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一、黒髪のグレイ

6、師父のコテージ〈インキ・マリ〉(1)

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 すっかり陽が落ちた空は、星々の踊るステージになっていた。
 月は睫毛のように体を弓なりに細らせて、主役を星々に譲っている。
 その小さな輝きたちは城内から見上げるよりもずっと賑やかで、グレイの心にもぽっと明かりが灯るようだった。
 先導する少女は、肩をすくめて縮こまりながら歩いてる。
 理由は明らかだ。
 先程の戦いで頭からブーツまですべて水浸しになったのだ。
 マントも例外ではなかった。

「さっむ……! ちょっとグレイ、上ばっかり見てとろとろ歩いてたら、朝になるわよ!」

「わかってるって。俺だって、早く休みたいさ」

 テュミルに注意され、グレイはむっとした。
 彼とて、のんびりと天体観測をできるようないい気分ではなかった。
 初めての連続で疲れていたし、濡れた服が気持ち悪いし、吹き付ける風は冷たい。
 何よりも腹が減っていた。
 それは野生の獣も同じようだった。
 地下水路から出て数回、オオカミのような魔物に襲われは追い返すを繰り返してきた。
 不幸中の幸い、荷物は水にやられずに済んだので、二人はランタンや魔術書の炎を使えた。
 あらゆる逆風に殴られながら、とぼとぼと歩くグレイたちを迎えたのは、一軒の農家だった。
 橙色の明かりがついて、屋内はとても暖かそうに見える。
 壁には蔦が絡みついているらしく、星明かりに照らされたシルエットは黒くもじゃもじゃしていた。
 辺りには斬りっぱなしの樹木で作られた柵が大地に打ちつけられていて、なだらかな丘――おそらく牧草地だろう――を区切っている。
 少し遠いところから、羊のおしゃべりが聞こえてきている。
 おまけに、家の煙突からは何か白っぽい煙が上がっていて、それに交じって暖かくおいしそうな匂いが漂っている。
 この、ねぎを炒めたような焦げた、あるいは薪を燃やす香ばしい匂いは、調理場のあたりで嗅いだことがあった。
 間違いなく、おいしい匂いだ。
 グレイの喉が鳴る。
 少年王は立ち尽くした。
 殺伐とした王宮内や巨大な怪物と戦ったのが嘘のように、のどかな世界がそこに広がっていた。
 市井の者にとって王子と王宮が夢物語の舞台であるのと同じように、グレイにとっては農場の田舎暮らしが絵物語だった。
 幾度となく絵本で見てきたものは、実在したのだ。

「はぁ……やっと着いた……」

 テュミルは感慨深げにする少年をおいて、勝手に扉を開けて家に入っていった。
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