

そのプールの水の中に現れる温かで柔らかな水の塊を求めて。

屋外プールは、水泳用、水中ウォーキング用、水遊び用とコースが3つに区切られていた。

ウォーキングと水遊びのコースはそれなりに人がいたが、泳ぎを純粋に楽しむ人は少ない。

また、水泳用には3コースが当てられていたので、仮に誰かが居ても他のコースを使って居たので、直人は自由に泳げた。

そのプールを訪れする回数が重なる度に、直人に触れる水の塊の数は増え、そして、そのボリュームも増していくようだった。

やがて直人は気付く。

少しでも速いスピード泳げば、フルフルと揺れながら現れる水の塊の数も増えていく。

それらの塊は次第にくっついていくのか、それとも、さらに大きな塊が現れるのか分からないが、渾身で泳げば泳ぐほどそのボリューム、存在感は大きくなり直人に寄り添うほどのサイズとなる。

だが、プールに入っている人が多いと、用心しているのか、現れにくくなる。

そして、1コースをだけを単調に行き来することが、直人には物足りなく感じられるようになってくる。

だから、、、

直人は夜中に、山の麓にひっそりと佇むプールに忍び込むことを覚えた。 

誰も居らず、直人の自由に泳ぐことが出来る秘密の時間の秘密の場所。

市営公園は7時に閉まる。

市のハズレの何の変哲もない公園だ。

もとより訪れる人は少ない。

そして、直人は山に面した金網から忍び込む。

見咎められることはまずない。

公園内の照明は全て消えて真っ暗だが、水の中でひたすら泳ぐだけなので、明かりが必要なのは着替えの時くらいだ。

誰にも邪魔されず、練習を遮られることもなく、直人は1人で夜のプールで泳ぐ。

全力で泳ぐと、水の塊は直ぐに現れる。

最初はポツポツと、、、

やがて大きな水のクッションとでもいうような触感に変わり直人を包み込む。

直人が力を込めて泳げば泳ぐほど、そのクッションは大きくなり、水の中で直人を包み震える。

その振動の刺激の甘さ、優しさ、暖かさ、、、

その刺激を求めるあまり、まずはゴーグルを外して泳いだ。

驚いた。

何かが解き放たれた感覚。

ゴーグルが俺のことを拘束していたのか?

そしてキャップを外してみる。

髪の毛が水に撫でられる快感。

潜水で泳ぐ心地良さが増す。

スイミングウェアを脱ぐのには抵抗を感じたが、全身の素肌で水を感じる欲求には勝てなかった。

人は居らず、真夜中で照明も無い。

何を恥ずかしがることがある?

背徳感を感じながら、プールから上がった直人は、スイミングウェアに手を掛け、脱ぐ。

身の内から湧き上がる不思議な開放感が全身を貫く。

爆発しそうな衝動に駆られた直人は、水飛沫の音を立てないようにしていたことも忘れ、プールサイドを走り、水に飛び込んだ。

身体を包み込む水。

手脚を力の限り動かす。

水の塊が直人を包み、蠕動する。

痺れるような心地良さが直人の肌を駆け巡る。

“ヒメ”、、、

その単語が自然に頭に浮かんだ。

すると水が喜ぶように直人の身体をキュッと締めた。

その夜から、直人はさらに泳ぐことに没頭していった。

周囲の者たちは不思議がる。

スイミングクラブにしろ、部活にしろ、あらかじめ決まっているトレーニングには参加する。

しかし、それまで自主練としてそれ以外の時間にも頻繁に顔を見せていたのが、パタリと顔を見せなくなった。

しかし、タイムは見違えるように伸びていく。

もとより才能があったが、夜のプールでガムシャラに泳ぐことで、身体が泳ぎ方を会得していったのだ。

そして、昼間のトレーニングの時間は、指導者であるコーチ、顧問から、自身のスイミングフォームの欠点を指摘して貰えばそれで目的は終わりだった。

初めの頃は自主練をするよう小言じみたことを言っていたコーチや、水泳部顧問も、直人の叩き出すタイムに文句は言えなくなった。

練習の予定がない日、直人は直ぐに家に帰り、仮眠をとる。

そして、家族が寝静まった夜半過ぎ家を抜け出し、チャリで市営公園に向かった。

晴れの日も、そして、雨の日も。

雨の日の方が、プールの中の水の“それ”、直人が呼ぶところの“ヒメ”は、直人を優しく、激しく受け入れた。

言葉は交わせない。

けれど、素肌に伝わる振動で、その喜怒哀楽を感じられるようになった。

あるいは、本人がそう思い込んでいるだけかもしれない。

しかし、直人がそう思うのだから、それで良かった。

直人の記録は伸び続け、とうとう全国大会で金メダルを取るまでになった。

“強化合宿に参加しろとか、設備の整った高校に転校しろとか、鬱陶しい誘いが色々あるんだぜ”

心の中で直人は語りかける。

、、、、

水は震え、振動で応える。


“でも、俺、断ってるんだ。コーチや先生はいい話だから受けろって言うんだけどさ”

、、、、、

“俺、水泳は上達したい。タイムを縮めるのは楽しい。でも、金メダルを取るとか、有名になるとかなんかには興味がないんだ。水の中で身体を動かすのが好きなんだ”

、、、、、

“それにここを離れたら“ヒメ”と会えなくなるだろ?”

グルンと水が直人の身体の周りを回転した。

“ヒメ”も俺と一緒に居るのを喜んでいるんだ。

直人は幸福感を感じた。

ふと空を見上げると薄っすらと白み始めている。

夜明けが近くなっている。

名残惜しいがそろそらここを離れて自宅に戻った方が良さそうだ。

直人は名残惜しく思った。












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