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第五夜
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帰り道はどうやって電車に乗ったのか覚えていない。今日の出来事が繰り返し頭の中で再生されて上の空だった。身体が通い慣れた道を覚えているのだろうか。気がつけば地元の駅についていた。雨は止み、濡れた地面がその痕跡を表している。
現実味のない浮遊感のある足取りで駅を出て家までの道に出る。駅から離れれば閑静な住宅地が広がっている。街中だというのに騒音一つしない。ぼんやりとしているひよりの中に静寂が染み込んでいく。心に渦巻く負の感情が徐々に収まる。これから仕事をどうすればいいか、やっと考え始めた。
――今まで頑張ってきたけど……。
「あのぅ、すみません」
唐突に背後から声が聞こえた。相手の機嫌を窺うような遠慮がちな呼びかけ。例えば、道を訊ねるような、人を探しているような。あるいは、何かの勧誘を想起させる口調。
「はい?」
ひよりは眉を潜めて振り返った。本来ならば急に呼びかけられれば、足を止めてしまったかもしれない。ひよりの身体は前へ進みながら、首を後ろに傾けただけ。第六感が働いたのかもしれなかった。
微かに空を切る感触。ひよりは咄嗟に一歩前へ進む。無理な体重移動で足元がよろけた。
「チッ」
背後の人物は忌々しげに舌打ちをする。
二十代から三十代前半に見える若い男。仕立てのいいスーツ。マスクから覗く目鼻立ちは整っているのに、傲慢さと苛立ちを含んだ表情が醜悪で上品には見えない。手には細長い金属の棒のようなものが握られている。
男の仕草を見るに、ひよりに向かって金属棒を振り下ろしたらしい。無意識の行動のお陰で運よく逃れられた。
ぞわり、とひよりの背に悪寒が走る。硬質な得物を向けられた。こんなものが当たれば無傷では済まない。恐怖の感情に従い、考えるより早くその場を勢いよく走り出した。
頭に過るのは、テレビやインターネットで報道していた女を狙う通り魔事件。警察も警戒していた。しかし、報道では傷害事件までは発展していないと伝えていたはず。
人通りのない道で助けを求めようとした。喉から出る「助けて」という声は遠くまで届かな程度の大きさ。動揺で喉が開かなくなってしまったのも原因としてある。一番の要因は、大声は大きく息を吸わなければ出ないということにあった。意識して腹に力を入れなければならない。準備をしていない状態で全力疾走をしながらでは難しい。呼吸することで精一杯だ。一度立ち止まれば容易だろうが、それは今の状態では不可能だった。ちょっとやそっとの音は家の中が賑やかな時間帯では生活音に紛れてしまう。
運動に適さないパンプスを履いていたひよりは、とうとう躓いてしまった。膝や腕を強かに地面に打ちつける。肩にかけていた鞄は放り投げ出され、中身を地面にぶちまけた。
「いい子にしてろよ」
嘲笑を含む言葉と共に金属棒が振り上げられた。
*****
男は裕福な家庭に生まれた。
勤労な両親と甘い祖父母に不自由なく育てられ、有名校に進学し、大手企業に就職した。
学生時代から要領がよく、こと人間関係に関しては苦労をしたことがない。
同じような生活水準の者だけを集めて徒党を組んだ。それ以外の付き合う必要のない人間たちは蹴落とした。挫折という経験をしたことがなく、子どもの頃にだけ持つ万能感がいつまでも彼の中からは消えなかった。
就職先では上司に気に入られたこともあり、同期を差し置いて一早く役職づきになった。こうなると目敏い女子社員が群がってくる。彼にとって女とは愚かで卑しく利用価値のある存在だった。そういった種類の人間しか近寄らなかったのだ。
社会人となってから問題が表面化した。
学生時代と違い、どうしても上司たちのご機嫌取りはしなくてはならなかったし、己の希望通り好き勝手に振る舞うことは許されない。顔には出さなかったが、彼の中には拭い切れないストレスが蓄積していった。
始めは野良猫。
たまたま道にいて餌を求める一匹の腹を蹴り飛ばした。甲高い鳴き声と悶え苦しむ姿が爽快だった。
次に庭先で飼われている犬。
飼い主がいないことを確認し、催涙スプレーを撒いた。これも慌てふためく姿に胸が空いた。
気が大きくなり、路上にある車や自転車を傷つけてみた。これは良くなかった。ただの物体は反応しないからだ。
ストレス解消になるものはないかと幾つか試してみて、やがて一つの答えを見つけた。町に溢れているではないか。自分より劣る消耗品のような生き物が。
大人しそうな女学生を見かけてすれ違い様にスカートをカッターナイフで切り裂いた。物陰で様子を見ていると、異変に気がついた女学生が制服を見て狼狽していた。気の弱い娘だったのだろうか。そのうちに啜り泣きをしながら、肩を落としてその場を去った。
そのとき、男は今までにない昂りを覚えた。それからというもの、若い女に狙いを定め、転ばしたりぶつかったりして気を晴らしていた。
罪を犯しても、清潔な身なりをして堂々と明るい顔をしていれば、警察に疑われることはない。実際に職務質問さえ一度も受けることがなかった。
懸念していた被害者の女たちの証言は、恐れる価値のないものだった。男の姿すらまともに伝えることができていないらしい。報道によると犯人の年代も曖昧だ。突然に襲われれば、混乱して相手の外見は記憶に残らないらしい。短い間だけ見たものを記憶しておくのは平常時でさえ難しいのだから無理もない。
警察の手が自分まで伸びないことを悟った男はさらに大体な行動に移った。ねずみ花火を放り投げたり、低威力のスタンガンで軽い電気ショックを与えたり、髪を切り落としたり——。
ある日、担当する所属部署の営業成績が悪いと上司から小言を並べられた。要領の悪い後輩が足を引っ張ったからだ。プライドを傷つけられた男は、ストレスをぶつけるのに格好の女を物色した。万が一に備えて場所と獲物選びは慎重に行っている。警備が手薄の駅に無防備で浅慮そうな女を見つけた。会社員のようだから、また同じ道を通るに違いない。周辺は人通りの少ない閑静な住宅地。仕掛けるのに申し分のない場所だ。そろそろ、もっと大きな悲鳴を聞きたい——。
現実味のない浮遊感のある足取りで駅を出て家までの道に出る。駅から離れれば閑静な住宅地が広がっている。街中だというのに騒音一つしない。ぼんやりとしているひよりの中に静寂が染み込んでいく。心に渦巻く負の感情が徐々に収まる。これから仕事をどうすればいいか、やっと考え始めた。
――今まで頑張ってきたけど……。
「あのぅ、すみません」
唐突に背後から声が聞こえた。相手の機嫌を窺うような遠慮がちな呼びかけ。例えば、道を訊ねるような、人を探しているような。あるいは、何かの勧誘を想起させる口調。
「はい?」
ひよりは眉を潜めて振り返った。本来ならば急に呼びかけられれば、足を止めてしまったかもしれない。ひよりの身体は前へ進みながら、首を後ろに傾けただけ。第六感が働いたのかもしれなかった。
微かに空を切る感触。ひよりは咄嗟に一歩前へ進む。無理な体重移動で足元がよろけた。
「チッ」
背後の人物は忌々しげに舌打ちをする。
二十代から三十代前半に見える若い男。仕立てのいいスーツ。マスクから覗く目鼻立ちは整っているのに、傲慢さと苛立ちを含んだ表情が醜悪で上品には見えない。手には細長い金属の棒のようなものが握られている。
男の仕草を見るに、ひよりに向かって金属棒を振り下ろしたらしい。無意識の行動のお陰で運よく逃れられた。
ぞわり、とひよりの背に悪寒が走る。硬質な得物を向けられた。こんなものが当たれば無傷では済まない。恐怖の感情に従い、考えるより早くその場を勢いよく走り出した。
頭に過るのは、テレビやインターネットで報道していた女を狙う通り魔事件。警察も警戒していた。しかし、報道では傷害事件までは発展していないと伝えていたはず。
人通りのない道で助けを求めようとした。喉から出る「助けて」という声は遠くまで届かな程度の大きさ。動揺で喉が開かなくなってしまったのも原因としてある。一番の要因は、大声は大きく息を吸わなければ出ないということにあった。意識して腹に力を入れなければならない。準備をしていない状態で全力疾走をしながらでは難しい。呼吸することで精一杯だ。一度立ち止まれば容易だろうが、それは今の状態では不可能だった。ちょっとやそっとの音は家の中が賑やかな時間帯では生活音に紛れてしまう。
運動に適さないパンプスを履いていたひよりは、とうとう躓いてしまった。膝や腕を強かに地面に打ちつける。肩にかけていた鞄は放り投げ出され、中身を地面にぶちまけた。
「いい子にしてろよ」
嘲笑を含む言葉と共に金属棒が振り上げられた。
*****
男は裕福な家庭に生まれた。
勤労な両親と甘い祖父母に不自由なく育てられ、有名校に進学し、大手企業に就職した。
学生時代から要領がよく、こと人間関係に関しては苦労をしたことがない。
同じような生活水準の者だけを集めて徒党を組んだ。それ以外の付き合う必要のない人間たちは蹴落とした。挫折という経験をしたことがなく、子どもの頃にだけ持つ万能感がいつまでも彼の中からは消えなかった。
就職先では上司に気に入られたこともあり、同期を差し置いて一早く役職づきになった。こうなると目敏い女子社員が群がってくる。彼にとって女とは愚かで卑しく利用価値のある存在だった。そういった種類の人間しか近寄らなかったのだ。
社会人となってから問題が表面化した。
学生時代と違い、どうしても上司たちのご機嫌取りはしなくてはならなかったし、己の希望通り好き勝手に振る舞うことは許されない。顔には出さなかったが、彼の中には拭い切れないストレスが蓄積していった。
始めは野良猫。
たまたま道にいて餌を求める一匹の腹を蹴り飛ばした。甲高い鳴き声と悶え苦しむ姿が爽快だった。
次に庭先で飼われている犬。
飼い主がいないことを確認し、催涙スプレーを撒いた。これも慌てふためく姿に胸が空いた。
気が大きくなり、路上にある車や自転車を傷つけてみた。これは良くなかった。ただの物体は反応しないからだ。
ストレス解消になるものはないかと幾つか試してみて、やがて一つの答えを見つけた。町に溢れているではないか。自分より劣る消耗品のような生き物が。
大人しそうな女学生を見かけてすれ違い様にスカートをカッターナイフで切り裂いた。物陰で様子を見ていると、異変に気がついた女学生が制服を見て狼狽していた。気の弱い娘だったのだろうか。そのうちに啜り泣きをしながら、肩を落としてその場を去った。
そのとき、男は今までにない昂りを覚えた。それからというもの、若い女に狙いを定め、転ばしたりぶつかったりして気を晴らしていた。
罪を犯しても、清潔な身なりをして堂々と明るい顔をしていれば、警察に疑われることはない。実際に職務質問さえ一度も受けることがなかった。
懸念していた被害者の女たちの証言は、恐れる価値のないものだった。男の姿すらまともに伝えることができていないらしい。報道によると犯人の年代も曖昧だ。突然に襲われれば、混乱して相手の外見は記憶に残らないらしい。短い間だけ見たものを記憶しておくのは平常時でさえ難しいのだから無理もない。
警察の手が自分まで伸びないことを悟った男はさらに大体な行動に移った。ねずみ花火を放り投げたり、低威力のスタンガンで軽い電気ショックを与えたり、髪を切り落としたり——。
ある日、担当する所属部署の営業成績が悪いと上司から小言を並べられた。要領の悪い後輩が足を引っ張ったからだ。プライドを傷つけられた男は、ストレスをぶつけるのに格好の女を物色した。万が一に備えて場所と獲物選びは慎重に行っている。警備が手薄の駅に無防備で浅慮そうな女を見つけた。会社員のようだから、また同じ道を通るに違いない。周辺は人通りの少ない閑静な住宅地。仕掛けるのに申し分のない場所だ。そろそろ、もっと大きな悲鳴を聞きたい——。
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