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第一章 青き誓い

6、王子と赤薔薇姫(6)

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    青い林檎にかじりつき
      去る日の悔いに顔しかめ
    赤い林檎の蜜すすり
      ある日の恋に目を細め
    林檎が銀ならなにしよう
      くる日の財に隠しこめ
    林檎が金ならささげもの
      ゆく日の光にかざしましょう

 夢と悩みの浅瀬から聞こえてきた甘やかなソプラノで、グレイズは気がついた。
 浅い微睡みを漂っていたつもりが、いつの間にか深く眠り込んでいたらしい。
 東屋の暗がりを、薄ぼんやりと薔薇色が満たしている。
 まるで、花々の褥に横たわっているような気分だ。
 うっとりと瞳をしばたたかせる。
 それが愛しい少女のものだと気づくやいなや、グレイズは弾む心臓にまかせて飛び起きた。

「マルー!」

 知らないうちに、婚約者マルティータがグレイズの傍にいてくれた。

「はい、あなたのマルティータです」

 マルーの愛らしい顔が視界を占有していた。
 身体を預けられ、鼻と鼻が触れあいそうなほど近づいていたので、慌てて顎を引く。

「会いたかった」

 喜ぶ勢いのままマルティータを抱きしめると彼女はくすくすと小さく悲鳴を上げた。本物だ。

「グレイズ様、苦しいですわ」

「すまない。夢のようで」

 グレイズは短く詫びると、身体を離し、彼女のまだ大人になりきれていない柔らかな輪郭を両手で包み、うっとりと覗き込んだ。夢に見た出会いの頃から二年、彼女はすっかり貴婦人然とした風格を纏うようになったが、それでもまだ蕾のようで少女と呼ぶのが相応しいだろう。

「セルゲイには会えたのだね」

「はい。お送りして参りました」

 マルティータを特別にしている銀色の両目には、グレイズしか映っていない。

「それから、グレイズ様と、セルゲイ様も。ついに、言えたのですね」

 少女の熟れかけの瑞々しいくちびるから聞こえるソプラノには弱い。
 名を呼ばれる度に甘く心を締め付けられて、心に小さくて温かな灯火が燈るようだ。
 微笑まずにはいられない。

「どうして君が嬉しそうなんだ?」

「グレイズ様の嬉しいことですもの」

 彼の喜びを我が物としてくれるところも、彼女の素晴らしい長所のひとつだ。
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