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一、黒髪のグレイ

7、黒獅子、決意す(1)

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「ほれ、お前も飲まんか?」

 セルゲイが不敵な笑みを浮かべて黄金のゴブレットを渡してきた。
 グレイが何事かと不思議がりながら受け取ると、その中に飴色の液体がとろりと注がれた。
 それはむわりと甘くほろ苦い匂いを立てていた。
 すぐにわかった。
 セルゲイの大好物であるウイスキーだ。
 老騎士がテーブルの上に置いた瓶には、『サンデル産二五年』というラベルが張られていた。

「いいよ、俺は……」

「とっくに成年は過ぎておろう。付き合え」

 アーミュを寝かしつけてきたテュミルが戻ってきて、暖炉の近くの寝椅子に体を預けた。

「おじじ。アーミュには、グレイがここに来るとしか言ってなかったでしょ?」

 顎肘をつくテュミルの正面で、セルゲイがゴブレットをあおる。
 その中で、氷がからりと音を立てた。
 一般家庭には珍しい氷に、グレイは眉を上げた。
 この農家の地下には、よく冷える室(むろ)が備え付けてあり、セルゲイのコレクションと買った氷を蓄えてあるのかもしれない。

「当り前じゃ。今の段階ではな」

 老騎士の枯れたバスバリトンがうっすらと鳴る。
 その静かな響きは、深まる夜にぴったりだった。
 暖炉と蝋燭の明かりで、セルゲイの顔にはくっきりと影が刻まれている。
 暖炉の正面で一人がけソファに腰を下ろしているグレイも、声をひそめた。

「聞かせてくれ、セルゲイ。黒獅子団って、なんだ? 俺を王宮から連れ出す手引きをしたのは、お前なんだろう? ご丁寧にラインとミラーへの手紙を用意して、ミルを迎えに寄越したのは――?」

「あたしよ」

 テュミルがグレイを遮った。それは吐息のように静かだったのに、部屋中に染み通るような声だった。

「あたしが、あんたとゆっくり話したかったの」

 そう言うテュミルのアメジストの瞳が、真っ直ぐにグレイを貫いた。
 そこには憎まれ口を叩くときのいたずらっぽい煌めきはなく、ナイフのように鋭い光が宿っていた。
 彼女の瞳に吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚え、グレイはとっさに茶化した。

「わかった。二人っきりがいいなら、俺の部屋に行こうか」

 高鳴る鼓動に気づかないふりをするためだったのに、声がかすれてしまい、余計に恥ずかしさが増す。

「……なんて、色っぽい話じゃ、ないよな」

 誤魔化しに薄ら笑いを浮かべたグレイの肩を、セルゲイががっしりと掴んで揺さぶった。
 そして火照る顔で一つしゃっくりをした。
 ツンとした酒臭さがグレイの鼻を刺した。

「いたすなら、儂は付き添うぞ。お前らの親代わりじゃからな。グレイに至っては初体験――」

「じょ、冗談だって!」

「おじじは黙ってて!」

 グレイとテュミルに揃って一喝され、老騎士は目を大きく見開いた。
 そして肩をすくめておどけると、猫背になってゴブレットのウイスキーを舐めた。
 恥の上塗りをしやがって。
 少年はセルゲイの横顔をひとしきり睨むと、たまらなくなって髪を繰り返しかき上げた。
 真実の愛のために守り続けてきた純潔を名誉であると同時に不名誉なことだと思っていたから、こんな形で露呈されるのは心外で腹立たしく、恥ずかしいにもほどがあった。
 頬が燃えるように熱くて、グレイは思わず顔を触った。
 火照った肌に触れた手指も、じっとりと汗ばんでいる。
 耳も熱い。
 急に乾いた喉を、ひと思いにウイスキーで潤した。
 その液体も、口から腹へと体内を焼きながら落ちていった。
 夜でよかったと、グレイは思った。
 蝋燭の炎が空間を朱く染めているから、顔色はばれないだろう。
 昼間ならばからかわれたに違いない。
 対する少女は、俯いて深呼吸を繰り返していた。
 たれ落ちた髪で、表情は見えない。
 そしておもむろに顔を上げた。
 さきほどまでは凛然とした表情だったのに、今度は悲しげに歪んでいた。
 口元が震えている。

「グレイ、ごめんなさい。〈リッコ事件〉は、あたしのせいなの。あたしが間に合っていれば、女王様は亡くなられずに済んだのよ……」

 テュミルの瞳が、ついと逸らされた。 

「それはどういう――?」

 突然の謝罪と告白に理解が追い付かなくて、グレイは呆けてしまった。
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