神泉朱之介

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 永山信也は、富山駅近くのビジネスホテルで遅い朝食をとった。
 ホテルのフロントで地方紙を買い、部屋に戻ってさっと目を通す。
 六月後半のこの時期は、経済面に大きな会社の株主総会の記事が日替わりで掲載されている。
 今日は、となりの石川県に本社を構える信也の会社の記事が大きく扱われていた。
 社外取締役が経営を監視する新しい制度の導入が、株主総会で決定したと書いてある。
 記事自体は、信也の会社をべた褒めする内容だった。
 ふいに目の前の記事がかすみ、別の見出しが浮かんできた。
 こんな提灯記事のあとに、新聞はどう書くつもりだろうか。
 スーツの上着に袖を通し、チェックアウト時間ぎりぎりで部屋を出る。
 富山駅の北口から外に出て、曇り空の下を富岩運河還水公園まで歩いた。
 運河の真ん中にある棟の最上階までエレベーターでのぼり、パノラマの景色を眺める。
 西側は石川県、南側は岐阜県。
 どちらに向かおうか、まだ決めかねていた。
 スラックスのポケットから携帯電話を取り出した。
 昨日から切ったままだった電源を入れる。
 妻と娘の画像を見よう。
 指先を動かそうとした矢先、着信音が嗚った。
 会社の経理部の番号だった。
 少し逡巡したあと、通話ボタンを押して耳にあてた。
「永山か」
 上司だった。
「はい」
「何度も電話したんだぞ」
 いつもうるさい男だったが、今日は別人のように優しい声だった。
「いま、どこにいる」
「富山です」
 沈黙が流れた。
 やがて上司が小さな声を発した。
「まだ、富山か……」
 つぶやくような声だったが、それはしっかりと信也の耳元まで届いていた。
 瞬問、何かが喉元までせり上がり、目の前の景色が微妙にゆがんだ。
 それが恐怖だと気づいたのは、電話を切ってからだった。
 別の言業を期待してもいた。
 自分自身、ずっと葛藤していた。
 だが、答えを唐突に突きつけられた。
 いや、本当はわかっていた。
 迷う権利などないのだ。
 信也は富山駅に引き返した。
 駅構内の地下にある百円均一のショップで必要な道具を購入した。
 店を出て、大通り沿いを歩いた。
 片側三車線の道路は、両側とも車の往来が激しかった。
 三十分ほどゆらゆらと歩いて、市街地を抜けた。
 広い駐車場を構えた郊外型の小売店が目につくようになった。
 コンビニエンスストアに入ってミネラルウォーターを買う。
 冷えた液体が喉の奥に流れ込んでも、渇きは一向におさまらなかった。
 店の駐車場に一台のタクシーが停まっていた。
 空を見上げてタバコの煙を吐いていた。
 信也は、襟元の社章を外してコンビニのごみ箱にそっと放り込んだ。
 運転手に近づき、
「乗せてもらえますか」
 と声をかけた。
「はい、どうぞ」
 運転手は即答し、タバコを始末した。
 信也は車に乗り込んだ。
「どちらまで?」
「国道四十一号線を岐阜方面へ向かってください」



 窓の外に広がる景色は、質感を持たない平板な絵のように、ただ視界を通り過ぎていった。
 信也の耳には、さきほどの上司の言葉が張りついたままだった。
 あの上司は、数日後にこういうだろ。
 思いとどまれといおうとしたんですが、いきなり電話を切られてしまって。
 彼のためを思うとすぐに警察には通報できませんでした。
 まだ会社に入りたてのころ、飲み会で別の上司が漏らした言葉がふと脳裏をよぎった。
 ちゃんと教育しておかなきゃいけないんだ。
「ええっとお……」
 間延びした運転手の声が、上司の声をかき消した。
「どのあたりまで行けばよいでしょうか」
「とりあえず県境を越えてください。そのあたりになったら、また説明します」
「わかりましたあ。お客さん、ご家族は?」
「妻と、娘が一人います」
 それが糸口となって、運転手はその後も、
「娘さんはいくつ?」
「かわいいときだね」
 と、途切れることなく話しかけてきた。
 百均の買い物袋を握りしめた。
 空っぽにしようとしていた感情の器に何かが入り込こんでくる。
 このままではコントロールが効かなくなりそうだった。
 信也は、
「少し考えたいことがあるので」
 といって運転手の言業を遮った。
「そりゃ、すみませんでした」
 運転手が前を向いたまま、肩をすくめる。
 車内が急に静かになった。
 助手席の後ろ側に張り付けられた「車内禁煙」のシールをぼんやりと眺める。
 考えたいことはたくさんあった。
 だけど、いまは何も考えない。



 いつのまにか車が停まっていた。
 眠っていたわけではない。
 ずっと何も見ていなかった。
 いまさらながら外の景色を見渡す。
 ここは山沿いの場所。
 木々に囲まれて、遠くにぽつぽつと住宅が見えた。
 車通りはない。
「どうしたんですか」
「あんたを連れていけるのはここまでだ」
 運転手の様子におかしなものを感じた。
 声音はさきほどまでとは違って、どこかぶっきらぼうだ。
「この先で道路の工事でもしているんですか」
「いや、そうじゃない。もう少し行けば県境よ。だけど、俺はこれ以上、進ませたくない」
「どうしてですか」
「あんた、死ぬつもりなんだろ。おそらく、岐阜の山奥で」
「違いますよ」
「嘘をつかなくたっていい。その袋の中身、ロープだろ。あと、雰囲気もあるからね。
 こっちは、そういう人間を何度か見てきたんだ」
 運転手は、タバコを取り出して火をつけた。
 車内は禁煙のはずなのに。
「あんた、何したんだい」
 言葉遣いは横柄だが、冷たさは感じなかった。
 信也の上司とはまるで逆だった。
「いいから、話しな」
「実は……会社の金に手をつけました」
 話しだすと、腹の底にたまっていた澱が不思議と消えていった。
 長年やってきた経理の仕事に嫌気がさしていた。
 あるときFX投資で大金を手にしたサラリーマンの記事をネットで見た。
 こんなふうになりたいと思った。
 少額だがFX投資を始めた。
 最初はうまくいった。
 少しの投資で大きな利益を得た。
 自分には才能がある。
 カリスマ投資家になれるのではないかと本気で考えた。
 徐々にレバレッジを大きくしていった。
 だが大きな損を出した。
 むしゃくしゃした。
 こんなものすぐに取り返せる。
 身銭を切りたくなくて、損の穴埋めに会社の金を使った。
 ずっと経理にいた信也は金の動かし方を熟知していた。
 いくつかの口座の金を動かし、ときには、取引先から入金された金を別口座にすぐに動かしたりして、ごまかしてきた。
 しかし、綱渡りの日々はついに終わりを迎えた。
 上場企業の経理部で横領事件。
 いまは社外取締役がいて、外部からの監視の目が厳しい。
 会社は、仕方なく警察へ通報する。
 地元メディアは大きく取り上げるだろうし、株価にも影響が出る。
 逮捕されれば、家族は世間の冷たい目にさらされる。
 だが、当の本人が姿を消し、死体となってみつかれば、会社は目をつぶる。
 死者にむちは打たない。
 本音では不祥事を隠したい会社にとって、公表しない名分ができるのだ。
 信也に与えられた選択肢はふたつ。
 警察へ出頭する。
 あるいは、このままどこかで死ぬ。
 会社は死を望んでいるのかもしれない。
 だが、死ぬのは怖かった。
 妻とも娘とも会えなくなる。
 昨夜、金沢から電車で富山に移動し、ホテルで一泊した。
 夜は一睡もできず朝を迎えた。
 どちらを選ぶのか結論が出ないまま、富山駅のあたりをさまよった。
 そんなとき、上司から電話があった。
 あの言葉がよみがえる。
 まだ、富山か。
 言外の意味を想像すると、いまも心が冷える。
 死ぬつもりか。
 もしそうなら、できるだけ遠くへ行ってくれ。
「お客さん、石川の人だろ」
「……はい」
 運転手の声で我に返った。
「やっぱりね」
「どうして」
 無意識に襟元のあたりをさする。
 北陸では有名な会社だが、社章はタクシーに乗る前に外したはずだ。
「富山を抜けて岐阜で死のうとするのは、たいてい石川の人間だ。富山の人間だったら岐阜よりももう少し遠くまで行こうとするからな」
 運転手がタバコの煙を吐き出す。
「石川の人間が石川や富山で自殺したら、地方紙の社会面に警察発表の記事が出ちまう。死ぬ人問も周りの連中もそれを嫌うんだ」
 運転手のいうとおりだった。
 石川、富山は地域的なつながりが強く、社会面の記事は重なることが多い。
 どちらかの県で変死体が見つかり人物が特定されれば、石川、富山の地方紙は必ず取り上げる。
 信也がまだ新人だったころ、酔った上司が酒の席で話してくれた。
 昔、経理部で大きな不正事件があったとき、社員の変死体が石川県加賀地方の山中でみつかったという。
 こんな地方都市だったら、ドコドコ在住で年齢ウン十代の男性と書かれれば、だいたいは、わかっちまう。
 家族や会社が新聞社にお願いして、おくやみ欄への掲載を控えてもらっても、どこの誰が死んだかなんて、かんたんに予想できるんだ。
 その上司は半ば冗談をいうような口調で、こう締めくくった。
「だから、不祥事を起こしたときにどこで死ねばいいのか、会社はちゃんと教育しておかなきゃいけないんだ」
 石川県から近い場所で自殺らしき変死体が見つかったら、会社に迷惑がかかる。
 だが、ある程度遠い場所、たとえば岐阜の山奥でなら、岐阜県警の報道発表を石川県のメディアが取り上げることは、ほとんどない。
 金沢市在住の三十代男性の会社員が失踪したことと、岐阜県内の変死体とはつながらない。
 死ぬならこれが一番の方法、おそらく会社もそれを望んでいるはず。
 だから自分は、会社のために……
 ふと視界が白くなる。
 タバコの煙だった。
 顔を上げると、運転手がこっちを見てい る。
「どこだろうが、死んじゃだめだぜ」
 運転手がタバコを消しながら、言い放った。
「ぜったいにな」
「でも、僕は……」
「越えさせないよ。この車に乗っている限り、俺はあんたを越えさせないからな」
 越えさせないのは県境か。
 いや、生死の境目か。
 信也はふと思いを巡らせた。
 この運転手は車に乗ってすぐに客の様子がおかしいことに気づいていたのだろう。
 家族のことを根掘り葉掘り訊いてきたのは、妻子との思い出を呼び覚まし、死へ向かう信也の気持ちを折るためだったのではないか。
「会社なんかのために死ぬこたあねえんだよ。だって、あんた、ほんとは生きたいん
だろ」
 生きたいんだろ。
 運転手の言葉が鼓膜に響く。
 膝の上の手が震えだした。
 言葉にならない自分の声は、他人の声のようだった。
 歯を食いしばっても、漏れる嗚咽を止めることはできなかった。
「近くに駐在所がある。そこに向かうよ」
 信也はうなずいた。
 タクシーは県境の手前でゆっくりとUターンをした。
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