鏡男、現る。 OLと鏡男の奇妙な話

犬塚ハジメ

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第四夜

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    3

 十八時半、ひよりは地元の駅に着いた。帰宅時間だというのに、駅構内には学生数名とビジネスマンらしき男だけ。普段の駅はこんなものだ。
 各務の協力もあって定時内に資料は完成した。営業には「再提出リテイクはなしですよ」と念を押し、データを突きつけるようにして退勤。今日のところは問題はなかったが、後ろ倒しになったA社の案件がある。明日からは残業しなくてはならないかもしれない。
 改札口を出て、寄り道をせずに帰宅しようとした。せっかくなので今日くらいはゆっくり休みたい。
 駅前には広場や商店街などの開けた場所はなく、すぐに民家が狭い中をひしめき合っている。取り立てて目立つものはない。だから、場違いな存在に気がついたのはすぐだった。反射ベストを着た警察官が直立している。
 警官はひよりと目が合うと、「夜道はお気をつけ下さい」と軽く会釈した。最近は物騒だと報道されていた。現場はこの近辺なのだろうか。目立つ怪我人はいないらしいが。警戒体制にあるのかもしれない。ひよりも頭を下げて自宅への道へと進んだ。

『遅いときはタクシーで帰った方がいいですよ』
 座卓の上で各務は口を尖らせた。ひよりはパーカーにショートパンツという部屋着で胡座あぐらを掻いている。
「でも、ここは駅前でもなかなかタクシー捕まらないんだよ」
『明日も定時通りだといいですね』
 各務の顔は渋いままで眉間に皺が寄っていた。「お父さんみたい」とひよりはこっそり思いながら、円筒状の容れ物からクリームを指先で取り出して腕に塗る。
「明日からはどうなるか分かんない」
『なかなかにブラックってやつですね』
 各務は最近覚えた言葉を使いたがる。ひよりと暮らし始めてから現代語を目まぐるしい早さで吸収していた。もっともらしく腕を組んで頷いている。 
「そうだね。今日はありがと。手伝ってくれて」
『いやいや。自分にはあれくらいしかできませんから』
 言葉を一旦区切ってから、
『ひよりさんの仕事は素晴らしいですね。フォントの種類やサイズ、色を変えるだけで読み易くなる。適切な行間とイラストで平凡な文章が見違えましたました。オレの社畜時代にそういう能力があればよかったんですが……』
 少し残念そうに言う各務。
「文章の方は任せてたからね。あたし一人じゃ間に合わなかったと思うよ。分かり易くまとめるの上手いと思った。きっと働いてたときの経験が生きたんだね」
 ひよりは腕にクリームを広げ終わり、次は脚にも滑らす。歯切れのいい口調でさりげなく言葉を投げかけた。
 各務は数回瞬き、薄っすらと笑みを浮かべ、『あの頃も無駄じゃなかったかもしれませんね』と小さく言った。
「あたしも嫌々とはいえ、色々なことを任されてきたからできることが増えたのかな」

    4

 次の日は朝から雨が降っていた。
 ひよりはあらぬ方向へ跳ねる髪にスプレーを吹きつけてからヘアアイロンで慌てて整える。
「もーッ……! 午後からって言ってたじゃん!」
 独りちつつ無理やり髪を押さえつけ、出勤の支度を終えて鍵を施錠する。こういうときの各務は邪魔にならないように鏡の中で大人しくしている。今はバッグの中で揺らされるだけだ。
 濡れたアスファルトの上を小走りで駅まで走る。傘に勢いよく叩きつける雨。急げば急ぐほど足元は濡れる。ストッキングを穿いているだけに余計に気持ち悪い。
——サイアクな日。
 肌にまとわりつく湿気に不快感を抱きながら出社した。

「納期を延ばして下さいって言ったじゃないですか……!」
 ひよりは営業に報告があるとデスクまで呼ばれた。雨はまだ降り続けており、灰色の雲から溢れた水が窓を叩いている。
「いやー。やっぱり無理だったわ。お得意さん期待の新作だしなあ。分かるだろ?」
 営業の言葉から悪意は感じられない。ひよりの気が遠くなる。いつものらりくらりとかわされてしまうから、念のために打ち合わせから帰ってきた営業を捕まえて釘を刺そうとした。しかし、あろうことか「納期が前倒しになった」と言い出したのだ。自分の意見が通らないことを覚悟していたひよりもこれには青褪めた。他の依頼も溜まっている状況で間に合うはずがない。
「物理的に不可能ですッ」
 思わず声を上げたところで、部屋の最奥に座る職場長が渋い顔を向ける。ひよりはすぐに声を潜めて言葉を続ける。話が大きくなると悪者にされることは目に見えているからだ。
「これからも依頼が来るんですよ。それを全部納期通りだなんて……」
 営業は大口を開けて笑う。
「今まで問題なかったんだ。今回も大丈夫大丈夫」
「いえ、そんな話をしてるんじゃなくてですね……」
 なおもひよりが説明を続けようとしていると、営業は荷物をまとめて背広を羽織る。「客先と打ち合わせがあるから」と言い、事務所を出ていく。離れた席にいる事務の女から心配げな視線を背中に受け、ひよりは肩を落とした。

 残りの時間、すっかりやる気を失くしたひよりは、目の前にある仕事を淡々と消化するだけで過ごした。定時になれば荷物をまとめて帰り支度をする。毎日、数時間残業すれば間に合うかもしれない。そこまで心身ともに自分を犠牲にしてやらなければならないことなのだろうか。やるせなさが募る。
 今まで似たようなことは何度もあった。作業要員が一人しかいないから仕事をやらなければならなくなる、仕事をやれば余裕があると思われる、いつまで経っても人員が追加されない――という悪循環だ。今度という今度は心が限界だった。今まで頑張ってきたのは何なのか。「退職願」という言葉が頭を占める。
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