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第一楽章 手紙を書く女-Allegro con brio-

1-2 探偵と契約(2)

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 青年は手帳に「セシルに謝る」と書きとめるとお気に入りのシルクハットを被り、ナズレの運転で、モルフェシア大公国の首都ケルムの中心街セントラルエリアへ向かった。
 彼がグウェンドソンの名で買った家のある西地区は戸建てが多く、自動車同士、馬車同士が余裕を持ってすれ違えるだけの道幅がある。中心街はその反対で、車両一台が通るのもやっとの一方通行の迷路になっていた。そのため運転手や御者は脳に叩き込んだ地図を参照しながら、脇道からふと現れるかもしれない歩行者に気をつけるという、二重のタスクを常に課せられていた。もちろんナズレはそのどちらもそつなくこなした。
 流れる景色、高く連なる建物とそれらを実現した技術を見ると、遠くまで来たものだといつも思う。
 ここモルフェシア大公国は、その名の通りモルフェシア大公が治める国である。パーシィの故郷、コルシェン王国と同じジュビリアの大地に根ざしていた。大陸の西海岸をなぞるコルシェンが水産資源に恵まれているのに対し、山並みに囲まれたモルフェシアは陸の孤島と言えるほど資源も限られ地理的にも不利な位置にあった。
 だが、モルフェシアの歴史は途切れることなく続き、今も発展し続けている。
 その所以は全てファタル湖に帰結し、ファタル湖が無ければモルフェシアは無かっただろう。
 と、結論づけるレポートを書いたのは、パーシィが学資援助をしている少女バーバラだった。
 考古学を専攻する彼女の実直な述懐は読む人を納得させる論理で構成されている。
 かくいうパーシィも、歴史書を紐解く時間を節約させてもらった一人だ。
 彼女の模範的なレポートを元にモルフェシアの歴史を溯ると、原初、この辺りには何もなく、ファタル湖――巨大なオアシスの恵みに縋るだけの小さな村があったという。やがて、人々がこのささやかな営みを守らんとしてモルフェウス騎士団を形成すると、小さな村は、壁と水を持つ宿場町として地図に存在が認められるようになった。そして時の皇帝から騎士団長がその功績により大公の位を授かったことを期に、モルフェウス騎士団擁するその街はモルフェシア大公国と相成ったのである。
 そして現在。この国は世界随一の文明を誇るようになり、その結果飛空艇が大空を闊歩する「夢追い人の国」とまで呼ばれるようになった。首都たるケルムの中には世界最高水準の機工技術と国の総人口が押し込まれていると言っても過言ではない。それほどこの街は豊かに栄えているが、その他の土地は歴史以前と相変わらず痩せたステップ地帯だった。
 ケルムの真ん中には相変わらず、市民の命を繋ぐ青い湖――ファタル湖がぽっかりと浮かんでいる。あるいは、建物の山をえぐり抜いたかのように、そこだけが窪んでいた。現在もそこから清水が絶えず湧き出すことから、人々は歴史以前から口伝えされる天空の城に住まう女神の存在を信じて疑わなかった。これを女神信仰ないしラ・フォリアの教えと言う。
 その湖の上に、人工的に作られた島があった。そこにぽつねんと建てられた城が、パーシィの目的地だった。その名をフォベトラと言い、時のモルフェシア大公の住まいであった。
 フォベトラ城へと続く渡り橋――アヴレンカは細く、自動車も馬車も通れない。だから招待客はそこで乗り物を降り、執事や御者たちは橋の手前に群れなして主人の帰りを待たねばならなかった。

「二時間後に。戻らなければセシルを優先してくれ」

「仰せのままに、殿下」
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