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第四楽章 黄金のタクト-Allegro-
4-1 王子、屹立す
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パーシィが連絡を受けたのは、プリマヴェラ氏との契約書にサインした後でだった。
プリマヴェラ社のオフィスにフィリナから電話が入ったのだ。
彼らはいくら長期の休みを与えても一週間ですぐに帰ってきてしまうきらいがあった。
今回も例に漏れなかったようだ。恐らく、セシルの到着を知らせるコールに違いない。
「殿下!」
しかし、受付嬢から手渡されて出た電話では、メイド長がらしくなく切迫していた。
「大変なことになりました! セシル様が――!」
「フィリナ。落ち着きたまえ。セシルが何だって?」
受話器越しに大きな深呼吸が聞こえる。
「バーバラから連絡が入って。セシル様が何者かに連れて行かれるのを、フォベトラ城前の古道具屋から見たそうです。上等な自動車で。使用人が何人もいる若い貴族のようでした」
「独りで帰すべきではなかったか。フォベトラ城だな。すぐに行こう」
パーシィが受話器を置こうとすると、フィリナが素早く付け加えた。
「ナズレさんがお迎えに上がります。そろそろ着きますわ。わたしたちはどうすれば――!」
「いつも通りにしていてくれ。ナズレは僕の国章を持っていたか?」
「ええ。ぬかりはありません。どうかお気をつけて」
探偵は短く礼を言うと、受話器を受付嬢に返し、インヴァネスコートを羽織りなおした。
まただ。また、守り損ねている。
今度は自らの出自を隠すことを優先したがために起こった判断ミスだ。
パーシィ・グウェンドソンという男は、己の失敗を呪う前に行動をとる人間だった。
「パルシファル様。セシルがどうかなさったのですか?」
青年の身の翻しように、社長の娘エマニュエラ・ラ・プリマヴェラが心配そうに問う。
パーシィは一つ思案すると、笑顔を取り出した。
「心配には及ばないよ、エマニュエラ嬢。知らない若い男が僕という保護者も通さず、セシルをフォベトラ城に招待したらしい」
「まさか、メルヴィンが……?」
少女は、あっと開きかけた口を押さえたので、パーシィは思わず眉を上げた。
それを認めたらしく、令嬢が続けてくれる。
「メルヴィン――スパーク侯爵はわたくしどものクラスメイトですの。セシルとも知己ですわ。ですから、身柄の無事は保証されております。彼はモルフェシア大公の腹違いの弟なのです」
「なるほどね」
ジャスティンではなかったか。少しの安心はすれども、逆立った気は収まらない。
「でも、誘拐だなんてそんな大胆なことを出来る男の子ではありませんの。何か理由が……」
その時オフィスの扉が開かれた。現れたのは白銀の髪をした初老の執事ナズレその人だった。
「殿下。お迎えに上がりました」
一週間しか離れていないのに、その顔も物言いもなんだか懐かしく感じられた。
「プリマヴェラ卿。レスターテをいつでも出せるようにしてもらえますか」
「もちろんですとも。お前たち!」
パーシィの目くばせを受け、プリマヴェラ氏は部下たちになにやら言い含めた。
そして、彼らはナズレの入ってきた扉から出て行った。
「では僕も行こう」
青年は、赤毛の少女に背を向けた。
「正々堂々と殴りこんでくるよ」
***
ドメルディ空港のバス乗り場近くで、パーシィはナズレの助けを省きプリマヴェラ社製の自家用車に乗り込んだ。すると思いがけず、膝に白いものが飛び乗ってきた。
ふわふわの毛に包まれた両の前足をパーシィの胸に伸ばしてくる。
「アルプ?」
「おや。いつの間に入り込んだのでしょう」
運転席に座り、景気よく扉を閉めたナズレが振り向かずに言う。
「お前もセシルが心配なのか?」
子狐は、パーシィのコートに毛がつくのもお構いなしに鼻を擦りつけた。
小さな仲間ができた気がする。ほんの少しだけ気分がましになったのを感じながら、探偵はシートベルトをしっかりと止めた。
「ナズレ。飛ばしていいぞ」
「仰せのままに」
バックミラー越しに、執事がニヤリとした。
***
ケルムの南端にあるドメルディ空港からセントラルエリアまで、ゆったりと走れば、信号機につかまって一時間はかかる。それをナズレは、驚異のショートカットで三〇分に短縮してしまった。ナズレの頭脳に秘められた地図もさながら、車の性能も素晴らしかった。高速飛空艇を作りたがるプリマヴェラ社ならではだ。と、パーシィは体を揺さぶられながら舌を巻いた。もちろん、数々の通りを無傷で攻略したナズレの技術も高い。
小さなアルプが車内でボールのように転がされぬよう、抱きしめながらのドライブだった。
それが終わった頃には、心底ほっとした。
「お疲れ様でした。殿下、お手をどうぞ」
さすがのパーシィも少しくらくらしたので、ナズレの手を取って車を降りた。
ファタル湖で冷やされた清澄な空気がおいしく感じる。
少し見上げた青空には、天空城ヘオフォニアがのった孤島が何事もなく浮いている。
「はは……。情けないな」
「それから、こちらを」
かすかに眉をひそめた主人に、執事が懐から取り出した小箱を手渡す。
パーシィが無造作にそれを開くと、紺色のビロードに鎮座した対のバッジが顔を見せた。
六角形の淵を金のアイビーが縁取り、その上に朝露を模した真珠が浮かんでいる。六つの角にはそれぞれ色の異なるラウンド・ブリリアント・カットのダイヤモンドが輝く。中央には、コルシェンの象徴となっている雄鹿が、花冠を喜び飛んでいる。
探偵はナズレが肩にかけてくれた貂のマントを、先程のコルシェンの国章で留めた。
「来るか?」
パーシィが背で問う。
「必要とあらば」
主人は執事の答えを聞かずに、フォベトラ城へと続く、歩きなれたアヴレンカ橋を進んだ。
アルプもなぜか、彼らにぴったりとついてゆく。
そのときだった。
強風が、パーシィとナズレを煽りはじめた。
それは石のアーチでできたアヴレンカ橋を揺らすような大きなものだった。
嵐の種となるような雲は一つもなかったのに。彼はマントをきつく掴んでかがんだ。
アルプがその中に避難する。ナズレが彼に覆いかぶさり、かばうようにして守ってくれる。
渦巻く風がぶつけてくるのは砂だけではない。巻き上げた水しぶきでさえも、つぶてのように強烈に感じる。
ピアスとして留めているマナの耳飾りが、耳ごと持って行かれそうに思えた。
だが、右の耳は風の奥に人の声を聞き取った。女と少年の声だ。
「おいで、メルヴィン! 今こそ天空城に行くのよ!」
「セシルが消えたっていうのに、どうして僕がいかねばならないんですか!」
少年が噛みつき吠えるのを聴きとめたパーシィは、嵐の中に目を開いた。
空色の瞳が濁る風の中に捉えたのは、小型の飛空艇だった。プリマヴェラ社の高速艇レスターテではない。すべてが黒塗りのそれはどちらかというとセリン・アンド・ハウアー社の趣味に似ている。小さな飛空艇はフォベトラ城のほぼ最上階あたりの見張り台に、タラップを伸ばしていた。そこを、数人が登っていくと、飛空艇はおもむろに高度を上げはじめた。
「この嵐は、あの飛空艇のものですな!」
目ざとい執事が叫んだとおりだと、パーシィも思った。
二人は強風に煽られながらも、フォベトラ城に入った。門番は奇遇なことにロウとコッツの二人組で、なにも言わずにパーシィたちを通したあと、城門を固く閉ざした。
探偵は遅まきながら気付いた。はめられた。
「入れてくれたことには礼を言おう。だが、帰れないのは困る」
知己の衛兵は、まっすぐに階段ホールを見上げたままだ。彼らに文句を言っても致し方ないことは、パーシィにもわかっていた。彼らは国に雇われている身なのだ。
その探偵の背に、階段の方から声がかかった。
「少しの間だけだよ、パーシィ」
よく響くバリトンは、彼の友人ジャスティンのものだった。
「その格好で来たからには、久しぶりに正式に呼びたいね。ようこそ。コルシェン王国第一王子パルシファル=ソルロス・イージアン・コルネシオどの」
パーシィ=パルシファル王子は黒髪の男をキッと見上げた。
「ジャスティン。君の弟が僕の魔女を誘拐したそうじゃないか? コルシェン王国大使の客を攫って、ただで済むと思っているのか?」
「セシル嬢のことは、兄の私からも詫びよう。ただ、理由があったことも知っていて欲しい。彼女はベラドンナに狙われていた。それで保護を試みたのだ。だが、彼女は消えてしまった」
「消えた?」
にわかに信じ難く、パーシィは階段を上って問い詰めようとした。
その場で、もう一対の衛兵に阻まれる。
「メルヴィンの言うことを信じるならば、な。セシル嬢はベラドンナに追い詰められたのち、クローゼットの中で魔法を使うと言い、姿を消した。本当に魔法を使ったのかもしれないし、あるいは城の最上階から、身を投げたのかもしれない――」
パーシィの頭で何かが弾けた。衛兵が交差させた槍の下を無理やりかいくぐって、ジャスティンめがけて駆けた。そして思い切り、友人の襟首をつかんだ。
「セシルに限って、そんなことをするわけがない!」
王子が噛みついた目と鼻の先で、大公がひるんだ。
今、己がどんな顔をしているかはわからない。
けれども、鼻が、眉が、目元が引くついて仕方がない。
何故そう思ったか。それは、目と鼻の先でジャスティンが同じ表情をしていたからだ。
「……しかし、彼女が持っていた〈地上の翼〉が落ちていたんだ。かわいそうに繊細な娘だったんだろう。絶望して身を投げたに違いない――」
「殿下!」
そのとき、鋭い発砲音と共になにかが体にぶつかって、二人の貴人はバランスを崩し、その場に倒れた。焦げ臭さに、一瞬で何が起こったか悟る。発砲されたのだ。
二人をかばってくれたナズレは無傷で、懐から拳銃を取り出して応戦する。
「衛兵!」
ジャスティンの叫びと同時に、女の高笑いが聴こえた。
「残念! 次は外さないわっ!」
階段ホールの上を見上げると、ベラドンナが拳銃に次の弾を込めているところだった。
「探偵と大公は喧嘩して死ぬのよ――きゃあっ!」
刹那、甲高い爆発音と共に彼女の頬に、紅い線が描かれた。パーシィのステッキが、火を噴いたのだ。いわゆる仕込杖だ。柄のところの金属は飾りではなく、引き金だった。
「丸腰の人間を狙うとは、つくづく趣味が悪い人だ!」
パーシィは敢えて外した。彼女の鱗粉にまみれたような目元を狙っても良かったが、そうはしなかった。罰は後からでも受けさせられる。
「うるさいうるさい! なによ、王子だからって! ステッキが銃だなんて聞いてないわよ! でも〈地上の翼〉はあたくしたちが持ってる! 悔しかったら来てみなさい、ヘオフォニアに! その頃にはあたくしがフォルトゥーネになってるけどね! でもお生憎様! かわいいセシルちゃんはどっこにもいない! ファタル湖に沈んで死んじゃったわよ!」
赤毛の女はそう吐き捨てると、そのまま階段を上って行った。
あの疾風を巻き起こす飛空艇は、彼女の手配したものらしい。
パーシィは、腸《はらわた》が煮えくり返りそうだ。
国章がついていることも忘れ、マントをかなぐり捨てる。
視界の端で、それをナズレがそっと回収してくれた。
「くそっ! こんなときに!」
視界の中で、ジャスティンがすぐに立ちあがった。
「私は星の塔へ行く。君も来るか、パルシファル?」
先程のいさかいも行き違いとしか感じていないのか、座り込んだままのパーシィに向かって、まっすぐに手を差し出してきた。
「私はあの日、君とセシル嬢に嘘を吐いた。モルフェシア大公は代々、星の塔からその先――ヘオフォニアへ続く扉の鍵を持っているのだ。そこをくぐれば、ヘオフォニアに行ける」
「僕は……」
「助けてくれパルシファル。私なら君をフォルトゥーネ様に会わせてあげられる。だから!」
パーシィは、差し出された右手を呆けて見つめるばかりだった。
初恋の少女、〈記憶の君〉のすべてを取り戻すための十年だった。
彼女の名前を再び呼ぶための月日は、あまりにも長かった。
今、その願いを叶えられるかもしれない。
王子はゆっくりと手を伸ばした。
君のパートナーになりたい。
探偵は、はっとした。
どうして、自分が言ったことを忘れていたのだろう。
なんか、共犯者、ってかんじ。
そう言って微笑んだ少年を、どうして放っておけるだろう。
パルシファル様。
青年の右耳に、少女の声が聴こえた。
「セシル……? 君なのか?」
呼ぶと、返事のようにまた聴こえた。
違う。パーシィはわかっていた。セシルは、探偵王子の真実の名を知らない。
では、この声の主は誰だろう。
パルシファル様。
少女は呼び、そして不思議な言語で旋律を紡ぎだした。
歌は鍵。オレたちが出会えば、運命が変わる。
探偵がゆらりと立ちあがるのを、大公が期待のまなざしで見つめている。
パーシィは自ずと悟った。彼にはおそらく、聴こえていない。
探偵は頭をふって、金髪を揺らして言った。
「ジャスティン。僕は、自分で天空城に行く。約束したんだ。相棒と」
呆然とする友人と執事とを置いて、探偵王子は歌声のする方へと駆けだした。
「パーシィ!」
歌は鍵なんだ。
***
フォベトラの床全体に敷き詰められた絨毯が、パーシィの靴底を受け止める。
青年の体が上下するのに合わせて、右の耳でマナの耳飾りが涼しい音を立てて揺れる。
その奥から、いつか聴いた優しい歌が聴こえる。旋律は確かに存在するが、あまりにも自然な抑揚で、まるで語りかけてくるようだ。だが、その意味はわからない。セシルが言っていた、古く失われた言語のようだ。セシルが奏でた〈マナの歌〉のように、歌声に伴奏は無い。けれどもソプラノは、一本の糸のように途切れなく聴こえている。
風が来るほうから、歌も流れてくる。
パーシィは、階段の陰に隠れていた居住区への扉をくぐった。
客をもてなすサロンとは異なる、私的な空間が広がっている。暖炉に掘られた大公家の紋章が艶めいている。長らく愛されてきた証拠だ。公的な部屋よりもいくぶん狭さはあるが、家具やカーテンが寄り添った暖かな空間だ。いくら友人と言えど、招待されたことはない。
探偵は軽く首を回す。兵士はおろか、使用人も一人もいない。休みを取らされたのか、もしくは出払っているようだ。
どこかの窓が閉まっていないらしく、隙間風が部屋に侵入している。
青年が新鮮な空気を嗅ぎつけた先からまた、少女の歌声が流れ込んでくる。
まるで、歌が風を呼び込んでいるようだ。
音楽が生まれる場所を求めて、パーシィは階段をしっかりと踏みしめた。
「ここが居住区の最上階……」
辿り着いたのは誰かの寝室だった。薄緑色の壁紙に模様は無く、寝台と洗面台がある。描きもの机の上は散らかったままだ。恐らく本人のせいではない。なぜなら。バルコニーへ通じる窓が開け放たれたままで、風が部屋中を荒らしているからだ。少し湿った匂いがするのは、ファタル湖を撫でたからだ、と青年は直感した。そこもやはり、無人だった。
パルシファル様。
「まただ……!」
彼を呼ぶ声が、先ほどよりもぐっと近づいている。
すると、青年のすねになにかやわらかいものがぶつかってきた。
それは何度も、こつんとぶつかっては体をすりつけている。
「アルプ? ついてきたのか!」
パーシィが信じられないというふうに声を漏らすと、足元の白い生き物は、きゅんと声を上げてその場で飛び跳ねた。そしてその軽快さで、寝室の隣に走っていった。
歌声もそちらから聞こえる。
探偵は慎重に足を進めた。
扉の陰に誰かが潜んでいるかもしれない。
呼吸を浅く控え、足の裏全体で床を踏みしめながらゆっくりと進み、さっと人の気配を確かめる。だが、クローゼットの中で悠長に耳を掻くアルプ以外には、なにもいないようだった。
アルプの真正面には、古めかしい鏡があった。それはワードローブの影の中にあって、光を受けずして輝いている。パーシィはすぐに気付いた。歌がそこから滲みだしている。
「鏡……。もしかして!」
パーシィは風が散らかした服の上に膝をついて、鏡に顔を近づけた。
薄いガラス板に映り込んだのは、蜂蜜色の髪を乱した男の顔だ。空色の瞳は焦りで瞳孔が開いている。頬は興奮に上気しているにもかかわらず、顔色は優れない。彼の荒れた呼気が鏡面を曇らせていた、そのときだった。
まるで湖面が揺らぐようにして、探偵の顔が歪みだした。
声も出せずに見守っているパーシィの、尖って目立つ鼻や顎、頬骨は次第に丸くなり、髪は赤みを増してふわりと長くなった。つぶらな瞳は、エメラルドと同じ碧色だ。
青年は、その少女の――いや、少年の顔をよく知っていた。
「セシル? セシルなのか? 今、どこに……?」
そう問うた瞬間、パーシィの頭に激痛が走った。
突然のことに備えがなく、青年はその場で頭を抱えた。
突然殴られたような、それでいて割れそうなほど揺さぶられているような。
あるいは大音量で切り裂かれるようでもある。
寄せた眉の下で瞳は見開かれ、涙が瞼の淵にたまろうとしていた。
呼吸も許されないような激しい頭痛は、パーシィの記憶をも揺るがした。
黒く塗りつぶされた〈記憶の君〉が動き出したのだ。
失われた色彩が足先から蘇る。
髪の色は。瞳の色は。顔立ちは。頬はふっくらと薔薇色なことも思い出した。
唐突に溢れだした情報に、頭が耐えきれない。
そして呪わしいことに、芽吹いた記憶のかけらを押しとどめようとするものもある。
たった一つの男の頭の中で、二つがせめぎ合っている。
名前だ。
彼女の名だけが、出てこない。
歌は、いつのまにか止んでいた。
顔をゆがめて苦痛に耐える男に、鏡から声がかかった。
「……苦しめてしまって、ごめんなさい。でも、セシルは無事です」
それは透き通る春風のようなソプラノだった。
安堵がパーシィの心を温める。それだけならば、よかったのだが。
しかし今、彼を苦しめているものは全く別になってしまった。
僕はこの声に聴き覚えがある。導いてくれた歌い手なのだから当たり前か。
だが、パーシィが求めている答えはもっと深いものだった。
そうだ。彼女――〈記憶の君〉は歌う魔女だった。
「ここに、いたのか」
少女は青年の問いに答えず、問いを重ねた。
「夢追い人よ。セシルの元へ、行きたいですか?」
「僕の名を呼んでいたのも君……、そうだね?」
「あなた様にはその資格があります」
はぐらかす少女の声が、パーシィの心にしみいる。確信はまだ遠い、けれども。
「答えてくれ。僕たちは以前、会ったことがあるんだろう?」
声がかすれてみっともない。そう思う余裕は、今は無かった。
「セシルも、生きているんだな?」
鏡の乙女は頷いた。
「今はヘオフォニアに。これが最後のチャンスです。けれどもっと、苦しむことになります」
「かまわない。何があろうと!」
パーシィはそう言いきって、血走った瞳で鏡をまっすぐに見据えた。
「僕は行く! そしてもう一度、君の名を呼ぼう!」
セシルによく似た娘は、諦めたように、もしくはかみ殺したように微笑んだ。
そして、鏡を扉のように開いた。
プリマヴェラ社のオフィスにフィリナから電話が入ったのだ。
彼らはいくら長期の休みを与えても一週間ですぐに帰ってきてしまうきらいがあった。
今回も例に漏れなかったようだ。恐らく、セシルの到着を知らせるコールに違いない。
「殿下!」
しかし、受付嬢から手渡されて出た電話では、メイド長がらしくなく切迫していた。
「大変なことになりました! セシル様が――!」
「フィリナ。落ち着きたまえ。セシルが何だって?」
受話器越しに大きな深呼吸が聞こえる。
「バーバラから連絡が入って。セシル様が何者かに連れて行かれるのを、フォベトラ城前の古道具屋から見たそうです。上等な自動車で。使用人が何人もいる若い貴族のようでした」
「独りで帰すべきではなかったか。フォベトラ城だな。すぐに行こう」
パーシィが受話器を置こうとすると、フィリナが素早く付け加えた。
「ナズレさんがお迎えに上がります。そろそろ着きますわ。わたしたちはどうすれば――!」
「いつも通りにしていてくれ。ナズレは僕の国章を持っていたか?」
「ええ。ぬかりはありません。どうかお気をつけて」
探偵は短く礼を言うと、受話器を受付嬢に返し、インヴァネスコートを羽織りなおした。
まただ。また、守り損ねている。
今度は自らの出自を隠すことを優先したがために起こった判断ミスだ。
パーシィ・グウェンドソンという男は、己の失敗を呪う前に行動をとる人間だった。
「パルシファル様。セシルがどうかなさったのですか?」
青年の身の翻しように、社長の娘エマニュエラ・ラ・プリマヴェラが心配そうに問う。
パーシィは一つ思案すると、笑顔を取り出した。
「心配には及ばないよ、エマニュエラ嬢。知らない若い男が僕という保護者も通さず、セシルをフォベトラ城に招待したらしい」
「まさか、メルヴィンが……?」
少女は、あっと開きかけた口を押さえたので、パーシィは思わず眉を上げた。
それを認めたらしく、令嬢が続けてくれる。
「メルヴィン――スパーク侯爵はわたくしどものクラスメイトですの。セシルとも知己ですわ。ですから、身柄の無事は保証されております。彼はモルフェシア大公の腹違いの弟なのです」
「なるほどね」
ジャスティンではなかったか。少しの安心はすれども、逆立った気は収まらない。
「でも、誘拐だなんてそんな大胆なことを出来る男の子ではありませんの。何か理由が……」
その時オフィスの扉が開かれた。現れたのは白銀の髪をした初老の執事ナズレその人だった。
「殿下。お迎えに上がりました」
一週間しか離れていないのに、その顔も物言いもなんだか懐かしく感じられた。
「プリマヴェラ卿。レスターテをいつでも出せるようにしてもらえますか」
「もちろんですとも。お前たち!」
パーシィの目くばせを受け、プリマヴェラ氏は部下たちになにやら言い含めた。
そして、彼らはナズレの入ってきた扉から出て行った。
「では僕も行こう」
青年は、赤毛の少女に背を向けた。
「正々堂々と殴りこんでくるよ」
***
ドメルディ空港のバス乗り場近くで、パーシィはナズレの助けを省きプリマヴェラ社製の自家用車に乗り込んだ。すると思いがけず、膝に白いものが飛び乗ってきた。
ふわふわの毛に包まれた両の前足をパーシィの胸に伸ばしてくる。
「アルプ?」
「おや。いつの間に入り込んだのでしょう」
運転席に座り、景気よく扉を閉めたナズレが振り向かずに言う。
「お前もセシルが心配なのか?」
子狐は、パーシィのコートに毛がつくのもお構いなしに鼻を擦りつけた。
小さな仲間ができた気がする。ほんの少しだけ気分がましになったのを感じながら、探偵はシートベルトをしっかりと止めた。
「ナズレ。飛ばしていいぞ」
「仰せのままに」
バックミラー越しに、執事がニヤリとした。
***
ケルムの南端にあるドメルディ空港からセントラルエリアまで、ゆったりと走れば、信号機につかまって一時間はかかる。それをナズレは、驚異のショートカットで三〇分に短縮してしまった。ナズレの頭脳に秘められた地図もさながら、車の性能も素晴らしかった。高速飛空艇を作りたがるプリマヴェラ社ならではだ。と、パーシィは体を揺さぶられながら舌を巻いた。もちろん、数々の通りを無傷で攻略したナズレの技術も高い。
小さなアルプが車内でボールのように転がされぬよう、抱きしめながらのドライブだった。
それが終わった頃には、心底ほっとした。
「お疲れ様でした。殿下、お手をどうぞ」
さすがのパーシィも少しくらくらしたので、ナズレの手を取って車を降りた。
ファタル湖で冷やされた清澄な空気がおいしく感じる。
少し見上げた青空には、天空城ヘオフォニアがのった孤島が何事もなく浮いている。
「はは……。情けないな」
「それから、こちらを」
かすかに眉をひそめた主人に、執事が懐から取り出した小箱を手渡す。
パーシィが無造作にそれを開くと、紺色のビロードに鎮座した対のバッジが顔を見せた。
六角形の淵を金のアイビーが縁取り、その上に朝露を模した真珠が浮かんでいる。六つの角にはそれぞれ色の異なるラウンド・ブリリアント・カットのダイヤモンドが輝く。中央には、コルシェンの象徴となっている雄鹿が、花冠を喜び飛んでいる。
探偵はナズレが肩にかけてくれた貂のマントを、先程のコルシェンの国章で留めた。
「来るか?」
パーシィが背で問う。
「必要とあらば」
主人は執事の答えを聞かずに、フォベトラ城へと続く、歩きなれたアヴレンカ橋を進んだ。
アルプもなぜか、彼らにぴったりとついてゆく。
そのときだった。
強風が、パーシィとナズレを煽りはじめた。
それは石のアーチでできたアヴレンカ橋を揺らすような大きなものだった。
嵐の種となるような雲は一つもなかったのに。彼はマントをきつく掴んでかがんだ。
アルプがその中に避難する。ナズレが彼に覆いかぶさり、かばうようにして守ってくれる。
渦巻く風がぶつけてくるのは砂だけではない。巻き上げた水しぶきでさえも、つぶてのように強烈に感じる。
ピアスとして留めているマナの耳飾りが、耳ごと持って行かれそうに思えた。
だが、右の耳は風の奥に人の声を聞き取った。女と少年の声だ。
「おいで、メルヴィン! 今こそ天空城に行くのよ!」
「セシルが消えたっていうのに、どうして僕がいかねばならないんですか!」
少年が噛みつき吠えるのを聴きとめたパーシィは、嵐の中に目を開いた。
空色の瞳が濁る風の中に捉えたのは、小型の飛空艇だった。プリマヴェラ社の高速艇レスターテではない。すべてが黒塗りのそれはどちらかというとセリン・アンド・ハウアー社の趣味に似ている。小さな飛空艇はフォベトラ城のほぼ最上階あたりの見張り台に、タラップを伸ばしていた。そこを、数人が登っていくと、飛空艇はおもむろに高度を上げはじめた。
「この嵐は、あの飛空艇のものですな!」
目ざとい執事が叫んだとおりだと、パーシィも思った。
二人は強風に煽られながらも、フォベトラ城に入った。門番は奇遇なことにロウとコッツの二人組で、なにも言わずにパーシィたちを通したあと、城門を固く閉ざした。
探偵は遅まきながら気付いた。はめられた。
「入れてくれたことには礼を言おう。だが、帰れないのは困る」
知己の衛兵は、まっすぐに階段ホールを見上げたままだ。彼らに文句を言っても致し方ないことは、パーシィにもわかっていた。彼らは国に雇われている身なのだ。
その探偵の背に、階段の方から声がかかった。
「少しの間だけだよ、パーシィ」
よく響くバリトンは、彼の友人ジャスティンのものだった。
「その格好で来たからには、久しぶりに正式に呼びたいね。ようこそ。コルシェン王国第一王子パルシファル=ソルロス・イージアン・コルネシオどの」
パーシィ=パルシファル王子は黒髪の男をキッと見上げた。
「ジャスティン。君の弟が僕の魔女を誘拐したそうじゃないか? コルシェン王国大使の客を攫って、ただで済むと思っているのか?」
「セシル嬢のことは、兄の私からも詫びよう。ただ、理由があったことも知っていて欲しい。彼女はベラドンナに狙われていた。それで保護を試みたのだ。だが、彼女は消えてしまった」
「消えた?」
にわかに信じ難く、パーシィは階段を上って問い詰めようとした。
その場で、もう一対の衛兵に阻まれる。
「メルヴィンの言うことを信じるならば、な。セシル嬢はベラドンナに追い詰められたのち、クローゼットの中で魔法を使うと言い、姿を消した。本当に魔法を使ったのかもしれないし、あるいは城の最上階から、身を投げたのかもしれない――」
パーシィの頭で何かが弾けた。衛兵が交差させた槍の下を無理やりかいくぐって、ジャスティンめがけて駆けた。そして思い切り、友人の襟首をつかんだ。
「セシルに限って、そんなことをするわけがない!」
王子が噛みついた目と鼻の先で、大公がひるんだ。
今、己がどんな顔をしているかはわからない。
けれども、鼻が、眉が、目元が引くついて仕方がない。
何故そう思ったか。それは、目と鼻の先でジャスティンが同じ表情をしていたからだ。
「……しかし、彼女が持っていた〈地上の翼〉が落ちていたんだ。かわいそうに繊細な娘だったんだろう。絶望して身を投げたに違いない――」
「殿下!」
そのとき、鋭い発砲音と共になにかが体にぶつかって、二人の貴人はバランスを崩し、その場に倒れた。焦げ臭さに、一瞬で何が起こったか悟る。発砲されたのだ。
二人をかばってくれたナズレは無傷で、懐から拳銃を取り出して応戦する。
「衛兵!」
ジャスティンの叫びと同時に、女の高笑いが聴こえた。
「残念! 次は外さないわっ!」
階段ホールの上を見上げると、ベラドンナが拳銃に次の弾を込めているところだった。
「探偵と大公は喧嘩して死ぬのよ――きゃあっ!」
刹那、甲高い爆発音と共に彼女の頬に、紅い線が描かれた。パーシィのステッキが、火を噴いたのだ。いわゆる仕込杖だ。柄のところの金属は飾りではなく、引き金だった。
「丸腰の人間を狙うとは、つくづく趣味が悪い人だ!」
パーシィは敢えて外した。彼女の鱗粉にまみれたような目元を狙っても良かったが、そうはしなかった。罰は後からでも受けさせられる。
「うるさいうるさい! なによ、王子だからって! ステッキが銃だなんて聞いてないわよ! でも〈地上の翼〉はあたくしたちが持ってる! 悔しかったら来てみなさい、ヘオフォニアに! その頃にはあたくしがフォルトゥーネになってるけどね! でもお生憎様! かわいいセシルちゃんはどっこにもいない! ファタル湖に沈んで死んじゃったわよ!」
赤毛の女はそう吐き捨てると、そのまま階段を上って行った。
あの疾風を巻き起こす飛空艇は、彼女の手配したものらしい。
パーシィは、腸《はらわた》が煮えくり返りそうだ。
国章がついていることも忘れ、マントをかなぐり捨てる。
視界の端で、それをナズレがそっと回収してくれた。
「くそっ! こんなときに!」
視界の中で、ジャスティンがすぐに立ちあがった。
「私は星の塔へ行く。君も来るか、パルシファル?」
先程のいさかいも行き違いとしか感じていないのか、座り込んだままのパーシィに向かって、まっすぐに手を差し出してきた。
「私はあの日、君とセシル嬢に嘘を吐いた。モルフェシア大公は代々、星の塔からその先――ヘオフォニアへ続く扉の鍵を持っているのだ。そこをくぐれば、ヘオフォニアに行ける」
「僕は……」
「助けてくれパルシファル。私なら君をフォルトゥーネ様に会わせてあげられる。だから!」
パーシィは、差し出された右手を呆けて見つめるばかりだった。
初恋の少女、〈記憶の君〉のすべてを取り戻すための十年だった。
彼女の名前を再び呼ぶための月日は、あまりにも長かった。
今、その願いを叶えられるかもしれない。
王子はゆっくりと手を伸ばした。
君のパートナーになりたい。
探偵は、はっとした。
どうして、自分が言ったことを忘れていたのだろう。
なんか、共犯者、ってかんじ。
そう言って微笑んだ少年を、どうして放っておけるだろう。
パルシファル様。
青年の右耳に、少女の声が聴こえた。
「セシル……? 君なのか?」
呼ぶと、返事のようにまた聴こえた。
違う。パーシィはわかっていた。セシルは、探偵王子の真実の名を知らない。
では、この声の主は誰だろう。
パルシファル様。
少女は呼び、そして不思議な言語で旋律を紡ぎだした。
歌は鍵。オレたちが出会えば、運命が変わる。
探偵がゆらりと立ちあがるのを、大公が期待のまなざしで見つめている。
パーシィは自ずと悟った。彼にはおそらく、聴こえていない。
探偵は頭をふって、金髪を揺らして言った。
「ジャスティン。僕は、自分で天空城に行く。約束したんだ。相棒と」
呆然とする友人と執事とを置いて、探偵王子は歌声のする方へと駆けだした。
「パーシィ!」
歌は鍵なんだ。
***
フォベトラの床全体に敷き詰められた絨毯が、パーシィの靴底を受け止める。
青年の体が上下するのに合わせて、右の耳でマナの耳飾りが涼しい音を立てて揺れる。
その奥から、いつか聴いた優しい歌が聴こえる。旋律は確かに存在するが、あまりにも自然な抑揚で、まるで語りかけてくるようだ。だが、その意味はわからない。セシルが言っていた、古く失われた言語のようだ。セシルが奏でた〈マナの歌〉のように、歌声に伴奏は無い。けれどもソプラノは、一本の糸のように途切れなく聴こえている。
風が来るほうから、歌も流れてくる。
パーシィは、階段の陰に隠れていた居住区への扉をくぐった。
客をもてなすサロンとは異なる、私的な空間が広がっている。暖炉に掘られた大公家の紋章が艶めいている。長らく愛されてきた証拠だ。公的な部屋よりもいくぶん狭さはあるが、家具やカーテンが寄り添った暖かな空間だ。いくら友人と言えど、招待されたことはない。
探偵は軽く首を回す。兵士はおろか、使用人も一人もいない。休みを取らされたのか、もしくは出払っているようだ。
どこかの窓が閉まっていないらしく、隙間風が部屋に侵入している。
青年が新鮮な空気を嗅ぎつけた先からまた、少女の歌声が流れ込んでくる。
まるで、歌が風を呼び込んでいるようだ。
音楽が生まれる場所を求めて、パーシィは階段をしっかりと踏みしめた。
「ここが居住区の最上階……」
辿り着いたのは誰かの寝室だった。薄緑色の壁紙に模様は無く、寝台と洗面台がある。描きもの机の上は散らかったままだ。恐らく本人のせいではない。なぜなら。バルコニーへ通じる窓が開け放たれたままで、風が部屋中を荒らしているからだ。少し湿った匂いがするのは、ファタル湖を撫でたからだ、と青年は直感した。そこもやはり、無人だった。
パルシファル様。
「まただ……!」
彼を呼ぶ声が、先ほどよりもぐっと近づいている。
すると、青年のすねになにかやわらかいものがぶつかってきた。
それは何度も、こつんとぶつかっては体をすりつけている。
「アルプ? ついてきたのか!」
パーシィが信じられないというふうに声を漏らすと、足元の白い生き物は、きゅんと声を上げてその場で飛び跳ねた。そしてその軽快さで、寝室の隣に走っていった。
歌声もそちらから聞こえる。
探偵は慎重に足を進めた。
扉の陰に誰かが潜んでいるかもしれない。
呼吸を浅く控え、足の裏全体で床を踏みしめながらゆっくりと進み、さっと人の気配を確かめる。だが、クローゼットの中で悠長に耳を掻くアルプ以外には、なにもいないようだった。
アルプの真正面には、古めかしい鏡があった。それはワードローブの影の中にあって、光を受けずして輝いている。パーシィはすぐに気付いた。歌がそこから滲みだしている。
「鏡……。もしかして!」
パーシィは風が散らかした服の上に膝をついて、鏡に顔を近づけた。
薄いガラス板に映り込んだのは、蜂蜜色の髪を乱した男の顔だ。空色の瞳は焦りで瞳孔が開いている。頬は興奮に上気しているにもかかわらず、顔色は優れない。彼の荒れた呼気が鏡面を曇らせていた、そのときだった。
まるで湖面が揺らぐようにして、探偵の顔が歪みだした。
声も出せずに見守っているパーシィの、尖って目立つ鼻や顎、頬骨は次第に丸くなり、髪は赤みを増してふわりと長くなった。つぶらな瞳は、エメラルドと同じ碧色だ。
青年は、その少女の――いや、少年の顔をよく知っていた。
「セシル? セシルなのか? 今、どこに……?」
そう問うた瞬間、パーシィの頭に激痛が走った。
突然のことに備えがなく、青年はその場で頭を抱えた。
突然殴られたような、それでいて割れそうなほど揺さぶられているような。
あるいは大音量で切り裂かれるようでもある。
寄せた眉の下で瞳は見開かれ、涙が瞼の淵にたまろうとしていた。
呼吸も許されないような激しい頭痛は、パーシィの記憶をも揺るがした。
黒く塗りつぶされた〈記憶の君〉が動き出したのだ。
失われた色彩が足先から蘇る。
髪の色は。瞳の色は。顔立ちは。頬はふっくらと薔薇色なことも思い出した。
唐突に溢れだした情報に、頭が耐えきれない。
そして呪わしいことに、芽吹いた記憶のかけらを押しとどめようとするものもある。
たった一つの男の頭の中で、二つがせめぎ合っている。
名前だ。
彼女の名だけが、出てこない。
歌は、いつのまにか止んでいた。
顔をゆがめて苦痛に耐える男に、鏡から声がかかった。
「……苦しめてしまって、ごめんなさい。でも、セシルは無事です」
それは透き通る春風のようなソプラノだった。
安堵がパーシィの心を温める。それだけならば、よかったのだが。
しかし今、彼を苦しめているものは全く別になってしまった。
僕はこの声に聴き覚えがある。導いてくれた歌い手なのだから当たり前か。
だが、パーシィが求めている答えはもっと深いものだった。
そうだ。彼女――〈記憶の君〉は歌う魔女だった。
「ここに、いたのか」
少女は青年の問いに答えず、問いを重ねた。
「夢追い人よ。セシルの元へ、行きたいですか?」
「僕の名を呼んでいたのも君……、そうだね?」
「あなた様にはその資格があります」
はぐらかす少女の声が、パーシィの心にしみいる。確信はまだ遠い、けれども。
「答えてくれ。僕たちは以前、会ったことがあるんだろう?」
声がかすれてみっともない。そう思う余裕は、今は無かった。
「セシルも、生きているんだな?」
鏡の乙女は頷いた。
「今はヘオフォニアに。これが最後のチャンスです。けれどもっと、苦しむことになります」
「かまわない。何があろうと!」
パーシィはそう言いきって、血走った瞳で鏡をまっすぐに見据えた。
「僕は行く! そしてもう一度、君の名を呼ぼう!」
セシルによく似た娘は、諦めたように、もしくはかみ殺したように微笑んだ。
そして、鏡を扉のように開いた。
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