子ども落語

神泉朱之介

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子ども落語

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 視線に気づいたのは、夜風が湯煙を払ったときだった。
 山間の一軒宿、男湯の露天風呂には自分しかいないと思っていたが、もうひとり客がいたらしい。
 岩の囲いの向こう、黒々と広がる斜面には、年の瀬に降った雪がまだらに残っている。
 さらさらと聞こえてくるのは、すぐ下を川が流れていく音だ。
 その先は滝になっていて、滝壺が大きな口を開けて流れを呑んでいる。
 いい塩梅で景色を眺めているうちに、知らず鼻唄が出ていた。
 視線の主にちょっと頭を下げると、相手は湯煙をかき分けて近づいてきた。
 タオルを乗せた頭は黒々として、腹がたるみかけてはいるが肌には張りがある。
 四十前といったところか。
 還暦を超えた俺から見れば若造だ。
 妙になれなれしいやつで、岩に腰かけたり湯に入ったりをくり返しながら、「ご旅行ですか」だの「どちらから」だのと尋ねてくる。
 俺も人嫌いなほうではないから適当に返事をしていたら、ちょっと会話が途切れたとき、岩に座っていた若造が急にざぶんと湯に体を沈めた。
「あのっ、あなた、桶家丑之助さんじゃありませんか」
 湯が跳ねて、俺の垂れ下がった頬を叩いた。
 ずいぶんなつかしい名前だ。
 もう三十年近くも前、俺が噺家だったときの。
 何食わぬ顔で否定するには間が空きすぎた。
 俺が何も言わないうちに、若造は「やっぱり」と顔を赤くした。
「歌ってる声を聞いて、もしかしてと思ったんですよ。子どものころに一度、あなたの噺を聞いたことがあるんです。
 子ども落語、覚えてませんか。若手の噺家さんが何人か、町の体育館に来てくれて。丑之助さんの演目は初天神でした」
 もちろん覚えていた。
 忘れるはずがない。
「僕は両親と一緒に聞きに行って、あの初天神に感動したんです。絶対また聞こうと思ってたのに、あれからすぐに引退しちゃったと知ったときはショックでしたよ。
 いったいどうして」
 そりゃ悪いことしたな、と俺は曖味にかわした。
「CDなんかもなくて弱りましたよ。大人になって、いくつかの公演がネットに音声だけアップされてるのを見つけて聞いてるけど、さすがにあの初天神はありません」
 俺は湯に浸かった自分の手を見ていた。
 皮膚は木の皮のように硬くなり、しわとしみが目につく。
「子ども落語でのあのオチは、丑之助さんがアレンジしたオリジナルだったんですね。あとで知りました」
 早口でまくしたてる若造の顔が赤いのは、温泉のせいだけではなさそうだ。
 記憶のなかの体育館にこの顔を探してみたが、見つけられるはずもなかった。
 そもそもあの日、俺は舞台の袖ばかりを気にして、客の顔など見てはいなかったのだから。
 若造はざぶりと顔を洗った。
「丑之助さん、お願いです。こうして会えたのも何かの縁と思って、あの初天神をもう一度聞かせてくれませんか」
 いきなり何を言うかと思えば。
 呆気に取られて間の抜けた声が出た。
「はあ、そんなもん忘れちまったよ」
「筋なら僕が覚えてますから」
「噺し方だって忘れちまってるよ」
「そこをなんとか」
 若者が勢いよく頭を下げた拍子に、タオルが湯のなかへ飛び込んだ。
 あたふたと拾って絞りながらも「お願いします」と赤い顔を寄せてくる。
「なんなんだ、おめえは」
 子どものころに一度聞いただけの噺に、それほど思い入れを抱くものだろうか。
 奇異に感じる一方で、まあいいかという気持ちも働いた。
 親が子のおねだりに振り回される初天神を、子のような歳の若造にねだられる、こんな巡り合わせもおもしろい。


「おとっつあん、初天神に行くんだろ。おいらも連れてっておくれよう」
「だめだ、だめだ。おめえはすぐ、あれ買ってくれ、これ買ってくれって言うんだから」
「あれ買ってくれ、これ買ってくれって言わねえよ。約束する。男と男の約束だ」


 軽く咳払いをして始めてみたとたん、すらすら言業が出てくることに驚いた。
 下手くそなのは当然、喉も舌も思うように動かないが、忘れてはいないのだ。


「おとっつあん、こんなに店があるのに、今日はおいら、あれ買って、これ買ってって言ってないでしょ。いい子だよねえ」
「おう、そうだな、いい子だ」
「いい子だから、何かごほうび買ってよ」


 若造が笑い声をたてた。
 木の葉のさざめきも、寄席に響く笑い声に思えてくる。


「おい、ちゃんと足もと見て歩け。着物汚したらおっかあに叱られるぞ。俺まで叱られるんだからよ。下見ろって言ってんだ、ばか」


 自然に手が動き、湯を叩いていた。
 その手を目もとへ当てて泣き真似をする。


「おとっつあんがぶったから飴落としたあ」
「どこに落としたんでえ」
「腹んなか。ねえ、代わりに凧買ってよう」
「やっばりおめえなんか連れてくるんじゃなかった」


 しぶしぶ凧を買う芝居。


「おとっつあんが揚げて、それからおめえに糸持たせてやるから、凧持って向こうのほう行きな。もっと向こうだ、もっともっと。おい、そこはだめだ、上に木の枝が張り出してるだろ。もっとあっちへ寄れ」


 方向を示そうと左右に振る手が湯を弾く。


「いてえっ。おいガキ、どこ見てやがる」
「おっと、すいませんね。そいつはうちの倅でして、このとおり謝りますから勘弁してやってください。さあ金坊、もっとあっちへ寄れ。あっちだ、あっちっつってんだろ」
「いてえつ。いい大人が凧揚げに夢中になって人の頭叩くたあ」
「おっと、すいませんね。そいつはうちの親父でして、このとおり謝りますから勘弁してやってください」


 糸を操る仕種で空を仰げば、まんまるい月が浮かんでいる。


「どうだ、高く揚がったろう」
「すごい。おいらにも持たせて」
「まあ、待て、もっと高いとこへ揚げてやるから。おっ、いい風が来たぞ。うひょう、こりゃいいや。ここをこう、よっと、どうだ」
「ねえ、おいらにも持たせてよ」
「うるせえな、こんちきしょう。これはガキが持つもんじゃねえんだ」
「こんなことなら、おとっつあんなんか連れてくるんじゃなかった」


 ふつう初天神はここで終わる。
 俺はちらりと若造を見た。期待に満ちた顔で続きを待っている。
 あの日の俺の初天神を。
 束の間、川のせせらぎに耳を澄ました。
 その先にある滝壺を思った。


「いてえつ。親子喧嘩なら家でやれ」
「あれま、すいませんね。それはうちの亭主と倅でして、このとおり謝りますから勘弁してやってください。
 まったくあんたたちは、心配して来てみりゃこれなんだから」
「おっかあ」
「おさよ」


 湯に顔がつくほど頭を下げたから、若造から俺の表情は見えなかったろう。


「天神参りで、これがほんとのかみさんのご加護」


 若造が手を叩いた拍子に、また頭のタオルが落ちそうになった。
 慌てて押さえた若造の目は、笑いの形を保ちながら潤んでいる。


「ありがとうございました。実はこの初天神には特別な思い入れがあるんです。
 あのころ僕の両親は離婚寸前で、子ども落語は家族そろって出かける最後のイベントになるはずでした。
 でも親子のやりとりで笑う僕を見て、オチで泣いてしまった僕を見て、両親は考え直しました。丑之助さんの噺が、家族の人生を変えたんです」
 勝手に身の上話を披露して、若造は噛みしめるように間を置いた。
 俺もちょっと言葉が出なかったから、静けさのなかで自分の鼓動がよく聞こえた。
「どうしてああいうオチにしたんですか」
 うるせえな、こんちきしょう。
 頭のなかに用意した答えが、声にならなかった。
 小夜子。
 かつての恋人の姿が目に浮かぶ。
 兄弟子がしつこく言い寄っているのは知っていた。
 あの日、袖で聞いている兄弟子への牽制のつもりで、「おっかあ」に「おさよ」という名を与えた。
 兄弟子の不興を買った俺は、それから一年もしないうちに落語の世界にいられなくなった。
 俺は答えを濁して立ち上がった。
 若者も一緒に上がるようだ。
 そろいの浴衣で脱衣所を出ると、子ども用の浴衣に身を包んだ少女が、わざとらしく頬を膨らませて待ち構えていた。
「お父さん、遅い。お父さんなんか連れてくるんじゃなかった」
「僕が初天神を聞いてるのを一緒に聞いてたせいです」
 若造の声に苦笑が混じった。
 生意気に、急に親の顔になって娘に応じる。
「ごめんごめん。でもそういう言い方したらだめだって言ってるだろ、さよ」
 さよ、と俺は思わず口にしていた。
 若造が少しはずかしそうな笑みを向けてくる。
「今日はお会いできて本当に幸運でした。ここへはよく来るんですか」
 最初に「ご旅行ですか」と訊かれたとき、俺はそうだと答えた。
 嘘だった。
 少なくとも慰安や観光が目的ではなかったし、帰るつもりもなかった。
 去年の暮れに小夜子が死んだ。
 落語界を追放された俺と一緒になり、子にも恵まれず、苦労に苦労を重ねた一生だった。
 しわとしみが目につく顔をくしゃくしゃにして、おもしろい人生だったと笑った。
 ここへは昔、小夜子と来たことがある。
 滝壺を覗き込んではしゃいだものだった。
 俺は図々しい若造に笑みを返した。
「また来てえもんだ」
 有り金をはたいてしまったから、いつになるかわからないけれど。
 親子を見送り、背筋を伸ばした。
 かみさんのもとへ行くのは、もうちょっと先でもいいよな。
 小夜子。
「これがほんとのかみさんのご加護」
 タオルを扇子代わりにして、ぽんと手のひらを打つ。
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