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第一章 青き誓い

6、王子と赤薔薇姫(5)

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 御前試合の前日、グレイズはベルイエン離宮の自室にてひとしきり駄々をこねた。

「離れたくないよ、マルー」

「わたくしも」

 マルティータは膝に乗っているグレイズの頭を優しく撫でてくれた。
 十五歳になったマルティータは依然として少女であったが、グレイズが昏い思い出に打ち沈むときにはこうして姉のように慰めてくれた。

「ファロイスに戻れば、またしこたま絞られる日々だ。この一年、録に剣も握っていなかったのを父上は目ざとく気づくだろう。また、修行の日々だ」

「でも、陛下はグレイズ様の身長が半フィート以上も伸びた事をご存知ありませんわ。きっと逞しく素敵な騎士様におなりです」

「私は王太子だぞ。この平和の世で剣を振るう機会なんてないのに」

 がばりと身体を持ち上げて婚約者の顔にいじけてみせると、彼女は咎めるように瞳をしばたたかせた。

「いいえ。技も知ですわ。そのお体に武芸の叡智を刻み込むのが修行かと存じます」

「君もやるかい?」

 と、グレイズが覗き込むと、マルティータは小さくくちびるを突き出した。

「花嫁に武術が必要でしたら」

「いや、君の可愛い手に武器など持たせるものか」

 二人はどちらともなく手を取り合い、くすくすと微笑みを交換した。
 開いた窓辺でレースのカーテンがふわりと広がった。やがて冷たい風が吹き付けて、夕暮れの端を運びながら常春の庭の花々を無造作に散らすだろう。

「一年か」

 悪戯な風に飛ばされかけたショールを引き寄せて、マルティータに着せてやる。
 ジャケットを着ていても首元が冷やされると寒い。
 繋いでいる指先から微かに感じる温もりが、一層寒さを、いや寂しさを引き立てる。

「婚約を認めていただいたのですもの。一年ぐらい我慢できますわ」

「私にはとても長いよ、マルー」

「一年が終われば、そのあとはずっとお側におります。わたくしの命が尽きるまで」

 そう言うと、マルティータはうっとりと瞳を閉じた。
 何を期待しているのか、グレイズにはすぐにわかった。けれど、それには答えられない。
 これまで幾度となくくちづけの衝動に襲われてきたけれど、彼女を傷つけまいとしてぐっと押さえ込んできた。彼女の許可無くしてはできない。それはほとんどグレイズの誓いであった。
 彼女に自分のような辱め――望まぬ交渉を受けさせたくはない、ただその一心から。
 だから、左手の薬指にくちづけ、その手を優しく引いて、心を込めて少女を抱きしめた。
 腕の中、胸に身体を預けてくれる彼女は小さくてやわらかくて、温かかった……。
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