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第三楽章 春の嵐-Scherzo-

3-5 光と闇のデュエット

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「大人しくしてなさい。そうしたら、その可愛い顔に傷をつけずに済むから」

「はんっ! あんたこそ、大人しくそこで突っ立ってな!」

 セシルは目の前でふんぞり返るけばけばしい女――ベラドンナを鼻であしらった。
 友人の母親だろうと関係ない。こいつは敵だ。今になってリアの心配がよくわかる。

「目立ったら、何をされるかわからないわ。怖い目にあってほしくないの」

 パーシィが特別に懐が広い人間で、異端者を火炙りにしたい人間がいるとは知らなかった。
 セシルは、メルヴィンの肩を抱いて、窓辺まで走った。
 彼の両肩をがっしりと掴み、少女の声を装うのも忘れて小さな声で友に問う。

「メルヴィン、この部屋に箒ってある?」

「箒なんて無い! セシル、いったいどうするつもりなんだい?」

 ガーネットの瞳が動揺に揺れている。だが、我を見失ってはいなかった。

「逃げようと思って。下って、ファタル湖だよね? 深い?」

「飛び降りるつもりか! 無茶だ! ここはフォベトラ城の――!」

 セシルが友の言う事を聞かずに窓を開け放つと風が面となって少年たちを部屋に押し込んだ。
 セシルのレースの帽子がぶわりとまともに煽られて飛んでいく。
 旋風に攫われた帽子は、どんどんと小さく豆粒のようになって、しまいには水平線近くの湖の上に落ちた。もはや白い点でしかない。一部始終を見届けたセシルの背中が凍りつく。

「……嘘だろ……」

 そこは、城のほぼ最上階に位置した。下を見ると、見張り台が張り巡らされている。
 落ちれば体ごと打ちつけられて、即死は免れられないだろう。
 繋がった部屋、すなわちこの広いフロア全体が、メルヴィンの部屋だと言う事になる。

「牢屋に行くわよ、セシルちゃん」

 ベラドンナは髪を風に乱されながら口を曲げた。

「運動も、新鮮な空気も、味わうなら今のうちだわね!」

 彼女の後ろには、先に駆け付けたらしい兵士が一人二人いる。

「くっそ……!」

 セシルはやけくそになって、脱出の手助けになりそうなものを探し始めた。

「ごめん、開ける!」

 クローゼットに入った彼の後をメルヴィンが追う。魔少年の頭がめまぐるしく回転する。
 シーツを繋いでロープにするか? だめだ、切られたらおしまいだ。簡易的にカイトをつくる時間は無いし。〈アパショナータ〉、燃やしてどうする。〈バルカローレ〉、すぐ近くに水は無いだろ。〈アリア〉、だから媒体が無いと飛べないって。〈クラント〉、木も無い。
 都会の住居と言うのは、どうしてこんなに魔法と相性が悪いんだろう。

「くそぉ!」

 セシルが悔しさに踵を床に打ちつける。
 すると、掛かっているコートやマント、スーツの陰にきらりと光る物を見つけた。
 ぴんときて、それにかかっている布を引き剥がす。

「鏡……!」

 それは、くすんだ黄金の額におさめられた古い姿見だった。
 これしか方法は無い。しばらく会っていない彼女に呼び掛けるのだ。
 最後に、なんて言って別れたかも覚えていないけれど。
 きっと助けになってくれる。天空の城にいる彼女がフォルトゥーネであろうとなかろうと。

「メルヴィン。出てもらっていい? 時間稼ぎ、頼む」

「ここに籠城する気かい? それなら僕も一緒だ。絶対に君を処刑なんかさせない」

 心配そうに逞しい眉を傾ける若き侯爵を、セシルはじっと見つめ返した。

「オレだって火炙りにされるつもりなんかない。だから――」

 だからセシルは、勝気に口の端を持ち上げた。

「魔法、使っちゃおうかな。頭にきたから」

***

 メルヴィンがクローゼットの扉を守ってくれているのは、扉越しに聴こえてくる若いテノールと甘ったるいメゾソプラノの言い争いからも明らかだった。
 内側からも鍵をかけたから、開けられるにしても時間がかかるだろう。
 セシルは思い切り息を吸って、吐きだした。

「……リア。リア、いる? ちょっとまずいことになった」

 鏡は、揺らぐことなくセシルを映して艇、見つめる自分の碧の瞳が深刻そうに翳っている。
 違う。オレが見たいのは。
 クローゼットの扉を乱暴に叩く音がしはじめた。
 急かされるようにして、セシルも鏡に顔を近づけ、声を荒げる。

「リア! オレ、怒ってないから! だから――!」

「セシル!」

 そのとき、きらめきとともに鏡が喋った。
 ふわふわと揺れる長い亜麻色の髪を持つ乙女が、眉を傾けている。

「やっと会えたね!」

 うっすらと涙ぐむ少女につられて、セシルもうるっときてしまう。
 けれども、まだ気を緩めてはいけない。硬質な硝子に、手に手を取るようにして触れる。
「リア! それはこっちのセリフ! 今までどうして――」

「あなたのせいよ。〈マナの歌〉で〈マナの柱〉を不用意に起こすからバランスが崩れたの。なかなか会いに行けなかった」

「それよりも、今すぐここから逃げなきゃ!」

「もう、訊いたのはそっちじゃないの!」

 言い合いの末、リアはむすっとした。
 このやり取りをしばらくしていなかったなんて信じられないぐらい、自然だった。
 そしてリアは、鼻息荒く言った。

「来て」

「えっ?」

 セシルは、一瞬目を疑った。
 鏡からするりと真っ白な両腕が出てきたのだ。

***

「兵士が集まるまで待ってあげたわよ。〈地上の翼〉ごとセシルちゃんをよこしなさい」

 ベラドンナが、扉の前で立ち塞がっているメルヴィンにつかつかと近寄った。
 少年は勝ち気に睨みつけてくる母親を見下ろした。

「子ども扱いしていただいたところ申し訳ないのですが、僕はもう大人です」

「十六でもないのに?」

 そう言うベラドンナの背後には、十人程度の兵士が集まっていた。
 今か今かと指示を待っているようでもあり、親子喧嘩の行く末を見守っているようでもある。
 けれども、若き侯爵はひるまない。

「世間の成人よりは頭が切れる、と言う意味で言いました」

「もっとわかりやすく言いなさい――」

「これはこれは、何事かと思ったら」

 すぐに、開け放たれたの戸口から髪と同じ漆黒の装いをした男――ジャスティンが現れた。
 それに続き、静かな靴音が群れをなして階段を上がってくる。
 その音はさざ波のように寄せてきたが、引きはしない。

「やあ、メルヴィン。お招きありがとう。久方ぶりだ。時間どおりだったかな?」

 腹違いの兄は、たっぷりの笑顔で大仰に言った。

「いいえ、兄上。三分の遅刻です」

 弟が手厳しく返すのに、大公は息を吐いた。

「それは申し訳ない。客人を待たせてしまったようだ」

 四つの瞳に、女は髪を逆立てた。

「ジャスティン! なんであなたがここに! メルヴィンね……!」

「僕は、久しぶりにお茶会をと約束していただけです。そうですね、兄上」

「可愛らしい客人を招くと聞いて。それはぜひともご紹介にあずかりたくてね。私も独り身だから。しかし、これほど多いとは聞いていなかったが」

 年の離れた異母兄弟は、揃って肩をすくめあう。
 そして、弟よりも頭一つ高い兄は抜け目のない笑顔を浮かべて言った。

「して、マダム? セシル嬢と〈地上の翼〉がどうとか、仰っておいででしたな?」

***

 寒い。夏なのに、凍えるように寒い。
 セシルはぼうっとする頭で感じた。ごつごつと頬を圧迫するのは枕ではない。
 重たい頭を持ち上げようと、どうにか両の手をつく。
 すると、湿ってざらざらした感触が手のひらを支配した。
 ひやりと濡れそぼってはいるが、水に浸されてはいない。
 目をしばつかせながら開くと、そこは青白い闇に包まれた空間だった。
 夜明けの兆しの色に似ている、とセシルは思った。

「どこだ……?」

 少年の零した声が何倍にも拡大されるのに、静謐な雫の音が追随する。
 潤いのあるこだまが薄暗い空間に響きあうここはどうやら洞窟のようだ。水の青臭さもある。
 来て。
 セシルの耳に、少女の声が蘇る。それで、全てを思い出した。
 下品な女から逃げる時に、突然鏡から生えた両腕に引きずりこまれたのだ。

「リア? リア、いるの? どこ?」

 来て。
 透き通るようなソプラノのささやきが、洞窟の魔法によって幾重にも重なりあい、セシルを招く。それは柔らかで不思議と暖かく、夢へのいざないに似ていた。
 もしくは、ここは夢なのかもしれない。少年はぼんやりと立ち上がろうとした。
 だがかつらの毛先を踏みつけてヘアピンごと髪が攣れたり、ギンガムチェックのデイドレスが脚にまつわりついたりと、変に現実的だった。数分間、女装のあれこれにもたついてから、ようやく動ける運びになった。
 立ちあがり、改めて見回してみる。針のむしろのようになっているとげとげした天井は自然の仕業に違いない。しかし、こういう薄暗い洞窟を好む生き物の骨があるわけでもない。
 とにかく、空気いっぱいに静けさが詰め込まれたような空間だ。
 呼び声に近づくほかないようだ。セシルは腹をくくった。
 来て。
 セシルはゆっくりと慎重に歩み出した。
 足場はでこぼこしていて、底の厚いブーツに助けられた。
 濡れそぼった岩肌にバランスを崩したり、すんでのところで持ち直したりしながら、少年は声の呼ぶ方へと一歩ずつ着実に進んでいった。
 青の根源にだんだんと近づいている気がする。波打ちながら岩窟全体を染めている煌めきがどんどんと輝きを増しているのだ。ゆらゆらとまるで水の中にいるかのような錯覚さえ覚える。
 そのうち本当に、ひたひたと水の打ち寄せる音が大きく聴こえはじめてきた。
 やがて、セシルの想像が目の前に広がった。

「ふわ……!」

 息をのんで立ち尽くす。
 匂い立つほどの鮮やかな青色に輝く水たまりが、目の前に現れたのだ。
 しかも、その中心には黒々とした結晶が天井までそびえ立っている。
 来て。
 ふと、少女の声がすぐ傍で聴こえて、セシルは体をびくつかせた。
 驚きにきょろきょろと首を回すと、そこに知らない娘が立っていた。リアではない。
 輪郭がふわりと柔らかで鼻筋がまだ通っておらず、セシルと同じくらいの年齢に見える。
 青白い髪がふわふわと空中で泳ぎながらその毛先は空気に溶けている。

「呼んでたのって、君なの?」

 セシルが一歩踏み出すと少女は無邪気にくすくす笑った。その声は彼女の喉からは聴こえてこなかった。そしてその場でくるりと回って見せたかと思いきや、彼女はその姿を消した。
 一驚どころではない。度肝を抜かれて、セシルは少女が居た場所に駆け寄った。
 気配を感じ、すぐに振り返ると、少女はセシルが先程いた位置にいた。

「ひっ……!」

 幽霊か。セシルはぞっとして肌を粟立たせた。けれども不思議なことに、少女の霊が悪さを働くようには感じられない。直感はそう言っていても、初めて遭遇した幽霊を恐ろしいと思わないわけがない。思わず生唾を飲み込む。
 幽霊の、血の気の無いくちびるが動いた。
 歌って。
 その声はよく聴いてみると、透明なささやきは少女というよりも幼児のものに似ている。
 歌って。
 少女は両腕をセシルに差し出した。その瞬間に、言葉の響きが何倍にも増幅する。
 幼子の声に娘の、少年の、そして老若男女の声が一斉に重なったような重たいユニゾンだ。
 びりびりと足の裏から伝わる声に圧倒されながら、セシルはなんとか答えを絞り出した。

「……なにを?」

「〈ノクターン〉を。いらっしゃい」

 突然、聞きなれた少女の声が、遠くから聴こえた。闇の結晶の足元からだ。
 セシルが直感的に振り向くと、やはり、彼女がそこにいた。
 ふわふわ揺れる亜麻色の長い髪の娘。一目瞭然だった。

「リア」

 鏡の乙女のまわりを、幽霊の少女が囃し立てるようにくるくる回っている。
 そして嬉しそうに笑いながら、床をひとけりして柱の元へふわりとひとっ飛びしてしまった。
 セシルは、目がよかった。
 柱を包む湖の上でリアは幽霊と手をつなぎ、彼女を柱の中に押し込んだ。
 幽霊は名残惜しそうに、けれども子守唄を聴きながら眠りはじめる子どものようにうっとりと眼を閉じて体を沈めた。

「リア……!」

 駆け寄ろうとしたが、柱は湖に囲まれているため、セシルは一瞬ためらった。
 リアはゆったりと振り返ると、じっとこちらをを見つめて待ちうけていた。確信があった。
 恐る恐る水面につま先を触れさせると、押し返してくるような小さな抵抗があった。
 セシルは波紋が優しく揺れているのを信じて、一歩踏み出した。
 湖はセシルをその中へ引きずりこまなかった。沈ませずに、歩かせてくれる。
 不思議なことがこうも続いていると、あまり驚かなかった。
 水面は雨上がりの土のように、それなりにしっかりとセシルを受け止めてくれた。
 だから、足取りが落ち着くのも時間の問題だった。
 ゆっくりと湖面を踏みしめながら、幼なじみのそばに辿り着いた。

「やっと、会えたね」

 抜けるように白いドレスと揃いのロンググローブを纏っている少女は、花嫁のように美しかった。自分とそっくりの顔立ちとはいえ、素直にそう思った。そしてセシルは、リアが自分よりほんの少し小柄なのに気付いた。はじめて話すわけじゃないのに、なんだか気恥ずかしい。

「ありがとう。助けてくれて。それで、ここはどこなの?」

 少女は感謝の言葉を一つも喜ばなかった。

「ここは、誰も知らない場所。〈封印の間〉とでもいえばいいかしら」

「〈マナの柱〉があるところ?」

 セシルは空間を縦に貫く黒々と輝く結晶に触れた。パーシィも知りたいだろうな。

「どこにあるのさ――?」

「セシル。あなたを連れてくるつもりはなかったのよ……」

 リアの口ぶりは達観した、有無を言わせぬそれだった。少女は淀みなく続ける。

「でもあなたは何度止めても〈マナの歌〉を歌った。しかも、あまりに早いペースで。だからケルムのマナたちはあなたを次の〈歌い手〉に決めてしまった。突然活性化させられた〈マナの柱〉同士のバランスが崩れて、あらゆるものに影響が出てしまっている。治めなくては」

「なに、それ? また、遠まわしなことを言って! やっと会えたのに!」

 セシルがリアの手を取ろうとしたその時、体が勢い余って少女の体をすり抜けてしまった。
 一瞬、何が起こったかわからなくなる。リアも幽霊ってこと?
 重なった二人は微動だにしない。先に口を開いたのはリアだった。

「セシル。わたしに会いたい? あなたの運命が決まってしまうけれど、それでもいい?」

 少女の声が直接体に響く。少年は間髪いれずに答えた。

「会いたい。だから、来た!」

 セシルの気持ちも、彼女に伝わればいいと願って。

「〈地上の翼〉もある。いますぐ天空城ヘオフォニアに行くよ! ……って、あれ?」

 そう言いきった少年の拳には、先ほどベラドンナがよこした二つのコランダム――スタールビーとスターサファイアが無かった。慌ててポケットをまさぐるけれども、どこにもない。

「……落とした……」

 リアはくすっと噴き出すと、それからくつくつと腹を震わせて、セシルから離れた。

「馬鹿ね。〈地上の翼〉は〈非魔〉が見つけられるものじゃないのよ」

「えっ?」

 少女は、セシルが問いかける間もくれなかった。

「わかったわ。じゃあ、お願いセシル。歌って。あなたは〈闇のノクターン〉を」

 セシルは、言われたとおりにノクターンの調べを取り出した。
 青の空間はホールのように、音をしたがえている。
 古い言葉に、緩やかでロマンチックなチェロがソプラノに寄り添い始める。夜闇の星々がごとく、グロッケンシュピーレンが輝きを添えると、夕涼みのように清らかな風を感じる。
 するともう一つのソプラノが、不意に現れた。そのメロディは、セシルがよく知る曲だ。

「どうして、〈光のマドリガル〉を?」

 相反するマナを呼ぶ歌をオブリガートにしたのは、リアだった。

「二つは元々、一つの曲なのよ。さあ、続けて」

 二人は青く発光する水の舞台の上で、二重唱《デュエット》を奏でた。
 リアの歌声には乙女特有の柔らかさと固さがあり、セシルのそれは少年ゆえの水晶のような透明感があった。
 似通い、しかし異なるソプラノが青の洞窟空間そのものを奏でる。
 そこへ緩やかな〈バルカローレ〉の瑞々しいアルペジオに〈クラント〉のリズムが寄り添い、脈動を添える。かとおもいきや〈アリア〉が笛の音のように自由に現れて〈アパショナータ〉がヴァイオリンの激しさでそれを受け取る。
 セシルがモティーフの交錯に気付き歌うのをやめても、セシルの声はそのまま聴こえていた。
 碧の瞳が驚きで見開かれるのを、もうひと組みのそれが見つめた。

「マナが、あなたの歌声を覚えたの。おめでとう」

 そう言うと、リアはセシルの手を取った。
 少女の背には、見たこともない白い翼が生えていた。
 神々しいそれは石英のように透き通っているが、鳥のそれのように柔らかそうに見える。
 魔法の翼がふわりと二人を包み込んだ。彼女は唱える。

「目覚めなさい。魔女の子よ。その系譜に宿りし〈運命の翼〉を広げなさい」
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