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異本 蠣崎新三郎の恋 その十二
しおりを挟むこれより三十年も先の後年、新三郎慶広は武家の世界ではなかなかの歌詠みとして知られるようになった。茶についても、詳しい。茶席で他人の所作を、つい正してしまうほどの知識があった。(もっともその相手には些かならぬ因縁があり、家同士の遺恨の種のひとつともなってしまったが。)
政治家としての慶広はもちろん、そうした自分の役回りをよく理解していた。
天下の北の果てになかなかの教養人がいる、というのは中原の権力者たちを興がらせる。
それがわかっているから慶広は、殿上においてこそしばしば蝦夷風の衣装を身にまとい、北の果ての虜囚の長らしく振舞ってみせた。天下の大戦には、アイノ兵を伴って参戦した。かれらの強弓が役に立ったからでもあるが、北夷の兵までが馳せ参じたという形は、この列島の覇者を喜ばせるのを知っていた。それでいて、どこで教わったものか、都ぶりすら思わせる典雅な振る舞いも身についているのである。面白がられた。
それゆえに同時に、重んじられた。
慶広が豊太閤(秀吉)や大御所(家康)という天下人たちと接した時期は、彼らの頭から大陸との関係が難題として離れなかった。未曽有の外征と、その後始末がある。大陸と地続きであるらしいと伝統的に誤解されていた蝦夷島は、捨てて置けるものではなかった。
したがって、それをおさえる主は粗略に扱うべきではないのだが、その者は幸いにして同文なのである。天下の外にありながら、天下人には武家として忠節を尽くし、新しい秩序に喜んで従ってくれる。まったくの異民族では、こうも行くまいと思わせた。天下の北に空いた穴を、塞いでいてくれる存在として期待されたのであった。
慶広本人が広大な蝦夷島のすみずみの地理に明るかったかといえば、その可能性は薄い。原住民であるアイノへの支配も、蝦夷島全土については実態の乏しい、ほぼ名目的なものに終始した。しかしかれは蝦夷島のかなり北方にまで目を配っていたし、少なくとも蝦夷島の住人の商圏が海を越えた大陸にまで広がっているのを熟知していた。そしてその商圏を、かれら自身の繁栄のため、新しい天下の商圏につなげることにひどく熱心だった。北の海と大地の夥しい富が、新しい天下に流れ込み、その津々浦々を充たしていく。
文化と経済で中央に連結する、北辺虜外の地の支配者。蠣崎あらため松前新三郎慶広が我が物とした地位は、そのようなものであった。
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